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クローン病の語り

母子家庭で母親が食事を作ってくれなくて外食ばかりになったことが、発症の原因だと思う。お金は出すけれど後は「自分で頑張って生きていきなさい」という家庭環境だった(音声のみ)

―― じゃあ、(発病した原因は)特にこれだっていうような心当たりは、ご自分ではないということですね。

うーん。食事ですかね(笑)。食事は、あると思います。あの、ちゃんとした食事は食べてなかったですね。

―― でも、こう朝夕はご自宅で食べておられたんじゃないんですか?

これも言いにくいんですが(笑)、作ってくれる家族がいなかったので自分でやりなさいみたいな家族だったんですよね。なので、もう面倒くさいんで朝早いし、学校は。で、コンビニ食とか、そういうので済ませてしまっていたっていうのがあって。
中学までは給食という存在があったんですけれども、高校からはそれが全くなくなり、お弁当も作らなきゃいけなかったんですけど作ってくれなかったので、働いていたので。で、なので、まあ放置だったんですよね。それが、まあコントロールできるようなちゃんとした子どもじゃなかったので、高校生にもなって(笑)。その不規則な生活はありますね。うん。あと楽しくなっちゃって遊んで過ごしていましたね、友達と(笑)。

―― 親御さんは、そのことに対して自分を責めるとか、そういうことにはならなかったわけですね。

全然ならないです、ならない(笑)。すごいんですけどハートが強いのか、逆に私が責めていましたね。こんなことになったのはって言うんですけども、どっちかというと、あの、うーん、そこを何とか見ないようにする人なので(笑)。まあ、母がそうなので逆にハートは強くて、うん、やっていっている感じですかね、まあ。
それでも申し訳ないのか、さすがに入院するとっていう感じですね。何とか、うん。まあ、お金は出してくれるっていう感じですかね、あとは。お金をこう渡して「頑張って生きていきなさい」って言うような感じなので、うーん(笑)。その、家庭環境になると、まあ、あれなんですけど、何とも言えないような。まあ、実は母子家庭なので、まあ、ここも。で、父はいるんですけれども離れていまして、悪い人ではないんですけど父も心配もしてくれていたんですけど、まあお金は出してくれる(笑)、お願いをすればというような家庭で育っていたので、もう自由でしたけど。

クローン病の語り

母親が「自分の娘が病気になって普通のご飯さえ食べられないのに何もできないっていうのは本当に辛いんだ」と言って泣いた時に、本当は支える側のほうが辛いんだということに気が付いた

そこから私の熱があって学校に行けない期間が続くんです。で、当時、仕方がないから家の家事とかやるじゃないですか。で、弟が小6とかで、こう弟は全然状況を分かってないわけです、家庭の父のことも、お姉ちゃんのこともよく分かってなく自由奔放にしているわけです。
もう私が、私、とにかくつらいとか、嫌だとか、病気が嫌だとか言っちゃいけない、言っちゃいけない、言っちゃいけないって思ってたので言ってなかったんですけど、もうついに、もう我慢できなくなっちゃって、つら過ぎて、その、とにかく痔瘻が痛くて、痛くて、ものすごいお尻のうみが痛い、熱があってつらい、で、合わない父がいて、で、弟がふらふらしてて、お母さんは仕事で全然帰ってこない。
で、夜に母に一度だけ言ったんです、私は病気になってとてもつらい、嫌だって。そのとき看護師で夜勤で遅めに帰ってきて、遅めの夕ご飯を1人で母が食べていたんです。で、私がこの横に立って、お母さん、私はつらい、嫌だって言ったんですね。
そうしたら母が食べている箸をタンッて置いて「あんたね」って、「自分の娘が病気になって、こんな普通なご飯すら食べられなくなって、でも何もできない親っていうのは本当につらいんだよ」って言って母が泣いたんですよ。で、もう、ぐさっ、もう、ばーって刺さっちゃって、で、私も泣いて(笑)。で、弟にこの間聞いたら、弟それを違う部屋で聞いてたんですって。で、もう、よく分かんないけど、お母さんとお姉ちゃんがすごい何か言い合って泣き出したって(笑)、弟なりに怖くて出てこれなかったんですって。
で、私はもうすごい泣きながら、もう何か、わなわな、ガタガタ震えるぐらいショック、衝撃。もう今まで、そんなふうに母が泣いたことはなかった。ずっと笑っててくれて、愚痴も言わずに、ずっと1人で支えててくれたのに、そっか、私じゃなくてお母さんだったんだ、辛かったのはって気付けたんですね。で、こう倒れそうな自分は、倒れていくから楽なんですよ、かわいそうな私ダイブみたいな。でも、それをこうやって支えてくれてる、この手はどれほど重いんだろうって思ったら本当に衝撃的で、そこで初めて気付けたんですね…。

