投稿者「dipex-j」のアーカイブ

慢性の痛みの語り

毎日、朝昼晩と痛みの変化の記録をつけていると、逆に痛みから離れられなくなってしまうので、痛みがあってもどうすれば楽に過ごせるかを考えたほうがいい (音声のみ)

痛みと今度うまくつき合っていくためには、その痛みの変化をしっかり把握する。自分が把握する必要があるっていうことで、毎日、その、どうかしたら朝昼晩って、またその天気の変化によって痛みが(変化する)というのを全部付けなくちゃいけなかったりというようなことも、医療の中ではあるんですけれど。それも一時的には、それはやってみるのもありなのかもしれないんですけど、私の研究からするとですね(笑)、ちょっと適切ではないのかなっていうのがあるんですね。だから、そこをすると、もう痛みから結局離れられないんですね、逆に。いつも視点が、「あ、今痛い」とか「あ、こうしたら今痛い」とかしてると、今度そうする前から、「あ、これをするイコール、痛みが来るよな」とか。よくあるのは、「天気が悪くなる前とかは痛いでしょう」とかなんかいうふうになると、「天気が悪くなりますよ」っていう天気予報を聞いただけで、体がもう反応してしまうっていう状況が生まれてしまうので、効果的ではないかなと思うんですね。
なので、そういったことも含めて、その病気や痛みとうまくつき合うっていうことではなくて、そういうこともある、その痛みはある、病気はあるけど、じゃあ、自分はどういうふうに生きていけたらうれしいのかとか、自分がどういう人生を過ごせたら満足なのかとか、そういったことを私の中でずっともう、それこそ本当に何年もかけながら問い続ける中で、ああ、こういうことをすると私はちょっと楽に過ごせるかなとか、こういうことをすると楽しいなとか。で、そこからそれをすることによって実際痛みを忘れられたりとか、痛みがあっても充実感を味わうことができたり、満足感を味わうことができたりっていうことで生きていくことができるようになったのかなと思ってます。

慢性の痛みの語り

放送大学の講義を参考にして、脳の中の痛みを感じる箇所が働かないように、自分でも音楽を聞くなどして、脳の違うところを活動させるようにしようと考えた

それが平成13年に、あの、放送大学の勉強した中で、えーと、「疾病の成立と回復促進」という科目の中に「回復困難と見なされた事例の看護」という章があって、その中に病気が治らないって言われたけれども、自分で病気を克服しようって言う看護師さんがいて、その克服の仕方が書いてあったので、だったら私もできるんじゃないかと思って。えーと、その痛みの箇所、脳の痛みの箇所が働かないように、違うところを活動させる。例えば、音楽を聞くとか、えーと、何かを一生懸命見るとか、その痛みとは関係ない場所の脳を働かせる。あと脳の中で、あの、脳内麻薬っていうのが出てるんですけども、それが出るようなこと。それはあの、楽しい、楽しいなぁと思ったりとか、うれしいなぁと思ったときには出るので、そういうようなのをなるだけする。あの、例えば、よく言うランナーハイの状態で、そのハイの状態になると、あの、今まで走ってて、大変もうつらいなと思ったのが、急に気持ち良くなって走れるようになるっていうのと同じ状態に持っていけるようなことを、私も考えてました。 そうするには、やっぱり体の状態もきちっとしなきゃいけないので、安静をする。だから、睡眠をよく取るし、食事も気をつけるっていうようなことに配慮しました。

慢性の痛みの語り

自分の体を実験台にして、寝るときの姿勢や運動によって自分の痛みがどうなるかを毎日毎日研究した(音声のみ)

で、その中でやっぱりもうとにかく研究ですね。もう毎日のこう、自分の状態を研究するしかなくて。こういうところにこういう、あの、状態だった。毎日、例えば痛みがどうだったか。どこに痛みがあったか。寝るときがやっぱり一番大事なポイントだと思ったので、寝てるときの姿勢がどういう状態にすると痛みが増すのか。もう次の日、だから、すーごく痛くて麻痺しちゃったときもあるんですね。それでも、あの、実験を――実験というか、まあ自分の体を実験台にして、こうするとどうなるかなとか。ここにタオルを置いて、こう寝たらどうなっちゃうのかな、痛みはとか。毎日本当に細かく細かく研究したんですよ。もう動けなくなる日もありました。あ、ここに置いたのは失敗だったかとかね。背骨のここに置いたら、ちょっと麻痺が強くなっちゃったとか。そうやって地道に地道にもう毎日毎日、痛みを研究して。で、で、それ、あ、ここにあるとなんかちょっといい感じだぞとかいうのをやっていって、それでもうタオルでこう調節していくんですけども、寝具の状態を。もうそれでだいぶね、あの、改善したんですよ。

