投稿者「hanaoka」のアーカイブ

クローン病の語り

治療の情報を調べて、自分から主治医に薬の提案などをしてきた。主治医は、それを否定せず、主治医なりの考えを話してくれて、相談しながら治療を進めることができていると思う

―― あと、そのお医者さんとの関係なんですけれども、まあ、その治療方針等でお医者さんと意見がこう合わなかったとかいうようなことってありますか。

はい。そうですね。あの、実際多いのが、私から治療を提案するというか、そういったことが結構多くてですね、まあ、私もいろいろと治療に関して情報を調べて自分に合うかなって思った薬とかを見つけた場合には主治医に相談しまして、これ私に合ってますかねっていうふうなかたちで話をしてみて。
ただ、主治医も主治医なりの恐らく考えがあると思うので、ちょっとこの症状だと合わないかもしれないっていうふうなことももちろん言われたりしますけれども、私の提案したことに関して完全に否定するんではなくて「じゃあ、ちょっと試しでやってみようか」っていうふうに言ってもらえる主治医と今、あの、治療のほうをしていた、して続けているので、主治医が、あの主治医と私との関係も結構いいのかなというふうに思っています。

―― それは何よりですね。

はい。

―― そうすると、こう、そのセカンドオピニオンを取ったりとか、そういうご経験はありませんか。

…そうですね、セカンドオピニオンに関しては、えー、経験はないかなと思います。
ただ、引っ越しをしているので、そういったところで病院を変えた経験はもちろんあるので、そういったところでは主治医変わるっていうことはありましたね。

クローン病の語り

大きな病院で、対応が非常に冷たかった。家の近くに転院予定で、レミケードの注射を元の病院でもう1回だけお願いしたら、「それは都合のいい話」と断られてすごく怒った

―― その記憶に残るようなお医者さんとか、看護師さんとか医療者の方っていらっしゃいますか。

最初にクローン病って言ってくれた主治医が、うん、何か厳しい人で、18歳の私に向かって、私がどうしたらいいんでしょうって言うと、「それはあなたが何とかするんです」みたいなことを言われて当時はすっごい傷ついていたんですけど。まあ今思うと、自分のコントロールは確かに自分でやるしかないなって思います(笑)。まあ、その後の先生は…、微妙なのであんまりお話しするのは微妙かと思います。

―― 何かその傷つくような言葉を言われたとか、そういうことですか?

そうですね。その東京に出てきてすごくおっきな病院でかかってた先生は毎日百何人とか診るので、もうそのうちの一人なので、こうさっさ、さっさ診ていかれる感じも、まあ、やっぱり嫌と言えば嫌だし。で、私が転院決めたときも、まあ非常に冷たかったんですよね。転院決めて、でも、そのレミケードを打つタイミングがこっちで間に合わなかったんです、新しいところで。
だから先生に電話して、元々の主治医に、で、もう一回だけレミケードを打たせてほしいって言ったら、「それはすごく都合のいい話ですよ、そんなことできませんよ」って言われて、もう、もうすっごい怒れ、怒りました、なんてひどいことを言うんだろうと思って、困っているのにと。

―― その、転院。
転院を決めたのは、何で転院されたんでしたっけ。

あ、遠かったのと、もう、その、たらい回し感が嫌だなって思って。
まあ、でも一番は遠かったからですかね。

クローン病の語り

その医者は、大腸内視鏡をしている時に「痛いからやめてほしい」と頼んでも多くの研修医に説明を続けて検査をやめようとはしなかった

そうですね大きな病院で検査をしてっていう感じだったので、もうなんていうのか、その当時大腸を見る検査っていうのがあったんですけれど、いわゆる患者の同意がなしにまあクローン病って珍しかったらしくって、気が付いたら検査をするときに、気が付いたらものすごい人数の研修医がいて、もう私それが精神的にトラウマになっていて、もう二度と大腸の検査は受けないって、今も言ってるんですけど。もうその状態で、私がもうとにかく痛いので医者にこれ以上診察を止めてくださいって言ったら、この人は痛がるからこういうところをこうするとこう言いう感じでこうなってるからっていう解説をずっと始めてて、止めるどころじゃなくて、まず検査止めてください。研修医に説明をずーと続けていましたね。もう研修医は10何人くらいいるような感じで、よっぽど珍しかったという時代で。まあそれもなんか精神的にはそれも辛い。なので、早く病院をちゃんとしたところに変わりたいというのが毎日思うことでしたね。

