投稿者「dipex-j」のアーカイブ

慢性の痛みの語り

「治らなきゃ何もできない」と考えたら人生は絶望的だが、痛い中で何かができるかを考えられたら、今のつらさが半分になってきっと楽だと思う

だから、やたら痛みで死にたいとか、そういう話する人にも、まあその人の痛みはわかんないかもしれないけど、「それは違うんじゃない?」って僕は、あの、話するときもあるんですね。苦しいのはわかるんですけど、大変なのもわかるんですけど、やっぱり…、死、死ぬことをゴールにしちゃうと、先がもう何もなくなっちゃうじゃない。ゼロになっちゃうじゃないですか。だったら、せっかくそれだけ痛い思いしたんだったら、なんか、向き合うでも、それを伝えるでも…、何か自分がこう、「治らなきゃ何もできない」っていう考え方だと、僕なんかもそうですけど、うんと、治ったらどうだとか、その目標っていっても、その治るとか、軽快したときのことを考えたら、正直、半分絶望的なんですよね。そうすると人生絶望しちゃうじゃないですか。

そうしたら、この痛い中で何ができて、痛くない日は何が活動できて、何がゴールできて、どのくらい治療というか、通院が通うことができて…、どれだけ何ていうんですかね、今が、まあ、ある程度つらいなと思っていたとしたら、それが半分になったとしたら、たぶん健康なときかわかんないけど、今、全てが半分になったとしたら、きっと楽なんだと思うんです、自分の気分的なものでね。

慢性の痛みの語り

医師に聞いた「痛みを邪魔にしない」「痛みから逃げない」「生き生き」「明るい生活」という4つのモットーを冷蔵庫に貼って自分の目標にしている

私が、あるその……病院で治療を受けていたときにその先生が、その、毎日過ごすモットーっていうことをその病院で、え、考えて、考えてみると。まあ第1番には、その痛みを邪魔にはして――え、邪魔にしない。2番目には、その痛みからは逃げない。3番目には、生き生き。4番目には、明るい生活をしなさい。という、その4つのモットーを、あの、示してくださって。私はそのメモに書いて、冷蔵庫に貼って(笑)、毎日見てるんですね。

ですから…、まあこれが本当に実践できればいいなと思ってるんですけども、なかなか、邪魔にしてしまう場合もあるし、逃げてしまう場合もあるし。毎日、生き生き明るい生活を目指すんですけれども、なかなかその、モットーに沿えないっていうところがまだありましたけれども、まあこれが一応、え、まあ自分としても目標だと。はい。

慢性の痛みの語り

ネットでは顔が見えないこともあってか嫌な書き込みもあるし、特定の医師に患者が押し寄せたり、薬の安易な使い方で事故が起きたりすることにもつながりかねない

この前なんか、うーん、なんか「自分で頑張ってきたのが正攻法」みたいな、なんか嫌な書き込みを、僕以外の人間にも(僕も含めて)やった人間がいるんですけど。まあ顔が見えないからね、何とでもできるんでしょうけど。やっぱりネットってああいう世界だから、それを考えちゃうと、例えばもう正直に言っちゃったら、ある程度医療を受けられる地域に住んでいて、特殊な治療をある程度やっているところがあって、そこを同じように受けている僕の友人とか知人がいる場合に、そこにまあ聞きかじりで「ネットで見ました」って言って、正直、あの…、地味に先生に世話になって頑張って、その治療を受けている人たちが治療を受けられなくなるっていう考え方も反面あるわけなんですね。やたらな人が、みんな押し寄せちゃったらね。

…その、まあどこから誰が何を言うかはわからないですけど。結局ネットの中に言葉を書くということは、その名前、固有名詞とか治療法だとか、そういうのに当然興味を持つ人間もいるわけですから。それがやっぱり安易にネットで知ることができるっていう便利な反面、やっぱり…、例えばその薬なんかもそうですけど、もし例えば特殊な、まあ薬を処方されて…、まあ安易な使い方をして事故が起きる。事故が起きると、僕が経験したように薬が厳しくされる。やっぱりいいことよりも…、何ていうのかな…。本当にこう、心の意味――心の目というんですかね――で、「こういう人はこういうふうにしているんだ」というふうにして捉えてくれる人はいいんですけど、あの、具体的に治療法がどうとか、薬の効能がどうだとか、そういうところに目を付ける人もやっぱり中にはいるんで。あの、それを履き違えちゃって、まあさっきお話ししたように薬が強い弱いが別に――あの、痛みに対して強い薬が効くとか、弱い薬が効かないとかそういうことは、僕は一切思わないっていうのはやっぱりそれにも通じる部分があって。そこを拡大解釈する人が、ネットの中には、ネット人口が多い故にたくさんいらっしゃるんですね。