クローン病の語り

母親は、私には直接何も言わなかったけれど、自分を責めて泣いていたという話を妹から聞いた。父がそういうことを責めるタイプの人だったので、父には病気のことは話していなかったと思う

―― で、まあ、最初に、そのクローン病だというふうに、お医者さんから言われたときはどんな感じでしたか。

私は、ほっとしました。病名が付いたことが安心して。その心の病だと思い込んでいたんで、自分でこれ以上どう頑張っていいかも分かんないし、どうし、何をどうしていいか分かんなかったんですけど、ちゃんと病名が付いたので私のせいじゃなかったみたいな感じで安心したんですけど、家族はもうショックだったみたいですね。

―― そのときはあれですか、ご両親とご一緒だったんですか。

あ、そうですね。家族は主人、あ、えーと、両親と一緒に住んでました。

―― お母さまとか、どんなふうにおっしゃいました?

私には直接何も言わないんですけど、妹はいるんですけど、妹に話してたときに、もうオイオイ泣いてたみたいで、後から聞いた話ですけど、自分を責めたみたいなんですね。自分の、う、産み方がじゃないけど(笑)、何かそう思ったみたいですけど、私の前では、もう元気に「何とかなるよ」って言って明るく振る舞ってました。
まあ、父には話してなかったんですよね。そういうのが理解できる性格のタイプじゃなか、ないので、今でもですけど、こう、よわ、それこそ母を責めるような感じなので、もう誰も、さ、話さなかったです(笑)。娘が入院してても気にもしない人なので、今も多分分かってないと思います(笑)。

クローン病の語り

看護師だった母親からはひどくなるまで我慢したことや食生活についてうるさく言われた。父親は診断を聞いて悲しんでいたが、今でも食事制限のことは理解できていないようだ

19歳の頃から話をすると、結構、そのときに緊急でやってる病院が小さな個人病院だったんですよ。で、ちょうど春休みの期間もあって、春休みが全て入院になってしまったのもあってですね、ま、そのときに親に言われたのが、結構、母親がもともと看護師もやっていたので、うん、反対になんか怒られたというか。なんでこんなにひどくなるまで我慢してたのかって言って。
ちょっと、あと、私のほうも入院時間が長すぎてですね、途中でなんか、病院を脱走したくなったりとかで、ちょっと、あんまりいい関係ではなかったですね(笑)。
で、まあ、そういう病院の中で一応治療したので、結局、診断が胃潰瘍とかになってしまったっていう経緯もあってですね、最初に、今、親から言われているのが「あのときにちゃんとした大病院に行って診断受けてたら、こんなことになってなかったのかもね」っていう、なんか、コメントがありました。はい。
で、で、次の2012年のときなんですけれども、一応、私、1人暮らしを今、都内でしてるんですけど両親がちょっと離れた場所にいまして。で、ま、そういう経緯もあって両親もですね、やっぱ結構、心配してくれてですね、あの、こちらの病院に来てくれたりですとか。で、あと、診断されたときはちょうど父親も一緒に話を聞いてくれてまして、うん、なんか、父が結構悲しんでいたというか、なんでこんな病気になっちゃったんだっていう(笑)。