それからは運動もきちんと研究しないとだめだなと思って。あの、いまだにその筋が悪いのはずっと続いているんですね、その1年前に傷めてしまってから。だから、本当にあの、よく研究して、どういう運動の方法がいいか、あの、無理なく、本当に無理なく、そのちょうどいい加減というのがね、難しいんですけど。軽すぎても良くないですし、本当にこう普通の人と同じような運動はやっちゃいけないなって。今までのような、ね、運動はやっちゃいけないなっていうふうに思いますし。本当にゆっくりとした動きのストレッチと、あの、まあスクワットぐらいとかはできるかな。あとは、お風呂の中での運動ですね。うん。動かす。骨を動かす。うん。関節を動かすとか、そういったことをやったりをずっと続けていて。

だからもう本当に…研究して、その、体の筋がどうなってるのかとか、初めて、あの、今まで漠然とでしたけど、ああ、筋肉の種類ってこうなっているんだとか医学の本を読んだりして、ああ、体のまあ、ね、解剖学みたいな、そういうのとかも読んだりして、あ、なるほど、ここにこういうものがついていて、こうなんだなとか。だから、何となくイメージして、え、ここの筋がこうだからこうでとか、自分でこう思うようにして。自分の痛みがわかっているのは自分だけですからね。

慢性の痛みの語り

痛みと治療に関して毎日記録をつけて自分の痛みの基準を作ることで、いつも「今が一番痛い」と思いがちなのが、「以前より良くなっている」と実感しやすくなった

えーと、その痛みっていうのは、今感じてることが、これが以前と比べてどうだったかっていうのが、自分の中でもやっぱり基準がないからわからないです。そのときに今となっては、まあ、た、対処法というのかはわからないけれども、ずっと文字に書いてきていて、今日はどれぐらい痛かったとか、何したときに、痛かったというか、どう思ったとか。例えばもっと治療に対しても、この治療を受けたとき、今日この薬を飲んでこういう麻酔をしてもったときに、どういうふうな効き方をしたと思ったかとかいうのを全部、一応、毎日書いて残しているんですね。それを残しているのを見て、ふり返ったりすることがあるんですけれども、それを見ると例えば今の状態が、その前より良くなったか悪くなったかわからないときに前の記録を見ると、例えばこのときこう感じていたとかいうのを見返すと、あ、今はこのときよりも良くなっていると思えたりとか。1つ、やっぱり書き残しているとそれが基準になるというか。

その、やっぱりゼロにならない限りは、今が百かと思ってしまう。今がもう今までの中で一番痛いと思ってしまうこともあるので。でも、それがだんだん良くなっ――周りから見たら、例えばだんだん良くなっているふうに見えても、自分の中でずっともう、今が一番痛い、今が一番痛いっていうのは続いていくと結構つらいし。なんか少しでも良くなったことが実感しにくかったりする…なと思っているので、それ、今が百にならないためにというか、1つの基準として結構書き残しているものを見るっていうのは、その自分が前、自分が書いた文章なので、それを見るとそれが1つの基準になって、今を百じゃない、今、ように思いやすいというか。前より良くなったというふうに、その、人から言われたよりも自分で理解しやすい。自分で受け入れやすいっていう面はあります。

慢性の痛みの語り

最初はこの痛みは一生取れないのかと思って焦ったが、次第に自分で何とかして10の痛みを0にするのではなく8にしようという方向に考えが変わり、整体の勉強も始めた

―― 慢性の痛みですっていうふうに、診断を受けたときには、どのようにその慢性の痛みに対してこう、お考えというか、感じていたこととかっていうのはありますか。

一番最初自体は、「えっ、えっ?」って、「一生、取れないの?」っていう感じでしたけど。…でも、うん、やっぱり年数経つうちに自分で何とか、何とかしようっていう方向にちょっと考えが変わって。その最初のときの痛みが十であったならばそれをどうやって九にしていくか、八にしていくか。まあゼロにはならないとしても、自分でどうにかなる部分があれば、自分でどうにかしようっていうふうには変わってきましたね。

それで、整体とたまたま出会ったのも、まあそれで、人のためにっていうより、むしろ自分のために勉強しに行ったというほうが多いですよね。もともと私たち、やってるというか、看護学校なりで習ってきたこと自体は西洋医学的なことであって、整体そのものは東洋医学的な考え方もあるので、両方とりあえず(笑)、足を、首突っ込んで勉強しておけば、それぞれのいいとこ取りでいいじゃないかっていう感じで勉強してきたのは事実です。それでいて、今は…、まあゼロではないですけど…、まあ半分……、半分程度かな。レベルとしてはそんなもんだと思う。それで、まあ今は3種類ぐらいの痛み止めを使って、まあ貼りものでとりあえず治まってるんで、まあ定期的に薬も取りに行かなくても、それはそれでいいんじゃないのかなっていう考えではいます。