―― その当時の大腸の検査っていうのはカメラですかね。

カメラです。カメラしかないっていうか、もうバリュームがなくて。あの私が行ってた病院の先生は大腸の専門医としてやられている方なので、まあずっとカメラ専門なんですよね。なので、私は小腸と大腸両方が病変があるんですけど主に、というかほぼその5年間は、ちゃんと確定が付くまでは大腸しか見てないんですよ。小腸は診た覚えがないっていうか全然診ないで来てましたね。

クローン病の語り

その医師は若い患者に対して「医者になれ」とよく言う。「死ぬほど勉強すればなんにでもなれる」と。後ろ向きの言葉ではなく希望を与える言葉がうれしかった(音声のみ)

―― 具体的に何かこう、こういう言葉を言われてよかったとか、あるいは逆に傷ついたとかっていうことはあります?

えーと、やっぱりそうですね、あの、言われてうれしいのは何か…、これはある、この言葉を言ったらある先生しか言っていなさそうなので特定できてしまうんですが(笑)。あの、若い患者さんに会うと、その先生は「医者になったらいいじゃない」と言うんですよ。うん、「お医者さんになったらいいじゃない」って言うんですよ。で、実際にお医者さんになった方がいらして、先生のご助言で。
で、あの、ある意味、健康な方よりもすごいことを成し遂げているようなクローン病の患者さん、あの、いるし、潰瘍性大腸炎の患者さんはいらして、それはもう、こう諦めないっていう、病気に罹患したから人生を諦めないような生き方だと思うんですね。
なので、私も今自分のこの職(心理カウンセラー)に就けている、諦めなかったんです、高校のときからの夢を。で、あの、だと思いますし、そういうような希望を与えてくれるんですよ、何にでもなれるような言い方を。「医者になればいいじゃない」とかって言われたら、え、そんな脳みそないですけどって思いながら(笑)、全然違う「大丈夫だよ、勉強すれば」って。
やっぱり、でもかっこいいのは、やっぱり「死ぬほど勉強しろ」とは言うんですけど(笑)、そのぐらい勉強したら誰にでも、その、難病患者であっても、何にでもなれるよというような言い方をしてくれる。もう、もちろんね、スポーツ選手とかきついものもあるかもしれないんですけれども、あの、道を変えれば、あの、こう結構すごい職業に就けている方はいて。そういう、こうあれも駄目、これも駄目、食べ物駄目とか、入院してなきゃ駄目とか、こう将来を摘む言葉より、まあ実際そうなんですけど、ところもいっぱいあるんですけど、そういうこう希望を与えるような言葉をおっしゃってくれる、あの、社会的なものとして社会に適応できていけるっていうのがやっぱりうれしかったです。それが一番ですかね。

クローン病の語り

環境の悪い海外へ行こうとしたときや激務の仕事に就こうとしたときに、いつも背中を押してくれた先生にとても助けられた

―― 長い闘病生活の中で色んなまあお医者さんとか看護師さんとか医療者のかたと、こう、コンタクトがあったと思うんですけども、何かその特徴的に記憶に残るお医者さんとかいらっしゃいますか。

