最初は、もしかしたら、よくお酒を飲むので、アルコール依存症からくるいろいろ、こう、過激な行動が出てきたのかなと思って、4月にアルコールとか精神的なものの病院へ行ったんです。そこは予約がいらないので、ちょっと遠かったんですけども。で、アルコール依存症的なチェックを受けたんですが、全く問題ないと。そこで、お医者さんが、「ピック病じゃないかと思います」と言われたのが初めてのその病名で、「何でしょうかそれは」ということで。「いや、これこれこうなんだ、人格が変わり、いろんな問題行動がおきるんだ」と。「ただ、画像を撮らないと分からない」と。「この病院には、その画像検査の施設がないので」ということで、それができる大きな大学病院を紹介されて、そこで改めて画像を撮ったところ、ピック病であるということが分かったんです。
前頭葉と、側頭葉が委縮しているっていうことと。えー、直接の診断をもらったのは、神経内科だったんですけども、その先生は、「実際には、ピック病の患者さんは診たことがない」とおっしゃったんです。でも、「じゃ、どうして分かったんですか」とお聞きしたら、「問診で分かりました」ということで。「ピックというのは、ま、古い言い方で、今は、前頭側頭型認知症とか、前頭側頭葉変性症と言います」と。
その年の8月に主人の父が亡くなったんですね。隣に住んで、1人暮らしだったんですけども。そのとき、もう93~94ですかね。父も前々から、その息子の長男、主人のことを「あ、もしかしたら、あれ(息子)は、精神病じゃなかろうか」と。「お酒を飲んで、親にこう、議論をするときの形相がものすごいんだ」と。
5月に、主人がそういう病気だったっていうことが分かって、わたしは、あ、そうかと。何か、それまで、いろんな数年間あったおかしなことが、ほとんど、こう、腑に落ちたっていうか、あのおかしかったことも全部病気のせいだったのかなということで、父にも話をして、そうだったのかと。でも、その時点では、まだ、わたしも病気のその後のことは分かっていませんでしたし。あの、父も分かったような気がしたけども、実際には、主人がどう変わっていくか分からないし、父としてはきっと大きな不安を抱いて、このあと、このわれわれの一家は、一族はどうなっていくんだろうと思ったであろうと。
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で、初めて、しっかり、わたしが、父の病院に、一応、それまで、月に2回とか定期健診には、毎月、行っていたんですけど、わたしが行くことになって、連れて行かなきゃいけないので、1人では、行けなかったりしていたので、行って、そこで、主治医の先生に、もう、さっぱり、やっぱ、現実がさっぱり分からなかったので、「父は何なんですか」というか、「今の、現状は、何なんですか」って聞いたときには、しっかり「認知症です」と、そんときは聞いたと思います。ぼんやり前も聞いていたんですけども、改めて聞いて、「脳血管性の認知症になりかけているというか、なりはじめていますね」みたいな。
でも、そもそもその時点で、認知症…の脳血管性って何だっていうところから、何か、やっぱアルツハイマーのイメージが強いんですけど。今でこそ、いろいろ分かっても、認知症にその種類があることも(当時は)分からないし。まず、アルツハイマーになったんだ。どんどん壊れて、壊れていくって言い方あれなんですけど、ああなるのかみたいな、何か、こう、恐怖というか、そういう感じで。
今でさえも、母親が(がんで)えらい大変なことになっているのに、それがさっばり父親分かっていなくて。えーとか思ったんですけど、ま、そのとき、先生が、こう「いろいろ種類があって、お父さんの脳が切れてしまって、その切れたところから、どんどん、こう、それが記憶、…を作用するところにもおよんだ認知症だ」みたいな。何か、でも、やっぱり分からないんです、何だか、全然知識がない。で、とにかく、どんどん、こう、記憶とかなくなっていく病気にはなっているんだ。し、仕方がないのかみたいな、その母親のことが分からないこととか。