慢性の痛みの語り

痛みで生活や人生のコントロールができなくなる感じがあるが、痛みをバロメーターにして生活やメンタル面のコントロールが付くようになり、敗北感から少し這い上がった

ですから、あの、いろんな気持ちの中で、えー、その痛みが落ち着いてきたので、なんか自分で自分の人生を、もしかしたらコントロールできるかなっていう感覚を少し持ってますけれど、この痛みが襲うことで、この自分の生活のコントロールができなくなっ…ちゃうんじゃないかっていうのは、痛みとともにやっぱり感じることです。なので、あの、痛みが、来なければいいなっていうのはいつも思っているんですね。

で、もう1つは痛みがあると、自分の生活に何か無理しているところがあるかなっていうので、もう1回再点検するんです。で、睡眠不足だったりとか、あの…、疲れすぎだとか、あの、ストレスを抱えてるっていう自分に気がついて、もう1回ちょっと、あの、修復っていうか、そういうことをしながらなので。いつもいつもその痛みと自分の生活と、あの、もちろんメンタルも含めてですけど、コントロールをするバロメーターというのが今は痛みになっていますね。

で、今は、まあ、かなり前よりはコントロールがつくようになったので、できる限りのことを今日やりたいっていう思いはとてもあります。なので、敗北感から少し這い上がった自分が今あるかなっていう感じです。

慢性の痛みの語り

授業や外出中に急に刺さるように痛んで家に帰らねばならないこともあるが、そんな時は別な日に行ければいいと思う。一瞬にとらわれてすべてが終わりと思わないようにしている

あとはもう、もっと気分的な問題です。その今日はもうどうにもこうにも調子が悪いとか、急に何かが刺さり出したみたいな。だって、普通に今日授業を受けていたつもりなのに、例えばこれ、授業を受けてたつもりなのに急に何かが、ささっ、刺さってくるみたいな。意味がわからないですけど、まあ、そういうこともあるし、今日はもう家へ帰って休もうかみたいな。できない。まあやりたいことがあったけれども、もう今日は家へ帰ろうとか思って。まあ今日だけとか、明日になればどうなるかわからないとか、まあ今日はもう1日例えば出かける予定があったのに、それをキャンセルしてまで、えーと、もう家にいてしまったということがあっても、まあほかのときに行ければいいかなとか、まあ実際にそれで行けてるし、そんな1回休んだからといってどうなるわけでもないっていうふうに思うことにするとか。そういうふうに、そのやっぱり意識的な部分で変わるとも思っているので、それは、その一瞬一瞬にとらわれないという、もう今日痛いからもう全てが終りだみたいなふうには思わないことにしてますね。

慢性の痛みの語り

「痛い」と常に言っているのではなく、「痛い」と言うのを休憩させて、小さなことでも楽しいことに挑戦してみることで、痛みを少しずつ減らす方法を自分で見つけていく

ちっちゃなことでもいいから首を突っ込む。興味を持つ。うん。あと、おいしいものを食べたいなっていうふうに思うこと。あ、こう、町へ出てみる。出て、「あ、いいもの売ってるな。欲しいな」って買ってみる。で、買って、「わー、何ていいものを手に入れたんだろう」と言って喜ぶ。

だから、ちょっとでも何かやってみようかなっていうの、ゲームでもいいし、テレビでもいいし、本でもいいし、その手芸が好きだったんなら手芸でもいいし。今までやってたことの中で、もう1回やってみようかな。あ、これならできるかもしれないっていうふうな。

だから、もう、「痛い、痛い、痛い、痛い」というのをいつも言ってるんじゃなくて、たまには、その「痛い、痛い」言うのを休憩させてあげて、で、何かやって、「あれ、こっちのが楽しいや」っていうふうに、ちょっとでも、こう、話したり。人と話すこともいいことだし、何か挑戦してみようっていうふうなきっかけをつくっていくと、その痛みというのは少しずつ減ってくものなので。

