投稿者「dipex-j」のアーカイブ

英国人の喪失体験の語り

レイチェルの息子は異国で爆弾テロに遭い、死亡しました。彼女は息子のタトゥとパスポートの写真とで身元確認をすることができ、その遺体との対面もしました。

息子(の遺体)は翌週に家に戻ってきました。翌週の月曜日に。遺体が到着する前に、面会したのが、えーと、何って言いましたっけ?・・・

検死官ですか?

そう、そうです。とても感じの良い女性で、これから何が行われるのか説明してくれたわ。そしてこの時、検死解剖がこれから必要なのだと解りました。会社からは息子は沢山の外傷を頭等に負っていると聞いていました。彼の体は明らかにぺちゃんこに押しつぶされて居ると聞いていました。これからまた、解剖する事により体を更に引き裂かれ切り刻まれると思うと、「どうして?」と思うばかりでした。彼は明らかに何によって怪我をして死んでしまったのかは、一目瞭然であり、解剖する意義がどこにあるのでしょう。
しかし、悔しいことですが、これは法律で定められた解剖で、私たちにはどうする事も出来ませんでした。
一方、良かった事は彼らが息子の遺体を月曜日には飛行機でこちらに送り返してくれるということで、火曜日には検視解剖が行われるというのです。私はどうしても火曜日の検視解剖の前に息子に会いたい、会わなければならないと強く要求したのです。
息子は月曜日のお昼頃ヒースロー空港に到着し、私たちが住んでいる町に戻り、葬儀場に着きました。会社の人達は午後11時45分に私たちに、息子が着いた事を知らせに来てくれました。

そして次の日に彼に会いにいったのですか?

ええ。次の日の朝に。起きてすぐに向かいました。だって私たちの息子だって事を確認しなくてはならないから。彼は2、3個のタトゥーがあったのですぐに身元が確認が出来きました。彼女がどんなタトゥーかって聞いて、私がどんなタトゥーかって答えて。それで、彼女は息子のパスポートを持っていて、その中の写真を私に見せて、息子かどうか確認しました。

検死官がですか?

ええ、そうよ。「これは私の息子だったの?」と聞きました。「はい。そうでした。」と答えてくれました。彼女は死体を綺麗にする作業に従事していると言ってたから、息子も綺麗にしたか聞きました。そして、「私が息子を見たら、わかる?」って聞いたら、「多分、わからないと思います。」って言ったわ。これは少しショックだった。続けて彼女は、「彼はパスポートの写真と同じ姿はもうしていないと思います。」と言い、私は遺体を確認しに向かいました。

気持ちをしっかり保つことが出来ましたか?

はい。でも、旦那と娘は息子に会いに行きたがらず、結局一度も見ないままです。行きたくないのですよ。

彼に会って良かったですか?

絶対に、良かったと思います。息子だと確認しなくてはならなかったし。それにもしかしたら、万が一、彼らは人違いしてるかもしれなかったし・・・、でも間違いなく息子でした。

彼としばらく一緒にいる事は出来ましたか?

ええ。居たいだけ、居る事ができました。

つまり、独りで居られたということですか?

彼ら、いいえ、彼女が後ろに居ました。でも、決して押し付けがましくはなかったです。彼女は部屋の真後ろに居ました。しかしそれは初日だけで、その後に私が訪れたときは誰もいなかったです。初日以降は、私独りで部屋に入り、独りでそこにいました。

という事は、また彼に会いに戻ったのですか?

毎日行きました、埋葬の日まで、毎日会いにいきました。ええ。彼の友達にも何時でも訪ねていけるようにしました。彼に会いたい人には誰でも会ってもらえるようにしました。

彼と一緒にいると気持ちが安らぎました?

安らぐ?

というか、彼は本当に死んだのだと自分に言い聞かせるほかなかったのでしょうか?

