投稿者「dipex-j」のアーカイブ

英国人の喪失体験の語り

サリーには兄弟が4人いましたが、母親の死を皆に伝えるのは自分の役目であるように感じました。何が起こったのかを何度も繰り返し説明し、精神的な消耗感を感じました。

皆のために自分がしっかりしなくてはと思ったんです。自分のことよりも、皆のためにと。家に帰ったら、娘達に母が亡くなったことを伝えなくてはならない。とても悲しむだろうと思いました。それから、みんなに電話をすることから始めなければなりませんでした。この悲惨な事件のことを全員に話しました。5人兄弟ですが、すべての責任は自分にかかっていると感じたのです。自分がやらなければと。自分が全て仕切らなければと。それでそれはとても・・・。

自分ひとりで?

ええ。でも、とても大変でした。

どのように、皆さんにご連絡をされたのですか?何件にも電話を?

ええ、電話で。そうです。電話で。すごく疲れるんです。一日の終わりにはもう頭が爆発しそうでした。もう爆発しそうで。電話して、電話して、電話して、もうこれ以上できないほど。(次の日に)また同じ事を始めるんです。一人一人に何が起こったか説明して。皆知りたいんです。「母が亡くなりました。火事で。」とだけ言うわけにはいかないでしょ。どうして、何が起こったのって質問されるから。本当に何度も何度も何度も同じ話をしなければならない。とてもストレスが大きい作業でした。それに、当然電話も休みなくかかってくるんです。だから結局、私が全部しなければならなかったんです。

英国人の喪失体験の語り

マーティンは5歳の娘に母親が交通事故で亡くなったのだということを告げなければならなかった。娘は泣いたが、本当に母親は帰ってこないんだと理解するまでに数週間かかった。

事故現場を最後に見た後、私は娘のこと、またどのようにして、母親の死について説明しようか考えていました。その時、娘はステフの友達の家にいました。ステフの友達は玄関を開けたとき、ただただ涙をこらえていました。そして、娘を渡してくれました。私たちが今いる場所から道3本ほどの距離でしたが、娘を抱いて帰りました。私の姉とその恋人が私たちの前を歩いていました。家につくと、娘は困惑した表情をしていました。娘も何か悪いことが起こったと感じていたのでしょう。私はただ、彼女を座らせて言いました。「ごめんな。今日、横断歩道でバスがママに突っ込んだんだ。それで、ママは死んでしまった」と。5歳の娘はまだ全てを理解できなかったのでしょう。すぐに泣き始めましたが、母親を失った悲痛の涙ではなく、現実を信じることができない、困惑の涙でした。娘は、「公園で私がモンキー・バーで遊んでいる時、ママはもう見ることができないのね」と言っていました。
その時の私にできることと言えば、娘を抱きしめて、「パパが面倒を見てあげるからな」ということだけでした。何を言ったら良いか必死に考えていましたね。「何が起こったのかはっきりは分からないけど、ちゃんと面倒見てあげるからね。ママに起こったことは本当は起きちゃいけないことだったんだ」など。10分後、娘は友達と外に遊びに行っても良いか、と尋ねてきました。お母さんが本当に帰ってこないんだ、という実感は何週間後までなかったのでしょう。

英国人の喪失体験の語り

なぜ娘の遺体への面会が許可されなかったのか、検死審問の後になって、シンシアはその理由を理解することができた。しかし、できることなら死亡直後に理由説明をしてもらいたかったと考える。

お嬢さんのご遺体にあうことは許可されなかったとおっしゃいましたね。それは正しい判断だと思いますか。

後から考えたらね、そうね、正しかったと思うわ。私が、本当に何が起こったかを知ったのは、検死審問での目撃者の証言からだったわ。7ヶ月も経った後よ。目撃者のひとりは、事故直後は娘がただ怪我をしただけなのか死んでしまったのかわからなかったと言ったの。「でもその後トラックの下を覗き込んだら、彼女の顔がなかった、死んだに違いないと思った」と。その時はじめて何が起きたのか知ったのよ。

そうだったのですか。

娘の頭は相当に損傷がひどく、だから面会の許可も下りなかった。正しい判断だったと思うわ。でもね、その時にきちんとした説明がほしかった。

そうですね。

ただ手を握ったりするだけでもよかったのよ、そんな機会がほしかった。

本当にそうですね。

何かほんの少しでよかったの。

英国人の喪失体験の語り

ウィリアムは娘ローレンが亡くなった直後に、病院で遺体と対面しました。検死が終わり、死亡の2日後に遺体は葬儀会社により自宅に移されました。ローレンは彼女の部屋で葬儀の日まで