で、ただですね、その、病気になってそのときは両親そういう反応だったんですけれども、しばらく時間がたつと私の食生活が悪かったんじゃないかって、次、母親から責められまして(笑)。結局、私の食生活でこういうことになってるっていう、なんか、話がちょっとすり替わってですね、なんか、若干ちょっとこじれたりもしながら今に至ってる感じですね。はい。

―― 「なんで我慢してたの?」とか、「食生活が悪かったんじゃないの?」っていうふうにおっしゃるようなことに対して、そういうこと言われたときってどんなふうなお気持ちで、どんなふうに返してらっしゃったのかなと。

ああ、その頃は、うん、まだ若干、反抗期のときもあったんで、うん、ちょっとけんかになったりしましたね。あと、学生の頃って極端なダイエットに走ったりとか、あと、暴飲暴食になったりっていう時期もあったんで、確かにあれが原因だったのかなって、うん。今だったら受け入れられますけど、あのときはちょっと言い合いになりました。うん(笑)。
あと、一番、今の食生活について常にうるさいのはお母さんですね。うん。で、父とあと、私、下に2人、弟と妹がいるんですけどやっぱ全員が、なんか、私の食事が食べられる、食事制限の話を、なんか、理解しているわけじゃないので、うん。結構、お父さんとかはなんか、好きなものがどんどん出てきちゃったりとかして、うん(笑)。それをお母さんがまた奪うっていう、うん、食べちゃいけないでしょっていう、うん、なんかそんな感じのやりとりが食卓でよく、実家に帰ると繰り広げられてます。はい。

クローン病の語り

父には「働くのは無理だから一生養ってやる」といわれ、親との間に確執が生まれたが、一人暮らしをするようになってから何となく軟化してきた

父親に「もう、おまえは働くのは無理だと思うから、一生俺が養ってやる」と言われて、それもちょっとその確執の原因の一つではあるんですけれど(笑)。そう言われたのが、に対してすごく何で諦めるんだよみたいな気持ちがあったので、それがずっと心に残っていて自分でそのお金を稼ぐ仕事を続けながら自立した生活を続けるっていうところにすごく私はこだわっていて。

―― その、(ご両親との)確執が溶けてきたっていうのは何かきっかけがあるんですか。

やっぱり親元を離れて自分で、その独り暮らしを始めて…、自分でコントロールできるってなったときに手を離れられた解放感…、もあって、ちょっと何か、何でしょうね、自分の気持ちが落ち着いたっていうか。
 離れてみると…、何でしょう、他の人もそうかもしれないんですけど、独り暮らしして離れてみると、両親のその親として支援してくれていたのが客観的に見えたのもあるし…、何かすごく久しぶりに会ったら、あ、年取ったみたいなのも(笑)、両親に対して感じて…。
 何か守ってもらってたものが守らなきゃいけなくなったっていうか、何かちょっと立場が変わったかなっていうのを感じて。何かあんまりその…、自分が話さないとか、ずっとけんか腰じゃないですけど、でいるような感じにしててもこの先何も生まないなって思ったので普通、普通にっていうか。最初の頃はやっぱり話すことにすごく抵抗があったりだとかもしましたけれど、何となく軟化していきました(笑)。

クローン病の語り

両親は難病という言葉を聞いて絶望感を抱いた。母親からは「そんな体に産んでごめんね」と言われたが、慰められるっていうよりもすごく傷ついた記憶がある

両親は「難病」っていう言葉も聞いてしまったので、そこで、あ、もう治らない病気に娘はかかってしまったんだっていう何か絶望感じゃないですけれど、そういう感じがすごくあったみたいで…、何でしょうね、私を差し置いてすごく悲しんでいた(笑)、感じはすごくありました。