そうですね。これは私の息子だろうと理解しなくてはいけなかったの。わかるでしょ。沢山の怪我があって、酷い頭の損傷もあって、足は折れてて、体の左半分は完全に怪我しているというよりも押しつぶされているのよ。こんな体になっても、私の息子なんだって。たったイラクに行ってから1週間だけど、それでもやっぱり、これはデイブなのだって思いました。

英国人の喪失体験の語り

マーティンは死んだ妻の身元確認を頼まれた。妻の手を取った時には、あまりの冷たさにショックを受けた。

その後、奥さんの顔を見る機会はありましたか。

はい、事故の2日後、身元確認のために、病院の遺体安置所に行かなければなりませんでした。警察の連絡係の方が、私と私の姉、そしてステフの父母、そしてステフの二人の姉妹を連れて行ってくれました。私が正式な身元確認をするために先に警察に行きました。それまで遺体安置所に行ったことはありませんでした。初めに病院の待合室のような小さな部屋に通されました。すると、警察の連絡係の方に、妻の顔にいくつかあざがある、と言われました。私はこれからどんな姿の妻を見るのか、と全く想像がつきませんでした。部屋に入ると、妻は首までは覆われ、左手だけがシーツから出されていました。私が彼女の手を握ることができるように配慮してくださったんです。
あれが軽いあざというものならば、重症のあざやケガは絶対に見たくないと思いました。私の姉も、「本当にステフなの?」と尋ねたほどの形相でした。姉は、ステフが死に至るまで本当にひどく打ちつけられたことを思い知ったようでした。この時の記憶は定かではないですが、何となく、彼女の口は開いたままで、目の周りは縫われ、口から鼻にかけては黒と青色に変色していたことを覚えています。事故の時、タイヤが彼女の顔の上を通ったのでしょう。しっかりとステフの手を握り締めましたが、彼女の冷たさにまたショックを受けました。

英国人の喪失体験の語り

ニーナはポターズ・バー列車事故※の犠牲者全員のために、賠償金を勝ちとる運動に力を尽くしました。鉄道会社が事故の責任を認めた後に、オースティンの死を実感し、それが大きな打撃となった。

でもそれから徐々に何が起こったか分かってきて、ずっと調子が悪かったみたいですけれど、どうやら分岐器に欠陥があったみたいで、レールトラック(※事故当時、イギリス鉄道網の殆どを管理していた企業グループ)の主張によれば、その分岐器に、営業妨害の可能性もある、古いゴミがたい積していたらしく、まったくの整備不良によるもので、産業保安局の査察官が言うところによると、「すかんぴんの整備が原因だった」そうで。良い表現ですよね、「すかんぴんの整備」って。だけれども相手はどうしても責任を認めようとはしなかった。それもあって事故から2~3年は悲しみに暮れるようなことはしていませんでした。私は荒れていました。

賠償金は鉄道会社から支払われたのですか?

賠償金は結局、支払われることとなり、きちんとした額でほっとしました、これについて私はどうかわからないのだけれども・・・年金生活を送っていた老年の母親が当時橋の下を歩いていた時、列車が通過した際に起こった落石で命を落として、その彼女には2人の娘がいたのだけれど、母親は事故当時、扶養家族が誰もいなかったとの理由で、彼女の娘2人には補償が下りないと言われてしまいました。まるで彼女には何の価値も無いかのように。彼女の命には何も価値が無いから補償は下りないと。だけど結局は向こうも責任を認めたみたいでほっとしました。そして恐らくその時にオースティンはもう帰ってこないのだと悟ったのだと思います。
これが、事故は本当だったのだと悟った後の、私に起こった事の顛末です。まあ敢えて言うならば、何かこと切れたのでしょう。それ以来、ちゃんとした外出も控えるようになりました。最近はすっかり家を離れるのが怖くなってしまい、人混みに出て行くことさえも怖くなってしまいました。

英国人の喪失体験の語り

サラは、三週間後仕事に戻り、日常業務に追われることが助けになったが、それから二年あまり経ったいまも、ラッセルは本当に死んだのだという思いにとらわれると、いまだに身体的反応が起こる。