私は警察官に”体には大きな損傷があるのでしょうか?” と尋ねました。彼が、”見た目はそれほどでもないですよ”と言うので、娘の遺体と対面できるかどうかを尋ねました。その警察官と病院のスタッフが私をこの、確か蘇生室と書かれていた部屋のほうへ連れて行ってくれました。部屋の外には既にロレンの母親がいたので、二人一緒にその部屋へ入りました。そこには、遺体安置台の上でしたが、白い布で覆われた遺体がありました。その時までずっと、何かの間違いでロレンだと身元が判明されているだけで、本当は娘ではないだろうと言う希望を持っていたのですが、頭部の白い布が取り去られてみると、そこにはロレンがいました。

お悔やみ申し上げます。

有り難うございます。外傷はひどくはありませんでした。頭のこの辺りに2インチほどの深い傷があり、頭蓋骨が露出していましたが、その他はまだ生きているように見えました。私が足に触れてみると、まだ痙攣していたんです。

息子さんも対面したのですか?

いいえ。息子は病院では娘に会いませんでした。ずっとその部屋の外に居ました。それで良かったんだと思います。その日はそれでなくてもひどいショックを受けていたのですから。でも検死が終わって二日後にロレンの遺体が家へ戻ってきた時には、彼もロレンと対面して、最後の時間を過ごしていました。

娘さんを家に連れてきてもらったんですよね。

ええ、そうです。娘の遺体が家へ戻ってくるということにある種、不思議な気持ちの高ぶりがありました。始めの何日か、いや、何週間かはこの人が永遠に居なくなってしまったという事実を受け入れることができないものなんです。それで、木曜日の朝だったと思うのですが、待ってください、事故は火曜日に起こったのですから、そうです、木曜日の朝にですね、葬儀屋の人がロレンの遺体を家へ運ぶと言った時、なぜだか急にそんなに悪くないことのように思えたんです。ロレンを家の彼女の部屋に迎れられたのは良いことでした。ただ葬儀の時になって、再びロレン別れを告げることになると思うと、気が進みませんでした。
それでも金曜日に葬儀が執り行われました。良く覚えています。葬儀に先立って2、3、些細なですが、不愉快なことがありました。何にしてもぎこちない状況だった訳ですが。一つ目は、これは2005年の夏だったのですが、棺は蓋を開けたままでしたから、葬儀の日の朝にはロレンの部屋には死臭が漂っていました。心地よい匂いではありません。親戚の中にはその部屋にロレンに会いに行った者も居ましたが、行かない者も居ました。それはそれでいいんです。

英国人の喪失体験の語り

ピーターは息子のティムを抱きしめたかったけれど、遺体安置所のガラスの仕切りを通してしか彼の遺体を見ることが許されなかったと語ってくれました。

遺体安置所に着いたとき、あなたはガラスの仕切りを通して息子さん見るしかなかったとおっしゃいましたね。

ええ、そうです、ティムは・・・。

あなたはそのことについてどのように感じました?

彼を引き寄せて、抱きしめたかった・・・。

そうですよね。なぜ駄目なのか、説明はありました?

ええ、彼らの説明では、息子はちょっと大変な状況なので、ガラスの仕切りを通してしか会えないということでした。息子の遺体はきちんと整えられて、きれいにみえましたよ。

彼に触れたいと思っても、もっと近寄って触れることができない理由の説明はありました?

いえ、ありません。なかったと思います。彼女はほんとに良くやってくれたのではないでしょうか、ガラス越しに会うことしかできないのは明白でしたし、私たちもそれでよいと思ったんです。

辛かったでしょうね?