―― そのご両親が、そのあなたに何か、どういう言葉を掛けられたりとかしましたか。

掛けられた言葉は全然、覚えていないんですよね。
何か本当に、その両親が何か自分たち、自分たち? 自分の娘がその難病にかかってしまったっていう事実で悲しんでいるのはすごくよく分かるんですけれど、当事者は私であってっていう思いがすごくそのときは大きくて、何かそんなに悲しんでも何にもならないのに何をしているの?みたいな気持ちが(笑)、私はすごくあったので、何か多分、何か優しい言葉っていうか、掛けられたのかなって思うんですけれど全然覚えていないんですよね。
で、ただ一つだけ覚えているのは、母親が何かドラマでよくあるようなせりふだなって思うんですけれど、「そんな体に産んでごめんね」みたいなことを…、ぽつっと言ったときがあって。
でも、そのとき私の気持ちとしては、「そんな体」って言うけど私の体なんだけれどって思ったりだとか、あとは何かそういう何だろう、よく聞くようなせりふを言うことで自分が慰められたいんじゃないの?みたいな気持ち、すごく攻撃的な気持ちですけれど(笑)、を持ってしまって何か…、何でしょうね、慰められるっていうよりもすごく傷ついた記憶があります。そうですね。
あと父親に至っては病名が分かるまでの間、いろんな病気を考えていたみたいなんですけれど、年頃の娘でつい先日彼氏ができたばかりだったっていう状況もあって、性病を疑っていたんですよね(笑)。
で、年頃の娘に対してそんな疑いを抱くなんてみたいな、その長女、一番上の子どもでもあったのですごく何か…、何でしょうね、傷ついて(笑)。もう、それから高校時代、何年も会話をしなかったみたいな(笑)、時期もありました。
今は普通に話すし仲いいんですけれど、すごく何か、なので、病気になってしまったところでの確執みたいな、生まれたものは大きかったかなって思います。

クローン病の語り

診断を受けた時はもう一人で暮らしていたので、両親はそれほど病気にかかわっていなかった。当時はもう少し心配してくれてもいいと思った

―― クローン病という診断が出たときにご家族の反応とかっていうのは、どんな反応がありました?

すごくそれ、私にとって、私の今あるにはすごくそれ、すごくキーだと思うんですけど、あの、18歳から出てしまう、家を出てしまうんで、実際に病気が分かったときには両親は知らないというか、し、病名は聞きに来てますけど。
で、まあ、実際には両親働いてましたんで、実はそんなに深刻になってるって多分両親知らなかったんですね。で…、それを言うと母にも怒られるんですけど、そんなに見舞いにも来てもらってないんですよね。だから、すごく精神的には逆に、家族に。
あの、患者会をやっているときには(患者の親に)保護し過ぎですよと、お母さま、お父さまはあまりにもすごく深刻なんですよって(言っているが、それに対し)比較的(自分の)両親はあまり今も病気の状態っていう、どんな病気っていうのは、分かってないと思いますね。
まあ、父はもう結構高齢で認知始まっちゃっているんですけど(笑)、若いときからそんなに…、はい。多分、発症したときには、ちょうど私の今の年代だと思うんですけど一番仕事の忙しい時期で、もう離れちゃってますんで、もう病院に任せたみたいな感じになってたと思います。

―― それは逆に、ご本人にとっては気が楽だったということなんですか? あんまりご両親に過度に心配されるよりは。

逆に言うと、もっと心配してくれっていう気持ちもあったんですよ、当時は。当時はね。

クローン病の語り

40度の熱が出て緊急入院した時、両親は遺伝的なものかと心配した。結婚式の1か月前だったので、式に出られるのか心配し、相手の両親にも申し訳ないと思っていたようだ

―― 診断されたときですね、は、ご両親とかと一緒に生活されていたんですか?