食事ができないということはなかったし、大抵は良く眠ることもできたけれど、その一方で、ひどく恐ろしい夢を見たことをお話しました。でも、そのような夢を見る頻度は少なくなってきました。朝は目覚めることが特に難しく、非常に気分が悪くなってしまうことがちょくちょくあることにも気がつきました。不定の症状ですが、でもとても具合が悪くって、ベッドから離れられないんです。幸いなことに、3週間後に仕事に復帰したことが非常に助けとなり、刺激が得られてベッドから起き上がることができました。私にとっては、いつもの日課を維持することが確かに助けとなりました。朝に具合が悪いことが最初の一年間は続きましたが、時間が経過するにつれてそれは確実に減って行きました。でも、時々全く理由もなしに、朝具合が悪くなることは今でも続いており、ひどいものです。
「現実にぶち当たること」、これはとても不安な感情で、通常、突然起きるのです。時々、何かを考えていると、突然に、起こってしまった現実が蘇ってくるのです。例えば、ある日洗面所で顔を洗っていると、車の音が聞こえ、「ラッセルが帰って来たわ」と思うのですが、彼は殺されたのだからそんなはずはないと気づくのです。
そう思うと、まるでみぞおちに強い一撃をくらったような感覚を覚えます。それは急激で、表現できないほど素早く起こるのですが、身体に猛烈なパンチを一発受けたような感じがして、息を飲み込んでしまい、落ち着きを取り戻すまでは数回深呼吸をしなければいけません。とりわけ全く前触れなしに現れるときの不快な感覚は、潜在意識下で起きる反応のように思えます。
制服を着ている人、たいていは店の警備員なんかなのですが、そんな人物と遭遇したときに突然「パニック発作」反応を起したことが2、3回あります。例えば、ある日、警備員が私の後ろに近付いてきて、「すみません」と話しかけてきたのです。振り向いてその警備員を見ると、突然パニック状態に陥るのです。実際、その警備員はもうすぐ閉店することを話していただけなのですが、私は一瞬、それがほとんどわからなくなってしまったのです。彼はあの最初の日にやって来た警察官と同じ白いシャツと暗い色のズボンを着ていました。
それから数回同じようなことが起きました。本当に突然起きるので不安を感じます。救急車のサイレンの音が非常に異なって聞こえることにも気がつきました。何とか自分の感情を強くコントロールしていますが、このような身体的な兆候は前兆無しに起きてしまい、完全に潜在的なのでコントロールすることはできません。だからとても恐ろしいのです。
最後に、一番難しいこと、そして今でもまだ直視できなくて、時々私をとても悩ませることは、ラッセルに起きたことを考えるといつも体調が悪くなってしまうことです。いま、このことを書くことですら気分が悪くなってしまうので、もうこれ以上はお話ししません。9月21日の4時30分までは普通の生活を送る普通の女性でしたが、今はもう二度と普通に戻ることができないと感じています。私の母がいつも言っていることは「受容」です。生活の中に幸せと平和を見つけるためには、人は自分に起きることを受け入れなければならないというのです。でもそれは私には不可能と思います。なぜなら、ラッセルと私の家族に起きたことはどう考えても受け入れることができないからです。

英国人の喪失体験の語り

ラッセルが亡くなった後、サラにとって一番大切だったことは、子供達をどう守っていくかでした。その現実に直面した時、彼女は、夫だけでなく自分自身をも失ったように感じた。

貴方はこれまで、事故の日から年月を経たときどきのご自分の感情を、実際にはあまり表現してきませんでしたね。つまり、ラッセルさんを失ったことによるショックのことですが・・。

ええ、ショックだったとは思いますが、信じられないくらい冷静でした。私たち夫婦はとても独立した生活を送っていましたし、ラッセルを亡くしてからの最初の数日も、「そう、私なら大丈夫。だって、私は家に帰って夫と毎晩一緒にお茶をするようなタイプの人間ではないんだもの」と言いながらずっと過ごしていました。私は独立した生活をしていましたから、毎日仕事が終わって一緒に帰宅し、一緒にお茶を飲み、一晩中隣に座って過ごすタイプの人たちに比べれば、ずっと容易にショックに耐えられるはずでした。そしてこれからもそうであると思い続けていましたし、有り難いことに、他の人々よりもショックが少ないだろうと思っていました。
ところが、少し時間がたつと、実際の現実は違いました。最初、私は子供達のことを信じられない程守っていて、私にとって一番大切だったことは、その時自分に起きていたどんなことよりもむしろ、子供達をどう守っていくかでした。そしてその後、これがこれからも一生ずっと続いていくのだという現実に直面したとき、初めのうちは家が嫌になり、家に入ろうとするたびに、本当にいやでいやで仕方なくなりました。よくシャワーを浴びているときに動けなくなることがありました。シャワーを浴びに行くと動けなくなり、完全に身動きができなくなって、浴室から出られなくなりました。馬鹿げているように聞こえますが、車の中にいるといつも、あの最初の夜の体験が蘇ってくるのを感じ、それが一年以上も続いていて、恐怖なんです。

経験というのは、病院に行ったときのことですか?