そう、とても辛いことでした。私たちみんなが望んだことは、何とかして彼を生き返らせることでした、だってほんの数時間前までは、何とかできたかもしれない、でもそれは明らかにありえない、何時間かたった今は、抱き寄せて生き返らせようとしても、近寄ることも、触れることもできず、彼が向こう側にいる事実を受け入れるしかない。ティムが本当に死んでしまったという事実を受け入れる一方で、私たちは(車を運転していた)彼の友人のこと、その家族のこと、そして彼らが体験しなければならなかった事柄についても考えました。

英国人の喪失体験の語り

パットは、遺体安置所で息子と2人きりになりたかったけれど、検死官が付き添っていたために、それも叶わず、息子を洗ってやることも着替えをさせることもできなかったことに納得でき

今思い返すと、彼に会いにいったことは正しい決断でしたか。

もちろんです。彼に会うことができなかったら私はどうなっていたか分かりません。良かったと思います。私たちは彼に会わなければならなかったんです。会わなければいけなかった、でも私は自分についてしか言えませんが、これが息子を見る最後の機会だ、ということを実感することができませんでした。その時、もう少しはっきり考えられれば良かったな、と思います。そして、部屋から出た後、検死官の方とお話しました。そして、戻って息子を自分で見に行っても良いかその時聞きました。ようやく息子に触れたい、と思ったのです。
自由に音を立てて自分の思いを表現したい。そう思いましたが、のどがつまり、何の音も出てきませんでした。のどを開くことも、声を出すことも全くできない、そんな状態だったのです。声が出ない・・・。話すこともできず、表現したいことも出てきませんでした。何となく、こうしたいという願望はあったので、検死官の方にもう一度戻って息子に会っても良いか聞くと、気前良く会わせて下さいました。私の元主人は顔をしかめていました。行ってほしくなかったのでしょうね。私は彼に言いました。「あのね、私は・・・。」彼は私に「お前、取り乱すなよ。」と子どもにでも言いそうな表情を向けました。「あのね、私、ばかな真似はしないわ。ただ、あの子と一緒にもう一度居たいだけなの。」私はそう言いました。そして、また部屋へ戻りました。でもやっぱりルールだったのでしょうか。検死官の方は再び私と一緒に部屋へ戻りました。そして、小さなガラスのスクリーンの向こう側でずっと私のことを監視していました。だから、私は一度も自分の息子、マシューと二人きりになることは許されませんでした。それは今も後悔していますし、なぜ母親が実の子と二人きりになりたくてもなれないのか、理解できません。なぜ、私は実の息子を洗って、服を着させ、面倒を見てあげたりと、この世界に助けを必要として入ってきたときと同じように彼に接することが許されなかったのか理解できません。私はそうしたかったのです。多くの人は同じように思わないかもしれないし、できなかったかもしれない。でも、私にはできたんです。皆さんは私にとても優しくしてくださってとても感謝でした。でも、なぜ、団体、州、政府、もしくは警官たちが私の息子を私から引き離して、彼らが一番息子にとって良いと思うことをしたのか、分かりませんでした。そして、突然私は外部者となり、息子のために何も出来ませんでした。彼は誰か他の人の所有物であり、彼に会いに行くことさえも許可なしにはできなくなってしまいました。そして、彼に会いに行く時も監視されなければいけませんでした。

息子さんと二人きりになりたいと、お尋ねになられたのですか。

いいえ。声が出なかったんです。全くと言っていいほど、声が出なかったんです。
本当は、検死官の方を尊敬していますし、悪口は言いたくありません。彼女もきっと融通を利かせて下さったでしょうし、 頼んだらできる限りのことはしてくれたとは思います。でも、もっと理解を示してほしかったですね。特に子どもを産み、自分の中に宿し、愛し、一生世話をしてきた母親への理解にもっと努めてほしいですね。死の時点でその子どもがどんなに大人であったとしても、母親は子どもの面倒を見てあげたいものです。私の場合、看護婦という職を持ち、他の人々の死後のお手伝いをさせていただいていました。それなのに、私自身の息子が死んだ時にはなんの手伝いをすることも許されませんでした。突然、息子の死は事件となり、オペレーションとなってしまいました。コード名も付けられ、他人のために用いられる対象となり、私は何を知るにも聞いたり、彼に近づくこともできない存在となってしまったのです。このような時、私はもっと理解力、柔軟性、そして個人の資格、技能、その場に応じた要望、願いなどを把握する努力をして下さることをお願いしたいです。私にとって、このように何もできない状況に置かれたことはとても悲痛な経験でした。

英国人の喪失体験の語り

エリザベスは娘マーニーの遺体と対面するのに時間がかかったことに憤慨した。エリザベスは娘に触れたかったし、誰も彼女を止めなかったことをありがたいと思った。

すぐに会いたかったのです。何か自分にできることがあるかもしれないと思ったから。母親ならみなそう思います。何かしら良いようにできるって。

どこで遺体と対面しましたか?

