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診断時:32歳
インタビュー時:34歳(2008年7月)
東北地方在住。2005年秋、左乳がんが見つかり、乳房温存術+リンパ節郭清、術後抗がん剤、放射線療法、ホルモン療法を受けた。1年後に転移。骨転移にゾメタの点滴治療を開始、肝転移にラジオ波治療を行った。その後、抗がん剤治療も開始したが、自分の意思で抗がん剤を中止した。一人暮らしで看護師をしている。
語りの内容
ほんとに、何か軽い気持ちでMRIも良性だっていうことを確かめるために自分としては、やろうという感じで行って。ちょうど、MRIが終わったあとに、N先生に、外来でお会いして。「ちょっと診てみましょうか?」って言われて、診てくださったんですけど「造影剤を入れると、のう胞の場合は、白く光るんだけど、これは白く光ってないから、悪いできものかもしれませんね」っていうふうに言われて。もう、その場で、ちょっと、私は、こう…崖っぷちに立たされたというか、何かハンマーか何かで頭を殴られたような感覚というか。最初の告知のときよりもすごくショックでしたね。で、外科外来でも、やっぱり泣き崩れてしまって。そこの看護婦さんが、ティッシュをこう差し出してくれて、涙が止まらなかったなというのは覚えていますね。で、全くノーマークだったので、肝臓っていうところは。あんまり、そんなにお酒もいっぱい飲むほうではないし、何も思い当たるところがないんですよ。肝臓に転移するって。何でだろうなって思うぐらい。で、自分も良性だとばかり思っていたので、誰も、連れていかなかったんですね。家族も、友達も、でも、もうすっごい泣いて泣いて、車に戻ってお母さんにまず電話して、そしたら何か「代わってあげたいね」って母が言ってくれて。「でも、まず、負げねぇで頑張っぺぇし」って、訛りなんですけど、言ってくれて。で、そのあとに、その一諸に告知のときに来てくれた、Rちゃんっていう子が消化器内科の病棟で働いているんですね、私の同じ職場で。そこで、肝臓のラジオ波治療をやっているすごく上手な先生がいるんですけど、うちの病院に。で、その先生のことを言って、「転移性肝がんでいっぱいそのラジオ波でよくなっている人いっぱいいるよ」って。「だから、諦めなくていいんだよ」って。ああ、何か、こう生きる希望がまだあったんだっていうふうに、自分でちょっとこう落ち着いて。だんだんそのRちゃんと話をしていたら落ち着けましたね。
インタビュー19
- クリニックは受診しやすいし、待たされないし、親身になってくれるところがいい。ただ、再発後は検査結果がすぐに出ないということもあり、他の病院に移ることにした
- 手術直後は血圧計、点滴などいろいろなものがついているので身動きが取れないのがつらく、地獄の一夜とはこのことかと思った
- 術後間もなくは腕が30度くらいしか上がらなかったが、リハビリをして2週間ほどで耳につくまで上がるようになった
- 途中でつらくてやめたいと思ったが、最後の抗がん剤が終わって退院した日、桜が咲いている中、お蕎麦を食べに行けた。生きている幸せを感じて感動した
- 毎日車を運転して放射線治療を受けに通うのが苦痛で、副作用のやけどや胸につけられた照射位置の印(マーキング)も気になり、うつっぽくなった時期があった
- CTで肝臓に影があり、MRI検査を受けたところ、悪性の可能性があると言われ、なぜ肝転移・・・と泣き崩れてしまった。母や友人の励ましで生きる希望が湧いて落ち着いた
- つらい思いをして抗がん剤治療をしているのと、やりたいことをやって過ごすのと、同じ時間でも全然違うと気づいて、この先どうするか考えた(次のクリップに続く)
- 副作用で気持ちが萎えて、闘う意欲がなくなるのは嫌なので、抗がん剤治療を一旦止める決意をした
- 左足に骨転移が見つかり、骨折したかと思うほど痛みがあり、放射線治療を行ったところ、治療が始まって3日ほどで痛みが楽になった
- 8ヶ月の休職後、看護の仕事に復帰して、半日勤務から始めたが、2ヶ月後には3交代勤務に就いていた。体力的にきつかったが、仕事に出ると「できません」とは言えなかった
- 自分としては髪の毛が抜けてしまい、女としてすごく嫌だったが、彼は変わらず女性として扱ってくれた
- 胸の傷や脱毛や外見の変化はあるが、なるべく女性らしい格好をしてきた。彼も女性として扱い、性行為時も変わらず普通に接してくれた