あのー、正反対の意味では一つはその一番最初に痔ろうだって言って行ったときに、なんだこれって、人のね、あの、患部を指さして、げたげた笑った先生。なんだこれって、これ私の体だよって思ったこと。
で、反対の意味では、ま、今もお世話になっている主治医の先生で、あの、イタリアに行く時、あの、実は最初イタリアではなくもうちょっとあの、環境の悪いところの予定だったんですね。で、それで行く時に、ま、一応夫もどういうことか話をちゃんと聞きたいって、一緒に来て、はあ、さすがにこれはあの先生でも止めとけっていうかなと思って、で、先生にこうなんですけどって言ったら、先生が「あそう、えーとじゃ何が必要。えーと、僕ができることは何」って言ってくれたんですね。でもう、それで本当に救われたというか、まあ、思えば最初にその、激務の仕事が決まってた時も、あの先生はやるなっていうことは一度も言ったことがない。やってみてだめだったらその時止めればいい、そういう風に思って。先生は、じゃやるなら勝手にやりなじゃなくて、やって駄目だった時は僕が助けるからと、それはすごく助かってます。そういう人に私もなりたいです。

クローン病の語り

小児科の看護師さんが親身になって話や悩みを聞いてくれた。医療者は患者の病気を見るのは勿論だが、その人の全体を診なければならないと思う。自分はそういう人に出会えてよかった

あと看護師さんで言えば小児科のその入院したとき、あの、ですけど…、まあ、やっぱりその思春期で入退院をそんなに繰り返しをしていたので、やっぱり将来の不安っていうのがすごい当時あったんですよね。何ていうんですかね。
その当時は、まだ看護師になりたいとかは、おも、あんまりは思ってはなかったんですけど、こんなに体調不安定でどうやって生活していくんだろうと、で、大学とかに行けるんだろうか。
で、かなり、入退院していたので、その成績っていうか勉強も正直、追い付いていってなかったんですね。で、その辺をやっぱり誰にも、まあ、親にも話せなくって。まあ、その辺を察してくれて、そのある看護師さんが結構、その空いている時間に僕のところに来てくださっていろいろ話を聴いてくださって。
あの、まあ、その看護師さんと出会ったからこそ、まあ、本当に看護師っていう仕事がすごくいいんだなっていう思いにかられたというか、何ていうんですかね。
その、看護師ってやっぱり病気ももちろん見ないといけないんですけど、病気だけではなくて、その人の背景であったり、思いであったり、何かもう、全体というか、病気を含めたその人の…、全体をこう見れる、そしてそれをキャッチできる、そしてそれを、えーと、その患者さんとともに考えることができる、本当に素晴らしい看護師さんと当時出会って、本当に何か今の未来が開けたというか(笑)、本当に。
患者にとってみれば、そういう医療者、医師、看護師の存在って本当にやっぱり大きくて、そういう人と出会うか、出会わないかで、うーん、人生というか、まあ、生活、人生も左右してしまう、私は幸いそういう人に出会うことができたので。
だから、もしそういう人がいなかったら自分のほうから見つけていくというか、何か、あと相性もあると思うんですよね。あの、周りの人はみんな「あの看護婦さん、いいよ」って言っていても、何か自分は合わないなと思ったら(笑)、別の人を探したらいいと思うので、あの、必ず誰かいると思うので、そういう人を見つけたらいいのかなというふうに思いますけれども。

クローン病の語り

宗教に頼って、しばらく病院に行かない時期もあったが、24歳の頃にラジオのパーソナリティーに影響を受け、宗教に対する考えが変わって病院での治療に戻った

―― しばらく病院に行かなかった時期が4年くらいあるという、で、その間、ま、宗教とかに頼った時があったということなんですけども、あのー、どういう宗教だったんですか。

えーとですね、…まあ、やっぱり病気だと、うーんと、親戚とか知り合いの方からとか色んな宗教の声かけられると思うんですけど、ちょっと、うーんと、入った宗教に関しては、うちの母の知り合いの人が入ってた、〇〇の方にえー、入って、で、一時期やっぱり通ったりもしてましたね。。はい。あとはキリスト関係の人も来たりとかもしたんですけど、なんかうちの母はそこに関してはそこまでではなかったみたいですけど、まあ、〇〇の方に関しては何か、…話を聞いてそんで、ちょっとやっぱり、信じたところがあってそれでやってましたね。はい。