どっちかと言えば、母とわたしは、その脳出血によって麻痺が残って寝たきりになるんじゃないかとか、しゃべれなくなるんじゃないかとか、そっちのほうに気とられて、どうしても、そういうイメージが、脳が、脳の血管が切れると、そのあとの寝たきりとか麻痺とかっていうほうに気がとられちゃうので、先生「認知症にもなってくると思います」みたいなこと言われても、「はあ?」みたいな感じで、「それより、麻痺は残るんですか」とか、「しゃべれるようになるんですか」とか、そっちだったかもしれないですね。
それまで何が原因で(夫がこうなったのか)、お祓いしなくちゃいけない事態かもっていう、そっちの不安もあったから、ある意味はっきりしたことで、ホッとした瞬間でもあったんです。はっきり分かったと。はっきり分かれば、原因を取り除けば、よい結果につながるので、資料とか、それから取り組み方法とかあるなあと思って、一瞬でしたけど、これで道は開けたっていう安心感、味わってるんですね。でも、次の瞬間、あの、私たちにとっては未常識だし、未知だらけなので、何か先行きが見えない不安、それも肩を落とした理由の中にあったし、どういうふうに取り組んでいいか分からないっていう心細さもあったし、そういう意味で本当に二人三脚でやっていくしかないなって。
で、同時に、1つ思い出したのは、あの、2人で結婚するときの約束ってのがありまして、まあ、人生それぞれ、1人1人が主人公で、輝いて生きられる人生が誰の中にもあると。だけど、主人公が光るには、舞台に例えたら脇役が必要だよねって。で、最高の脇役に支えられたら、主役は生きるよねって。だから、お互いの人生の最高の、最善の脇役になり合おうねっていうのが、これ、約束だったんですね。お互い人生を楽しむ流れはあったし、それまでも何かこう、いつも彼の周りには、ま、ファッションも大好きですから、お酒も好きだし、たばこも好きだし、楽しいことが好きなので、いつも人に囲まれて、で、その中で中心に笑っているのが彼だった。
そんな中で、まあ、主人がこの状況になって、2人で支え合っていくときに、今度は介護とか、当事者を支える介護の立場で、主人は当事者の立場で、それでもあの、体に故障があったとしても、そのときできる、精いっぱいの自分らしく、輝いていく生き方はあるはずだし、それを自分たちなりに精いっぱいやっていこうって。それこそお互いの、介護の世界における、あるいは病気療養の世界における、最善、最高の脇役になるっていうところで、このレビーにも取り組んでいこうっていうふうに決意した日、でもあったんですけど。
その開業医の先生のところに初めて行って、ドアを開けて、父が先に歩いて入っていったんですが、その姿を見て先生が、「あ、レビー小体病だ」と言ったんです。歩く姿だけで。で、…何?レビーってと思って。だから、当時の病名はびまん性レビー小体病という形だったんです。というのは、その、まあ、後から知ったことですけども、2005年~6年に、えーと、レビー小体型認知症の診断基準の改定があったみたいで、そのときに呼び方とか、そういうものも変わったみたいで、ちょうど変わる、うーん、何か微妙な時期だったのか、まあ、最初はびまん性レビー小体病ということで、父にも、あのー、お父さん、こういう病気だってって初めて言って、「何かレビー小体っていうのができるんだって」って言ったら、父が、何か、「なーんだ、そうだったのか」と(笑)、「だから具合が悪かったんだ」。父は多分そこは治せるものだと思ったんだと思うんですけどね。まあ、推測でしかないですけど。で、その日からとても元気になりました。
で、私のほうは、まあ、2年間もやもやしながら、父の変化を受け入れられず(笑)、振り回されながら、2年間きて、初めてそのー、先生と今の父の状態について、先生とちゃんと話をして、先生がこういうとこ気をつけたらいいですよって言ってくださったって、その瞬間にもう体中の力が(笑)抜けちゃって、こういうことがなかったら、そのー…、今から(レビー小体型を省略して)認知症ってずっと言いますけど、認知症の人との生活はできないだろうと。何か先生が言ってくれなかったら、私は在宅介護はずっとできなかったと。聞いてくれる先生と、それから、判断してくれる人、正しく判断してくれる人。だから、もやもやの中で2年間、本当に振り回されて、で、父、本人が一番、父自身が一番大変だったと思うんですよね。自分の変化を、自分でもおかしいと思ってるわけだから(笑)。だから、そこを、それで父自身も、自分の状態を先生にはっきり伝えられて、で、先生がそれに対してちゃんと答えてくれるっていう、その瞬間が父もね、すごくうれしかったんだと思います。