そう、今話したようなストーリーの記憶が蘇ってくるのです。車のハンドルを握った瞬間、頭の中がそうなるのです。警察官が車のドアの周りにいて、あのときの体験がすべて蘇るのです。怖ろしい夢の中では、しばしば死や衝突のシーンが出てきたりしました。時には部屋いっぱいに子供達や、またある時はセキセイインコがいて、それが押しつぶされて全部死んでしまう夢を見ることもありました。

怖ろしいですね。

ひどいものでした。そのときは「独りで生きたくない、独りになんてなりたくない」と、将来に対する対的な恐怖を感じながら何度も何度もそう思いました。私たち夫婦はともに定年を間近に控え、ラッセルはあと6ヶ月、私はあと1年という時でした。一緒に計画も立てていたのに、私の未来は、私の計画はどうなるの?と思い、今は自分の生活全てが奪われてしまったように感じました。ある時には、すっかり自信を失ってしまいました。私は妻でしたから、自分の分身ともいうべき人を失ったのですから、まるで自分がいなくなったように感じたのです。夫との関係も安定し、将来計画も練り上げ、自信にみちていたところから、文字通り一瞬のうちに全てを失ったのです。ですから、彼を失い、自分を失い、人生を失ったと感じたのです。それから、じっくりと考える時間があって、こう思うようになったの。彼は私よりももっとしたいことが沢山あったのに、私は元気で生きていて、彼が死んでしまったのは公平じゃないと思った、泣きごとを言うのは止めなきゃと思ったわ。彼は最後の10年~15年の間に、退職後のために色々なものを集めていたのに、それをもう使えなくなったし、遊ぶことも、楽しむこともできなくなったの、それはすごく不公平だと思えてきたの。極度の疲労感、完全な疲労感を覚えて、それがいつまでも続くように感じる。いまでもまだ本当に疲れを感じているの。夫に先立たれ、それを乗り越えようとして、でも最後には全て上手くいくだろうということを理屈でわかっている論理的な思考と、真っ暗な穴に突き落とされて這い出すことができない非論理的な思考を併せ持った二重人格者みたいに感じるからだわ。だから、とてつもないジェットコースターに乗っているようなものなのよ。時々は、町を歩いていて、こう思うの、「そうよね。人生は一度きりだし、私はそれを学んだの。だから、それを精一杯生きなきゃいけない。だからこういう良いことは全てやろう」と考える。すると、前向きになり自分に自信が持てるようになるの。ところが次の日の朝、目覚めてみると、絶望に陥り、完全にコントロールを失い、「一体、どうしてこんなことになってしまったのか」と思ってしまう。ある朝には、前向きで自分に自信を感じながらシャワーを浴びており、確かに私はコントロールできているし、ものごとが順調に行っていると思うのだけど、寝室に入って写真を見ると、30秒もしないうちに前向きな気持ちから深い絶望に落ち込んでしまう。これは、ほんとに信じられないくらい疲れることで、その疲労感はとても説明できません。

それはつい最近のこと?

いいえ、6ヵ月か、8ヶ月前のことです。でも、今でも自信を持ち、前向きになることができる日があるのですが。ラッセルが亡くなってから2年目となる前の夏のころのことですが、それまで本当にものごとが上手くいっていると確かに感じるときが数か月ありました。でも、2度目の命日のあたりでは、またトラウマの時期を迎え、6~8ヶ月前の状態に押し戻されてしまったのです。

英国人の喪失体験の語り

スザンナは、2002年のバリ島爆破テロ事件で弟が亡くなった後に感じたこと、生き残った者の罪悪感やその他の感情について語った。彼女は疲れ果て、自分の喪失感を新聞に投稿するという作業で心の中の抑圧された感情を解き放つことができたと語っている。