―― その当時は20…1歳を過ぎて、ま、成人されてたわけですね。

入ったのはですねもう中学…自分が中学の頃に入ったんで、やっぱり、ずーと小さい時から、えー、病弱だったので母も色んな漢方薬だったりとか、後は拝みやさんだったりとか、後は何か自然療法みたいなものとか、そういった色々他の人から聞いて、いいと思うものは色々と試したもので、なので宗教に関しては中学校2年か3年の時ですね、一緒に話を聞きに行ったのっていうのが始まりですね。はい。

―― それで、そのまたどうしても具合が悪くなって、2回目入院した時(24歳のころ)くらいから、いわゆる標準治療っていうんですか、そういったことをやっていこうというふうに変わってこられたと思うんですけど、それはどういう、何かがきっかけだったんですか。

そうですね、うーんと、一つは先生の方から、うーんと、治療を受けるんだったらしっかり治療をするようにというように話があったのと、後は自分の中でもうーん・・・その頃かその後かわからないんですけども、宗教に関する考え方が変わったんですね。要するにそれはうーんと、ラジオでその芝居をやってる人(パーソナリティ)の、えー・・何ていう・・考えっていうかそういうものに共感したとこもあって、宗教のプラス面マイナス面を知ったというのがあったので。はい。

クローン病の語り

新興宗教や民間療法に頼り、治すことだけにとらわれていたときはつらかった。結局1人ではどうにもできず、病気に向き合っている人の話を聞いて、初めて受け入れることができた

で、その当時は、ま、病気の知識もなかったのもあって、あのー、どういったらいいんですかね、なんか「一発で治したろう」という心があって、ま、病気は取りあえず根本的には受け入れられないので一発で治そうというので、え、ま、怪しげか怪しくないかは別として新興宗教さんに2つも3つも行ってみたりとか。あの、ま、民間療法ですね、で、漢方も含めて。あらゆる、取りあえず治すという、治るという前提の下でいろんな、西洋医学以外のものをずっと頼っていきました。

―― ご自分でクローン病がこういうもんだってこう、分かってきたときっていうのはどんな感じでした?

そうですね、もう、あの、ま、先ほど、あの、治したい、まず一心と、うーん、で、その、いろんな試行錯誤繰り返し、西洋医学でも、ま、あの、そのときにできる治療していただいて、で…、ま、つらいというか、いろいろ試して治ると思って、治らないっていうことが受け入れられるまでは、まあ、大変、え。
ま、心がずっと解決のない問題をずっと抱えてる状態になりますので、それが他のこと、例えば大学時代やったら恋愛やとかいろんな、なんかスポーツを、楽しいことたくさんあるのにもうそれにとらわれて、あの、治すことが目的になってしまって、えらい、その。病気のことを考え続けてしまってる時間、あの、方向性がすごい、後から思えばもったいないんですけれども、あの当時としたら、まあ、そういう思いに至ってないだけに致し方ないのかなと思うんですけれども。なかなか病気を受け入れるまでにかなりの僕は困難な道を逆に選んでしまって。ようやくいろいろ踏んだり蹴ったりしてから気が付けたのかなと思います。
逆に、まあ、受け入れたのはなぜ受けられたかというとやっぱり追い詰められ。で、やっぱり仲間のたくさん話聞くことで、ま、なんかそのときは1人で、1人だけなんとかなるやろうとは1人だけでどうっていう、思っちゃったのが、あの、ちゃんとやっておられる、病気と向かい合ってる人や人の話をたくさん聞けて、あの、受け入れて初めてなんか他のことにも考えを向けれるようになったかなと思います。

