同じ痛みじゃないんで、そこをやっぱりお互いに、どっか尊重しないと。やっぱりどこか比べる形になっちゃうと、これ絶対いけないと思うんですね。
例えばこの前も患者さんでそういう話されていたんですけど、痛みの話するとね、「私もそういうので、前に病気してこういう大変な思いしたのよ」って言葉を返してくれる人がいるらしいんだけど、「あんたの病気と――過去の病気となんて比べてほしくない」って。やっぱり僕も、やっぱりそれね。聞いたらやっぱり、やっぱり同じですよね。比べるために人と話しているわけじゃないから。やっぱりそうじゃない部分から物を見られる人っていうのが――まあ自分はどう見れているかわかんないですけど、人のことを言えないですけど――やっぱりね、うーん、多角的に見れる人というのは少ない世の中なんだろうな。
だから、「目に見えないものは何でもない」というのが実際は大きいと思いますよ。あの、痛みに限らずですけどね。「これができてるんだから平気じゃない?」 それがどの程度ぎりぎりでやっているのか、余裕でやっているのか、そういう事情は関係なしに。例えば病気であれば病気と闘っていることが、まあ本人が頑張っていることなのか、あの、そもそも病気と向き合っているということは異常なことなのか、それは考え方がなんかいろいろいらっしゃるみたいなんでね。そこで、そういう人との接点というのはあんまり、特に痛みにはあんまりいい影響を及ぼさないタイプの。
―― それは痛みのない人とか、病気がない人のことですか、今おっしゃっているの?
うーん、でもないですよ。痛みあっても、あの、やっぱり自分の痛みとこう比べてくる人いるんですね。……だって、もう痛み自体が、そもそもは質とかいろんなものが違うのに、だから比べる意味が全然。痛みを比べることよりも、「自分はこういうところでこういうふうなことをやったら、こうなったんだけど、参考にしてね」っていう話ができる人は、僕がつき合いできている人なんですね。
ところが、痛みの比べっこする人がいるとか――それ、されてもね、何も出てこないんですよね。それはもう痛みのこと――まあ痛み、痛みがあるからそうなっちゃうんでしょうけど――痛みを越えて、まあ痛みじゃないにしても、その相手とこう対面するときの、その、何のことをお互いに共有してるのっていう共有部分がなくなっちゃう。すれ違っちゃっているということですよね。…で、そこに、まあ、ある程度健康だとか、ある程度元気だと余裕があれば、それも「まあそういう人もいるよな」で、つき合いできるのかもしれないけど、その余裕がないっていうのが。まあ自分じゃ、やっぱりデメリットになるかなって自分では感じていますよね。