悲しみに暮れる遺族にとっては、いろいろなことが起こります。その場にいなかったにもかかわらず、心に感じる罪悪感にも苦しみます。その他にも、疲労困憊し想像を絶するような精神的につらい状態にあるため、身の回りで起こった多くのことをよく覚えていないんです。周りからは冷静に見えたかもしれませんが、そんな状態にはありませんでした。最近、インディペンデント紙に私の書いた記事が載ったのですが、書くという作業で、かなり感情を解き放つことができました。何ヶ月も何ヶ月もの間、混乱やショックの中にいましたから。不眠や悪夢、そして気が狂いそうな 死臭にも悩まされ続けて。書くためには集中しなければならない。その努力を3、4ヶ月続けると、なんとか集中できるようになってきました。仕事でも集中しようと努めました。その後、テロの犯人の裁判が始まり、マスコミから電話がどんどんかかってきました。事件は事件。テロを起こした人間の目的は理解できない。裁判に伴う膨大な量の(テロに関する)情報は、日常生活の色々な面に支障をきたしました。私には他に兄弟や姉妹はいません。ダンは私にとってまるで双子の弟のようでした。その彼がもうこの世の中にいないということは、私にとって想像を絶するほどのショックなのです。

英国人の喪失体験の語り

娘の死から2年以上たったが、エリザベスはいまだに悲しみで落ち込んだ状態にある。マーニの死は悲惨な事故のせいであり誰も責められるべきではないと考える。

あなたの気持ちにどんな変化がありましたか?あなたは最初の数ヶ月はショック状態で、(マーニが亡くなったということを)信じられなかった。

うーん、そうですね。(娘が亡くなったということは)わかってます。でもいつか、今でもあの子が帰ってくるような気がするんです。それがとてもつらいんです。
悲しみは癒えません。でも癒えて欲しくないんです。だって、それが(悲しみが)あの子がいたって証しで、どこにも行って欲しくない、時が経たないで欲しい、その証しといつまでもどこでも一緒にいたい。だから心はとても重く、深い悲しみに引きづられています。悲しみでベッドから起き上がることもできない人がいることもわかります。私はただ働いて働いて、疲れ果てて、それが唯一の眠る方法です。
心境の変化はあります。でも悲しみは変わらないんです。楽にならない。亡くなった事実に慣れるかと思ったのに、余計にあの子に会いたくなるようになりました。会いたいです。あの子と最後に会って、話をして、話を聞いて、喧嘩をしてからとても長い時間が経ったように思います。あの子にまた当り散らされたり、不機嫌なあの子に会えるのなら何でもします。
本当にひどい不運な事故でした。誰のせいでもない、本当の意味での偶然の事故です。誰を責めることもできない。事故でした。もし誰か他の人のせいで(大切な人を亡くしたら)、とてもひどいことだったろうと、思います。でも誰のせいでもないんです。

それは彼女の持病のせいですか?

そうです。誰のせいでもないというのは良かったと思います。もしそうであったら、それに対して自分がどういう気持ちになっていたか、想像もつきません。

英国人の喪失体験の語り

当初は、シンシアは自殺を考えたり、怒りを覚えたりしていた。上手くいかなかったのはすべて自分の責任だと思い、何が何だかわけもわからなくなっていた。しかし、次第に自分の怒りの感情を別のところへ向けていった。

とにかく、死にたかった。本当に死にたかったわ。ショックで気も動転していたの。何が何だか理解できなかったし、絶望的な状態が長く続いたわ。でもね、二つのある事が流れを変えたの。最初は、私はもう今までとは同じ人間ではないと感じていたわ。どうしてかはわからなかった。だって頭はロボットのように何も考えることができなかったから。私は前とは同じ人間じゃないとわかっていても何が違うのかわからなかった。そうね、小さい子供に返ったような感じかしら。何をどう理解していいのかわからなくなってしまったのよ。
でも、ある日、昔からの友達が、「あなた美術が好きだったじゃないの。美術館に行って、まだ楽しめるかどうか確かめてみましょうよ。」と言って、私を英国美術館へ連れて行ってくれたの。そのときの特別展示はボッティチェリのダンテ「神曲」。ボッティチェリもダンテも知らなかったけど、展示されている最上階に上がったわ。その入り口にあった詩の引用にはこう書かれていたわ。『人生の真ん中で目が覚めてみると、暗い森の中に迷い込んでいる自分がいるのに気がついた。』 こんな風に感じたのは私が最初ではないのね、ここで作品を見てみよう、そう思ったの。結局、そこには、その後5回も行ったのよ、合計6回。同じ展覧会に。どうしてだかわからないけど。でもね、私はどこかで何かを試行錯誤していたのよ、きっと。自分自身、何を考えているかわからなかったけど、とにかく心の赴くままに出向いて、作品を鑑賞し続けたの。
それから、ある日、同僚と散歩に出たときに、偶然にも、法廷で目にしたトラック運転手側の弁護士にばったり会ったの。電気ショックを受けたようだったわ。家に帰ったら涙が溢れてきて、3日間泣きっぱなしだったわ。でもね、その3日目の最後には、何だか頭がすっきりしたの。そうね、時々何か突然思いついた人たちの話を聞くじゃない、そんな感じだったわ。3日間泣き明かした後、私の自殺願望は私が怒りの極地にいたからだとわかったの。その怒りの矛先を私は自分に向けていたのよ。以前は、あのばかげた裁判は、私が甘すぎで周りの人を信じすぎてしまったせいだと自分を責めたわ。すべて悪い方向にいったのは私の責任だと。
でも少しずつそれは私のせいではないと理解できるようになってきたの。起こったことすべてに対してとても怒りを感じていたけれど、それを変えたいと思ったのよ。あんなばかげたことをただ耐えしのぐなんてことはしたくなかった。いろいろな人と会って話をしているうちに、他の人も似たような体験をしていることがわかったわ。そしてその人たちと一緒になって一つのゴールに向かえば、いろいろなことを変えることができると確信したの。