慢性の痛みの語り

ブログ上で「死にたい」と書く人もいるが、それを止めることができたことがある。互いの存在を意識することが励みになる

えーと、骨髄炎からの痛みでやっぱり苦しんでいらっしゃる方がいて――で、まあ9割お世辞だと思って、僕、笑って話しするんですけど――僕は、「死んじゃいけない、死んじゃいけない、死んじゃいけない」っていうことは何度も書いているんですね。逆にいうと、「死にたい、死にたい、死にたい」って言う人が結構たくさんいらっしゃるんですよ。で、まあ、僕の痛みがね、そんな例えばあの、「スケールで換算したら、どの程度なのかというのは大したことないかもしれないし、役に立たないかもしれない。それでもあなたが目の前で死ぬって言ったら、俺、どんな手使っても阻止するよ」っていうことを書いたのが、――まあそれ本人の口から聞いたからお世辞かもしれないですけど、――それで2人がね、…まあ女性の方が2人なんですけど。昨日の(病院で出会った)人と、まあもう1人の人は別の病院なんですけど、その2人で、1回2人で自殺考えていたらしいんですよ。でもね、それをたまたま、どうやって見つけたんだか知らないけど、僕のブログ見つけて、あの、まあ大変かどうかというのは別として、「こんな大変なのに生きてる、生きたいと思っているんだ」ってなんか思ったらしいんですよ。で、お世辞でも「じゃあ、それで自殺しなかったの?」って言ったら、「いや、そうなんだよ。そうなんです」って言うんですよ。でも、別に僕が何か労力を使ったり、手貸したわけでもないけど。あそういう「死んじゃいけない、あきらめなきゃ――あきらめざるを得ないような現状かもしれないけど、それでもあきらめない。あきらめないでちょうだい。死なないでちょうだい」っていうのが、もし届いていたらとしたら、お世辞でもね、うれしいな。それで今もね、その人たち、治療を続けてくれてるし。

昨日は、あの、逆に、いつもは僕のほうが、あの…、どっちかというとまあ笑顔でいられるというか。まあ、のほほんとしているんでそうなのかもしれないですけど、笑顔でいるほうが多いんですけど。昨日は逆に僕のほうが具合悪くて、あの、あんまりちょっとつれない感じだったんですけど。まあ帰ったら、あの、ショートメッセージくださって、あの、「昨日、病院、治療室も寒かったし、具合、あの、心配してますよ」ってメッセージくださってね。

そういうお互いに生きるっていう気持ちになること。自分だけだと別に自分だけ死んじゃえばいいやとか、で、頑張ったところで、頑張って生きるとか、生きないとかって、普通頑張って生きるとかって普段考えないですよね。でも、死ぬことって、やっぱり本当につらい人って、あの、自分の命絶つということは悲しいけど、あるのかもしれないんだなっていうことをやっぱり今回疼痛を負って、まあ時間たってみて、まあ今の今になってね、あ、実際にやっぱり死にたい人いるんだろうなっていうのも、遅かれながら知ったわけなんですよね。

慢性の痛みの語り

自分の病気の患者会をネットで知った。チャットでは互いの話したいことが話せるし、自分が外出できないときの情報収集にも役立っている(音声のみ)

で、あと患者会なんですが、最初、患者会って自分は、あの、うーん、どういう人たちの集まりなんだろうと。テレビなんかで見るたびに、自分が患者会で活動できるほど大体元気ではないから、誰か代わりに活躍している人が居るのかなと思って調べると、本当に見事にその時期にホームページを立ち上げたばかりの方がいて、患者会も発足したばかりで、まだ政府の、あの、国の指定難病にはなってなかったんですが、あの、自己炎症疾患友の会というのがやっとできて。

で、そのために、あの、尽力してくださっているメンバーが何人もいることを知って、とてもうれしい気持ちになったことと、今100人ぐらいメンバーがいるんですが、あの、そういう患者さんたちが集まれるチャットルームも作ってくれて、みんなが、あの、胸の内の話したいときにそのチャットルームが利用できるようだったり、あと家族の方が一緒にどうやって看病に加わっているとか、そういう話もできるようにしてくださっているので、とても助かっています。あの、映画なんかでよく、自分が外に出られなくて、このチャットルームだけ立ち上げると、どうしてるかなっていうのがわかるなんていうのがあるけど、本当に自分にそんな環境が、あの、来たんだなと思うと、インターネットも悪くないなと、とても思いました。