はい。そうですね。あの…、同じ家に住んでいたわけではないんですけど、あの、ごく近くに住んでいました。
 なので、あの、調子が悪いというのは、あの、実家に来て、あの、母親に伝えていたので…、夜間救急外来に行くときにすぐにみんな動いてくれたっていう感じです。

―― そのクローン病だという、まあ、娘さんがクローン病だという診断を受けたときに、ご両親はどんなふうに感じておられたかっていうのは聞いたことはありますか?

そうですね…。やはり最初に、あの、遺伝的なものなのかっていうのは親としては心配だったみたいですね。
あとは、あの、時期的にですね、私の結婚式が発病当時に1カ月後に控えていたので、まずはそこに出席できるのかっていうことと、向こうのご両親に申し訳ないっていう気持ちがあったみたいですね。

―― そうすると、その式の1カ月前に発病っていうか、それはクローンと診断されたときではなくて、その40度の熱が出たときっていうことですか?

そうですね。えーと、40度の熱が出て入院したのが、結婚式の1カ月前だったので(笑)、退院をするのが間に合うかっていうところと、やっぱり、あの、全身に湿疹が、あの、紅斑っていう、こう盛り上がる湿疹が全身の首のところまで出てきてしまっていたので、ドレスを着れるかっていうところが、あの、ありましたね(笑)。

―― でも、そのときはまだクローン病というのは分かっていなかったわけですよね。

はい。あの、そのときはベーチェット病疑いのまんまでしたね。

クローン病の語り

長い間両親と3人で暮らしていたので、病気になってから両親はとても心配してくれた。途中ぎくしゃくしたこともあったが、今では母親には感謝している

―― ご家族との関係性というんですかね、病気をしたことによって何かこう変わってきたとか、そういったようなことってありますか。

そうですね、やっぱり、最初の本屋に勤めていた時も、そこを止めて実家の飲食店を手伝っていた時も、ずーと私と両親の三人で暮らしていました。姉と兄がいるんですがそれぞれ家を当時はもう出ていましたので、発症時も当然家族三人でいたのでやはり、特に母親が非常に心配をして、一時は自分のせいでこんな病気になったんじゃないか、とか言ったり、ま、こちらもこちらでその特に絶食をしている時ってのは非常に、こう外に出るのが億劫になったり殻に閉じこもりがちで、ストレスもたまっていて、まあちょっとしたいさかいで母親に怒鳴ったりして、結構…ギクシャクしたりしたこともあったんですが、振り返れば本当に両親は…ま、その、絶食しなけりゃならないとか食事を制限しなけりゃならないということに対しても、かなりこう、なんていうんですかね、長い目で見てくれたというか、理解してくれて、ま、言い方悪いんですけど、こうほっといてくれる。もう25ですから当然と言えるのかもしんないですけれども、私がしたいようにさせてくれた、っていうことも、面もありました。両親も今はちょっともう亡くなってしまったんですが、…まああの本当に母親には感謝しています。

クローン病の語り

両親は私のことをとても心配して、民間療法や宗教のところに相談に行ったりしていた。それはやはり息子の病気を治したいという思いが強かったからだと思う

で、まあ、両親に関しては、その診断、その中学、高校(時代)はかなり心配をして何ていうんですかね、こう民間療法というか、ああいうところに相談に行ったり、まあ、それこそ何ていうんですかね、しゅ、宗教というか、あの、そういうところに相談に行ったり、かなり…、本当に私のことを考えていてくれていたからこそなんでしょうけど。で、私も、まあ、そういうところに連れて行かれたりとかして。
で、結局、まあ、そこに行っても、まあ、何の解決にもならなかったんですけど、まあ、両親はそんな感じで何とか私を、まあ、なお、まあ、一番はやっぱり、なお、治したい、息子の病気を治したいっていう思いが強かったことと、ことでしょうね。
まあ、治らないにしても症状が落ち着いた状態で、すご、過ごさせたいという思いが強かった。特に父が、その思いは強かったですね。
だから、もう、いまだに、まあ、父はもう他界したんですけど、私は父には頭が上がらないというか、本当に親身にしてくれた記憶があります。