クローン病の語り

お店を始めた頃は精神的に追い詰められるような時期もあったが、そばで心配してくれる母と夫の存在が大きかった。助けを求めてからは、気持ちの面で楽になった

はい。そうですね。えーと、病気になる前となった後では、えーと、全然変わってしまって、えーと、体調管理も、えーと、以前では我慢できた疲労ですとか、以前では無理できたこととかが全くできなくなってしまいまして、やっぱり1日無理すると1週間寝込んでしまったりとか、あの、旅行なんかも、あの、怖くて行けなくなってしまいましたね。
まあ、精神的にも、あの、手術ですとか、あの、検査を、まあ、たくさん経験したりして、あの、検査や手術への恐怖だったり、こう痛みへの恐怖みたいなものが強くなってしまった時期もあって、あの、精神的に追い詰められるような時期もありましたね。

―― それが、こうどこかで何か転換点というのはあったんですか?

そうですね。えーと、仕事の面で、やはり、あの、まだ、しご、えーと、お店を始めたばかりの年っていうんですかね、開店して1年ぐらいはやっぱり自分の店なので少し頑張り過ぎてしまったところがあって。
その時期にかなり症状も悪化してきてしまって、あの手術や検査も重なっていたので、1年ぐらいしてこのままでは駄目だと思い、あの、家族にちょっと助けを求めて、仕事をかなり分散させるようにしてからは、えーと、気持ちの面でも楽になりましたね。

そうですね…。やはり母と、あの。主人の存在が大きかったかなとは思いますね。
やっぱり、あの、日々一番近くにいる、あの2人なんですけど、一番こう病気を知ろうとしてくれたりとか、こう体のことを、こう気遣ってくれたりとかしていたので、その2人にこう心配とか迷惑を掛けないようにしたいっていう思いが強くなったのがきっかけかもしれないですね。

あの、責任感、変な責任感を持って(笑)、全て自分でこなそうと思っていたところがあったので、休みもみんなと同じだけしか取らないっていう、こう取りたくないっていう気持ちが自分の中であったんですけど(笑)、ちょっとその自分でこのままではいけないなと思ってからは、えーと、みんなよりもお休みをいただくようにして、あの、長期の、あの、入院などにならないように気を付けて生活できるようにコントロールできるようになってきました(笑)。

クローン病の語り

主治医がきっかけで自分の意思を言葉にしてみると、叶っていくことがわかった。それからやりたいことを口に出すようになった

もともとの自分の性格は、あのー、負けず嫌いで、欲張りだと思うんですけど、だからこそ、友達とか周りがやってて自分ができないことっていうのがとてもあの、悔しく思って、劣等感も感じたりとかしたんですけれど、みんなと同じようにやりたい、みんなと同じように扱ってもらって、特別扱いしてもらいたくないっていうのが元々あった。それは、自分の性格だと思います。
ただ、あのー僻みっぽいとか落ち込みやすいっていう性格も勿論あったんですけれど、あのー、落ち込んでたら楽しいことを逃してしまうということを、それで余計悔しくなったことを、いっぱい入院とかしてて、経験したので、やれる時にやれる状況があれば、やっとかんと、もうやれないかもって、いうふうに、入院したからこそ、友達から離れたからこそ、そういう思いが強くなったということもあるんじゃないかなと思いますし、
前向きっていう部分では、看護学校時代の主治医が、「お前は何をしたいんだ?」って「言うことから始まる」って言ったんですけど、あの、私の意思っていうのを引き出してくれる先生だったんですけど、私は自分の考えはあんまり言わないタイプだったんですけど、そこであの、怖い先生だったので・・まあ、うまく、無理やりというか、「言ってみよう!」っていう感じで私から引き出してくれて、で、言葉に出すとそれが叶っていくということがわかって、とてもあのー、私的には、自分の意思を出すっていうきっかけになって、それからあの、やりたいことを口に出していこうという風になって、だんだんなってきたんじゃないかなって思います。
後は今の主人と出会ってからなんですけど、あのー、どうでもいいことはどうでもいい、どうでもよくないことを一生懸命やる、っていうような性格なんですけど、その性格から、やっぱりやれること限られている部分、やりたいことに集中しようっていう気持ちっていうのが培われたんじゃないかなと思います。