慢性の痛みの語り

患者会には入っていないが、他の人のブログを見て痛みや生活の状況がさまざまであることを知ったりアドバイスし合ったりしている

―― 患者会、に、何か入らない理由というか、ありますか。

いや、別にないですけど。先生から入ればって言われれば、入ろうと思っているんですけど、まあ言われないから、まあ、軽いから別に入らなくていいのかなと思って、今のところは入らないです。ただ、AS友の会(脊椎関節炎の患者会)の、そのブログ等は、たまに、あの、チェックしています。やっぱり患者さん同士でいろんなアドバイスしたりしてるんで、やっぱりそういうこと、何ですか、病気の中の、同じ病気の人たちのこのブログの交換というのは、非常にいいことになんだなと思っているんです。

―― そういった、あの、情報収集ということに関してはどういった、あの、情報収集先を使ってる――持っていらっしゃいますか。

情報収集先っていっても別に、あの、ネットで「脊椎関節炎、ブログ」とか「脊椎関節炎、患者さん」とかってこう引くとたくさん出てくるんで、それで見てます。あとこの日本AS友の会っていう、で、ブログが出てくる。……あとは、まあアメブロで「脊椎関節炎」って引くと結構、患者さんが、大体10人ぐらいの人が常時ブログを載せてますから、そういうのを見て、たまにはコメントを入れたりしています。「やっぱり寒くて調子悪いですよね。私もちょっと最近痛みが激しいです」とかってコメントを入れたりしてます。結構、この、その何ですか、ブログの人で、「5年前まではフルマラソンもしたけど、この病気になってからは全くフルマラソンもできなくなっちゃって、なんか寂しい」とかっていう人もいますし。まあ個人、個人個人みんな、やっぱり痛みがいろいろ違うんですね。爪先から痛いとか。……いろんなこう、いろんな痛みがあるんだなって、常々そういうブログを見て思っています。…自分の痛みは、そう考えると…、そうでもないのかなとかって考えたりしています。

慢性の痛みの語り

待合室で一緒になる人と連絡先を交換しても、お互い調子が悪くなって疎遠になることがあり、慢性の痛みを今抱えている人同士の交流は難しい

今回慢性の痛みとかっていうことですけど、幅広すぎて、症状というものが、全員が全員、慢性疲労症候群だったり、線維筋痛症という人ばかりではなく、あの、中にはがんと闘っている患者さんもいらっしゃったりするし。あの、例えば甲状腺ホルモンの関係のね、橋本病であるとか、そういう橋本病か何かだったと思うんですけど、そういう方とか体が冷えちゃうんですね。冷えちゃうんだけど、どういう場面で痛くなる、――うん、ここ(ペインクリニック)に来てるのかがわからない。ペインクリニックで何をされてるのかがわからないので。交流が、はっきりずっと誰かと会ったかって言われたら、お互いの連絡先を取り交わすというほどの余裕がなく、皆さん、あの、待合室でぐったりしてるので。何か相当のきっかけがあって、なんかこう、ならない限りは、お互い連絡を取る余裕がない。人と、こう、コンタクトを取れる状況の人があんまりいなかった。元気な人がいなかったので。

あの、連絡先を交わしたことはありますが、結局お互い長続きしない。だから、お互い調子が悪いから連絡できないみたいなので、こう、疎遠に。まあ、うーん、病院で会うことはあっても、あんまし、お互い、それで何か会うこともないし、電話もそんなにして――することもなく。

だから、そこら辺の交流というのは、うん、でもまた慢性の痛みの人たちの患者が集まって、どっかで集まって話し合うとかっていうことっていうのはちょっと難しいのかなとも思います。逆に言ったら完治した人たちが話し合うことはできても、なんか痛い人がその場に出向くっていうのがすごいつらいのかもしれないなと思うので、結局、交流というのは結構難しいかなとは思います。だから、逆に孤独に陥りやすい気もします。

慢性の痛みの語り

同じ病気の人と交流できれば少しは孤立感から救われると思うが、実際呼び掛けても2-3人しか集まらなかったらしい。自分も出られないのだからそれはそうだろうと思った

―― ネットワークっておっしゃられてましたけど、まあ同じ視床痛じゃなくても、どなたかやっぱり痛みを抱えていらっしゃる方との交流というのは?