だから「痛い、痛い、痛い」って言うのは、だから自分も今、「痛い、痛い、痛い」っていう話をしてると、痛くなってきてるので(笑)。だから、それはもう、「痛いの、痛いの飛んでけー」というふうに痛いのを飛ばして、何か自分のやってみたいなっていう興味をちょっとだけ起こす。それから、だんだん、だんだんその興味を広げていく。そして、最終的に大きな目標を持つ。旅行へ行くとか、あの、何々をするっていう、楽器を習うとか何でもいいから、ああ、そのちっちゃいことから始めて、だんだん、だんだん痛みが減らせる方法を自分で見つけていくっていうのが、必要だと思います。

慢性の痛みの語り

痛みがあっても何かできたというのがないと何もない人生になってしまう。翌日具合が悪くなるリスクがあっても、自分ができる小さなことを最大限にやろうと思っている

えっと、私、本当に何もできなくなってしまって、でも何も、本当に、何だろう、できないこととかを数えたほうが圧倒的に多くて。でも、なんか悔しいというか。なので、こう、本当に5分しかできないこととかでも、あとすごい、人にとってはどうでもいい、こう、当たり前の買い物とかでも、こうやることで、何だろう、できたっていうか。痛みがあっても、何だろう。絶対、痛みもあるので。やれ、うん、その痛みとかもうまくこう、つき合いながらでも、何かできた、買い物できたとか、「今日、映画1本、観れた」とか、そういうのがなければ、本当になんか何も、本当に何もない人生なので。

なので、多少リスクというか、痛いことはわかっているし、翌日具合悪くなるのもわかっているし。でも、何もない人生だと本当にもう、ただでもやりきれないので、なので、その、楽しみのために1週間とか例えば3日とか行動を制限して、あの、買い物に行ったりとか。代わりにこう、買い物先ですごく、あの、家の中とかよりも、あの、カートとかあるので歩けるので、そこを利用して、あの、動いたりとか。そこ、全くこう、何もやらないんじゃなくて、自分がすごいちっちゃなできることを最大限にやろうと思っていて。

本当に、昔は、痛いから制限したりとか、仕事のために制限してたけども、今はもう、制限というよりもちっちゃいできることを何とかこう、痛みなり、具合の悪いものを少しでも和らげる工夫をして、こう、人、ほかの人だったらどうでもいいようなこととかも、自分でもできたっていうように思いたいので、少しそういうのは考え方が昔と変わってきました。うん。

慢性の痛みの語り

痛みがなくなったらやりたかったお寺回りに「すぐ行きなさい」と勧められ、痛かったが6回に分けて回ってきた。「痛いから」と逃げずに自分の思いを実践することも必要だ

あの、「もし痛みがなくなったときに、あなたが一番やりたいこと」って、(当時の主治医が)おっしゃったときに、私から、お寺回りをしたいと、ずーっと若いころから思っていましたので、もうこういう、こういう、こういうことでっていうことを、あの、文章に書いて先生にお見せしたら、「すぐ行きなさい」っていうことだったんです。

―― だけど、そのときは痛いわけじゃないですか。

はい。

―― それでも行けたんですね。

行きました。本当に痛かったですよ。で、700段、800段の階段ありましたから、それもどうにか、「痛い痛い」で。やっぱり夜は睡眠薬飲んで、行きましたね。

―― それは一度に行かれたんですか。何回か通われたんですか。

えー、6回行きました。はい。

―― 何、何年間かの間でって?

え、これは2泊3日で。いわゆる、うーん、旅行会社のツアーがありましたので、1人参加っていうことでOKということで申し込んで行きました。はい。

―― じゃあ、その、ある、あるたびに、えー、何カ月かに一遍みたいな感じで行かれて。

はい。はい。はい。

―― ああ、なるほど。それは、でも自信になりましたか、こうあの、達成したことっていうのは。

そうですね。また行こうかなっていう気にもなるんですね。とても不思議。それは、よく、あの、お寺のお坊さんもおっしゃっていましたけど。「また行きたくなるのがお寺回り」っていうことをおっしゃっていました。ほかのところも、まあ回ることができましたけど。はい。

―― でも、その最初に、「自分が、痛みがなかったらやれることを書きなさい」と言われ、「じゃあ、やりなさい」って言われたら、「だって、痛みがあるからできない」と思っていることなわけじゃないですか。

ええ。

―― そんときに、「えっ?」って、思わなかったんですか。

思わないです。……そんだけその、若いときから行きたいっていう気持ちがありましたので。で、先生が、「すぐ行きなさい」。ああ痛いのになと思ったけども、行きましたですね。はい。
だから、自分で思っていることをこう、実践していく? そういうことも、まあ必要なのかなって、それで、まあちょっと教えられた感じですよね。はい。で、「痛い、痛い」で逃げてたんじゃ、いつまでたっても行かなかったかもわかんない。はい。