遺体安置所です。

市の安置所ですか?

そうです。

安置所で娘さんの遺体と会うことは良かったと思いますか?

もちろん。もちろんそうです。待つことなんてできませんでした。2時30分に事故があったのに、私が(事故のことを)知ったのは4時45分ですよ。とても腹立たしかった。

そうですね。長い時間でしたね。

ひどいと思いました。とても長い時間に思えました。もっと前に知らせてくれたら、(マーニを救うために)何かできたのにと。もちろんそんなことは不可能だったけれど。娘はすでに現場で亡くなって、病院に急いで運ばれる必要などなかったことを後から知りました。

娘さんの遺体は、どんな様子でしたか?

まるで今にも起きてきそうでした。まるで今にも私を見て、「ひっかかった!」って、言いそうでした。 今にも目を開けそうでした。

(遺体に)触ることは許されましたか?

勿論です。誰も私のことを止めることはできなかったと思います。実際に誰も止めませんでした。触っちゃいけないと言われるかと思っただけで、とても頭に来ました。この子は私の娘です、触っちゃいけないってどういうこと、って。でも誰も私を止めませんでした。皆(私を止められないと)わかっていたんだと思います。今だって遺族が遺体に触ることを止めないでしょう?それとも駄目なんですか?

ケースバイケースです。もし殺人の被害者であったりした場合は、違うと思います。

そうね。でも明らかに事故死ですから。疑問を挟む余地はありません。ただ、遺体に対面する前に、顔に打撲の跡があると言われました。でも、たいしたことはありませんでした。顔の横にちょっとガラスで切れた傷がありましたが、全然たいしたことはありませんでした。髪の毛は乱れてたし、血も少しついていて、マーニは(そんな風に見えるのは)嫌だったと思うけど。でも本当に普通に見えました。

英国人の喪失体験の語り

ニコラスの検死が行われる前に、ジョセフィーンは病院の遺体安置所で何時間も彼と過ごしました。その3日間には、ジョセフィーンの友人や家族もニコラスのもとを訪れました。

私たちが実際どれくらいそこにいたのか、私にはわかりません。多分2時間ほどだったでしょうか。私たちは・・、私はニコラスの身体に触れたいと思いました。木製の架台にカバーを掛けられて在る彼なんてみたくなかった、何もかも・・ほんの数時間前までは生きていたんです、彼が死んでしまったからって、どうしてそばにいたくないなんてことがあるでしょう?それから、彼は・・・・すごくきれいに見えたわ。母は、その3週間ほど前に癌だって診断されて、その数ヶ月後には亡くなったのだけど、母もニコラスも恍惚とした表情をしてた、まるで何かオルガズムのような陶然とした様子で、すばらしいことよね(笑)、怖ろしい感じなんて全然ないの、エクスタシーの表情だった。

貴方おひとりだけで彼のそばにいらしたの?

いいえ、私たち家族は皆一緒でした、でも実際に彼と一緒にいたのは私だけです。私たちは3日間毎日彼に会いに行ったのです。

警官も脇に立ち会って居なければならなかったの?

いえ、いえ、そうじゃありません。

家族だけにしてくれたの?

私たち(ジョセフィーンと友人たち)をそこに残してくれたのです、そうです。私たちのために時間をつくってくれたんです。とても親切だったわ。ひとつだけ心残りといえば、あれをもって行かなかったこと・・・思いつかなかったのよ(笑)・・・今ならもっと考えたと思うのだけど、レコードプレイヤーをもって行って、彼が好きなハリ・クリシュナの音楽を聴かせてあげれば良かった。毎朝彼はその曲を一種の瞑想法として利用して、それを聴きながら自分の部屋で、何も身に着けずに踊ったり、詩を暗唱したりしていたわ。とてもきれいな曲で、以前と同じように感じられたわ。これとは別の話だけど、検視官はとても親切でした。解剖が必要だったのだけど、私は彼の身体を妨げて欲しくなかったの・・、彼をそのまま送り出したいと感じていたので、検視官に言ったの、「私たちは仏教を信じているのよ、だから3日間は遺体を邪魔しないでほしいの」って。検視官はそれを受け入れてくれたので、3日間お通夜みたいなことをしてすごしたわ。毎日、午後になると私たちも、友人たちも、そこに集まって遺骸と一緒に時を過ごした、そこには彼の存在が感じられ、まるで一緒にいるみたいだった。私のスカーフをその身体に着けてあげた、頭を後ろのほうに曲げていたので、頭の下にスカーフを挿入したの。3日目には、台車の脇に身体を横たえて、彼の身体を抱きしめ、身体は冷え切って生気は感じられなかったけれど、とても身近に感じられ、なじんだ気がした。そうすることが許されるのが大事なの。