英国人の喪失体験の語り

ドロシーは息子が労働災害で死亡してからというもの、司法制度と政治家たちに幻滅していた。怒りを押し殺し続け、ときには生きる意義を見失うこともあった。

あなたの心の中のお気持ちですが、仮に変化があったとして、どんな風に変わりましたか?今でもまだ同じですか、それとも何らかの形で変わりましたか?また別の感情なども加わりましたか?

あの当時は、マークのことを考えない日はなかったと思います。それから、怒りもどうにか処理してました。と言いますか、怒りをいつも抱えていましたけれど、上手に隠していました。ここ何年間いろいろな人たちに出会いました。司法関連や政治家の人たちにも。幻滅はますます大きくなるばかりです。この国の制度など、とても信用できませんよ。時には普通の人たちでさえも信用できないのです。それでも善意を尽くしてくれる人たちに出会うこともありますけどね。他人を援助したり、キャンペーンを行なったり、いろんなことと闘ってくれたりして。
どうなんでしょ、幻滅は深まるばかりかもしれないけど、何だか怒りは、収まってきたとは言いませんが、いつも感じてます。感じてますけど、押し殺していると言うか、コントロールし続けていますね。たまに人生なんて生きる価値がないと思う日もありますけど、でも、頑張って何かしないといけないとも思うのです。その日によって違った受け止め方をしていると思います。

英国人の喪失体験の語り

ウィリアムは後悔と怒りを感じた。娘のローレンは誰かのせいで死んだに違いないと思ったからである。

主に二つの感情がこみ上げてきました。罪悪感と怒りです。最初に罪悪感に駆られました。
ロレンが助けを必要としていたあの時に、2005年の6月21日の事故が起こったあの時に私がそこにいてやれなかったことに対してです。それから、あの日はロレンの弟が早く起きていて、私はその子の面倒をみていたものですから、いつもなら別れ際に軽く抱きしめてちょっとキスをし、行っていらっしゃいときちんと言って学校に送り出すのですが、あの朝は軽く行っていらっしゃい、と行っただけでした。そんな訳であの朝、心を込めた言葉で送り出せなかったこと、そしてもう二度とロレンに話しかけられなくなってしまったことへの罪の意識です。
それから、生前私がロレンを怒鳴りつけた時のこと、ロレンに落ち度があった訳ではないのに、自分の虫の居所が悪くて娘に声を上げた時があったことを大変後悔しました。
そんなこんなです。そしてもう一つは怒りの感情でした。他の人たち、いいですか、実際他の3人、バスの運転手、引率の教師、それからトラックの運転手の判断が娘を死に至らしめたんですよ。“自分を哀れんで、この先どんなことが自分を待っているのか”と自己憐憫に浸っていたわけではありません。ロレンは本当にいい娘でしたから、(事故に遭って死んでしまったのは)フェアじゃないという気持ちです。娘がこれまでしてきたことは私が誇りに思うことばかりでしたし、優しく誠実で品行方正でしたから、他人の行為で娘が娘にふさわしかった人生を歩めなかった、ということへの怒りです。それから、ロレンの弟にしてみれば、素晴らしい姉を失い、兄弟が居なくなってしまったわけですから、彼もこれからはこれまでと同じようには生きられない、ということに対してもフェアじゃないと思いました。