ない。ないんです。それでね、あの、なんかネットで見たときに、そういう集まりを持ったらしいんですよね。だけど、2人とか3人しか集まらなかった、「あ、そりゃそうだろうな。私も出れないし」と思って。うん。なんか東京の九段かどこかで持ったって書いてありましたね、昔。何年か前に読んだとき。「ああ、やっぱりそういうの、あることはあるんだ」と思って。だけど、何かこう知りたいですよね。名前はあれでいいから、「こういう人がいて、こう、やっぱりこういうふうに痛いみたいよ」とか。そうすると、同病相憐れむじゃないけど、なんかね、何となくこう、孤立感から少しは救われるかな。だって、周りにはいないんですもんね、私。本当に。ただ、姉の友達の旦那さんとかも「同じ病気みたいよ」とか、そのぐらいで私が直接話せるわけじゃないし。

慢性の痛みの語り

痛みの感覚は自分にしか分からないので、線維筋痛症という病名にアイデンティティを見いだしておらず、患者会に行くよりも自分で生活の仕方を考えることにしている

むしろ、その、こういう痛みとかこわばりの感覚は逆に自分自身しかわからないので、それとどういうふうに、こう向き合うかというのを日々の生活の中で、自分なりに考えていくしかないので。もちろんあの、大学病院に行って検査もして、ほかの、少なくともほかの病気でないというのはわかっているし、そうすると線維筋痛症の可能性はかなりあるっていうのもわかってはいるけれども。今の段階では、まあいろいろ調べたりして、それを参考にはしますし、あの、同じような、まあ同じような症状で同じ病名が付いた知り合いがいれば、その話もしますけれども。少なくとも今の自分にとっては、まあその病名には、全くこう、それを気にする――うん、気にしてはないです。

あの、インターネットで調べて、あの、患者会のようなものがあるのも見ましたけれども。私の場合、その大学病院に行ったり、そもそも線維筋痛症とはというようなことを調べたりしてる段階、そのころに、その後それこそ、まあ、ある意味症状が安定したわけですよね(笑)。良くならないけど、あの、急に悪化することもなくて、その時々で良かったり悪かったりするんですけども。だから、こう…、あまりその線維筋痛症に自分が何ていうんでしょう、自分のアイデンティティを見出せない部分があって。だから、患者会とかに行ったりするよりは、今の時点では、まあ自分でもうちょっとこう、生活の仕方を考えるというふうなやり方で。症状が、もし悪化することがあったら考えるかもしれないですけども。

慢性の痛みの語り

他の人の痛みの話に対して、「自分はこういう大変な思いをした」というように自分と人を比べて語ってしまうと、すれ違いを生みかねない

同じ痛みじゃないんで、そこをやっぱりお互いに、どっか尊重しないと。やっぱりどこか比べる形になっちゃうと、これ絶対いけないと思うんですね。

例えばこの前も患者さんでそういう話されていたんですけど、痛みの話するとね、「私もそういうので、前に病気してこういう大変な思いしたのよ」って言葉を返してくれる人がいるらしいんだけど、「あんたの病気と――過去の病気となんて比べてほしくない」って。やっぱり僕も、やっぱりそれね。聞いたらやっぱり、やっぱり同じですよね。比べるために人と話しているわけじゃないから。やっぱりそうじゃない部分から物を見られる人っていうのが――まあ自分はどう見れているかわかんないですけど、人のことを言えないですけど――やっぱりね、うーん、多角的に見れる人というのは少ない世の中なんだろうな。

だから、「目に見えないものは何でもない」というのが実際は大きいと思いますよ。あの、痛みに限らずですけどね。「これができてるんだから平気じゃない?」 それがどの程度ぎりぎりでやっているのか、余裕でやっているのか、そういう事情は関係なしに。例えば病気であれば病気と闘っていることが、まあ本人が頑張っていることなのか、あの、そもそも病気と向き合っているということは異常なことなのか、それは考え方がなんかいろいろいらっしゃるみたいなんでね。そこで、そういう人との接点というのはあんまり、特に痛みにはあんまりいい影響を及ぼさないタイプの。

―― それは痛みのない人とか、病気がない人のことですか、今おっしゃっているの?

うーん、でもないですよ。痛みあっても、あの、やっぱり自分の痛みとこう比べてくる人いるんですね。……だって、もう痛み自体が、そもそもは質とかいろんなものが違うのに、だから比べる意味が全然。痛みを比べることよりも、「自分はこういうところでこういうふうなことをやったら、こうなったんだけど、参考にしてね」っていう話ができる人は、僕がつき合いできている人なんですね。

ところが、痛みの比べっこする人がいるとか――それ、されてもね、何も出てこないんですよね。それはもう痛みのこと――まあ痛み、痛みがあるからそうなっちゃうんでしょうけど――痛みを越えて、まあ痛みじゃないにしても、その相手とこう対面するときの、その、何のことをお互いに共有してるのっていう共有部分がなくなっちゃう。すれ違っちゃっているということですよね。…で、そこに、まあ、ある程度健康だとか、ある程度元気だと余裕があれば、それも「まあそういう人もいるよな」で、つき合いできるのかもしれないけど、その余裕がないっていうのが。まあ自分じゃ、やっぱりデメリットになるかなって自分では感じていますよね。