英国人の喪失体験の語り

サリーは遺体の確認をしなければ良かったと思った。母親の遺体は火災により損傷がひどく、変わり果てた姿にショックを受けたからである。

私たちは身元を確認するように言われたのですが、私にはできないと断りました。口の中も含め遺体がすすに覆われており、損傷が激しいと言われたので、できないと言いました。それで彼だけ中に入ったのですが、結局、身元の確認はできませんでした。

彼とは、お兄様ですか?

そうです。兄は「確認ができない。わからない。お母さんに見えない。お母さんじゃない」と言いました。それで、私が中に入るしかなかったんです。兄ができなかったので、私が身元確認せざるを得なかったんです。

そうだったのですか。

はい、母に全然見えないって、兄が言ったので。

とてもつらい経験でしたね。

ええ。そう、私がしなければならなかった。遺体を一目見ただけで、すぐに母だとわかりました。本当に1秒足らずで(わかりました)。それ以上見たら、母親のその変わり果てた姿だけを思い出すことになると。母親の遺体確認は、この事故に関することのなかで最もつらい経験でした。遺体確認などしなければよかった。今まで生きてきて一番つらいことだったと思います。もう二度としたくない。あれから、どんな遺体も見ることを避けています。

あなた方お二人だけが身元を確認できる人だったのですか?

そうです。その上、兄が確認できなかったので。ただ、本当につらい経験でした。一連の出来事の中では、本当に最もつらいことでした。

その時の光景に、今もまだ苦しめられていますか?

(ため息)いいえ。でもまだ覚えてます。まだはっきりと鮮明に覚えてます。でも、だんだん薄れてはいくでしょう。私は本当に一瞬見ただけで言ったんです。「母です。」と。それで(遺体のある)部屋を出ました。

そこには、ガラスの仕切りがあったのでしょうか?

いいえ。病院の安置所でした。

英国人の喪失体験の語り

ロンドン爆弾テロの事件後、ローズマリーは、警察から死亡したジェームスの遺体確認を希望するかどうか尋ねられた。ローズマリーは夫と相談し、遺体確認はしないという決断を下した。

この件について言いたいことは、警察の連絡担当官に関することです。もちろん彼らにとってもあまりいい気持ちはしなかったでしょうけど、「遺体確認をしますか。」と私たちに尋ねることになっていました。私たちはとっさに、実は義理の姉妹でしたけど、彼女はこういう件に詳しかったので、「いいえ、絶対だめ。あなたたちはそういうことはしなくていいの。こういう場合は、おそろしいほどつらいものよ。」と言ったのです。もちろん、他の人がやってくれたのというのはとても重要なことでした。でも、今でも本当はすべきだったかどうか分からないのです。私の心の中のどこかでは、まだ終結してないと思っている。同時に、そんなことはどうでもいいことだとも思っている。大切なことは、実際に何が起こったか把握することだと思います。遺体確認するかどうかなど分かりません。きっとそういう風には対処しないのかもしれませんね。よく分からないけど、私に関して言えば、確認すべきだったかどうか本当のところ分からないままです。

だから尋ねられた時、家族の問題として話合ったのですね。

私たちは遺体確認しないとはっきり決めましたし、正しい結論だと言われました。それは、もし遺体の他の部分が見つかった時に、廃却していいかどうかにも答えなければいけなかったし、そんなことも尋ねなければいけないとは理解してるけどけど、呆然としてる時には分からないでしょう。そして後になっていろいろ思うものです。まあ、こんな時に何て事をきくの、遺体の一部を見つけて、誰かの体の一部なのに、それを取り戻したいかなんて。だから、正しいことなんでしょうけど、「はい、そうです。」と言うべきだったかどうかなんてことを考えてしまいます。
そう、現実的によく考えればここが重要な点で、私の気持ちとしては、正しい判断だったと思っています。そういう風に(ばらばらになった遺体のまま)誰かを記憶しておくなんてできません。それはいいことじゃないです。