母と父は非常に、私は一人っ子ですけども、非常に仲のいい夫婦で、母はいつも、その、父を尊敬してた。で、母は末っ子で、結構、あと看護師で、すごく強くって、はっきりしてまして、父はちょっと穏やかな。だけど、母は、そんな、結構強い、親せきからは、あの、きつい人と言われるぐらい(笑)、強そうな人なんですけど、父をすごく大事に思ってて、尊敬してて、まあ、二人仲良くて。何でこんなに仲いいんだろうと思うぐらい仲が良かったんです。
で、まあ、だから、二人もそれ、それぞれに一緒に老いてきたんだけども、父が先にそういうふうにちょっと、元気がなくなって、認知症と診断されたら、母は、あのー、もう私も、多分、母にも言ってないと思うんですね、認知症とは言わなかったと、病気っていう形で言ってたんですけど。そうしたら、その、母は「もうお父さん、ぼけちゃった」と、「もう全然分からない」って、だから、「これはこういう病気なの」と言っても、「いや、ぼけちゃった」って、「もう何も分からない、情けない」って。で、父にいろんなことを要求するんですよ。こう、「このくらいできるでしょう」って、「できないはずがない」って。と、父もしっかりしてるときはもう、まあ、何でもすいすいできる、ほら、やればできたでしょうみたいな(笑)、そんな、そんな感じですね。そうすると、できないと、とにかく悔しがって怒る。「情けない」って。「何でこんなことできなくなっちゃったの」って。それはずっとやってましたね。
で、だんだんに、その、母が、まあ、テレビ見てたり、アルツハイマーの話、聞いてたりして、で、ああ、こういう、認知症って、今、病気で捉えるんだとか、いろいろ母なりに考えたり、新聞切り抜いたり、まあ、後から見たらそういうのがいっぱい出てきて、メモして、で、あのー、ぼけないためにはどうするかみたいな、メモしてあって、新聞をいっぱい読むとか。母はそれを今度、父を見ながら、自分はしっかりしてようと思って、いろいろ努力してみてた。うん、ですね、やっぱりいろいろやってたり。亡くなってからいろんなもの見つかって分かったけど、母なりにはいろいろ考えていたみたいです。
あの、何にも知らなかったんです、恥ずかしくって、本当に。そんなんね、夫が(認知症に)なるなんてこと信じられないじゃないですか。それから、先生がそういうふうにおっしゃっても、そうかしら?って感じで、自分で認めてないとこがあったんですね。それで、知らなきゃいけないと思って。うん、本屋さんで、いっぺんじゃないですけど、ちょこちょこ、ちょこちょこ、そういうふうに書いてある記事とか何かで、10冊以上ぐらいは読みました(笑)。ええ。でも、4年目ぐらいからは、ま、先生を疑うわけじゃないですけど(笑)。先生に怒られちゃいますけど(笑)。まあ、先生さすがだわと思ってね。最近は、先生、最初よくお分かりになったわと、さすがと思ってね。本当です、ええ、今は。
―― やっぱりすごくお勉強されたんですね。
ええ。すごくもう。これは当てはまるとか、これ、こういうことはちょっと違うわとかね、いろいろね。で、私も妻としてね、責任を感じたんですね。主人がこんなふうになっちゃって、私が何か間違ったことがあったんじゃないかと思って、そういうふうに思ったこともあるんですけど、あのー、それは何か原因もあんまり分からないし(笑)、というふうにね。だから、何か落ち度があったんじゃないかと思ってね、ええ。そういう責任は感じたことあるんですけど、悪かったわとかね。でも、なんか原因不明なんですかね、分からないですけど、ええ。
まず、経済的なことをまず考えたんです。えーと、まあゆくゆくは、(夫は)大学も退職しなくっちゃいけなくなるだろうし。それと、ああ、これからどういうふうに生計立てていくかとか、あと、義母をこのまま、えーと、もしグループホームが決まらなくって、主人も、その、認知症がどんどんひどくなってきて、2人の面倒を私1人で見れるのかしらという思いと、ご近所の方にも何も今も言ってないんですけれども、異常行動とか起きた場合に、どのよう、どんなふうにして対処していっていいのかなとか…そういうことですよね。……うーんと、自分のほうも仕事もやってたので、仕事もしましてたので、仕事しながら見るのはやっぱり無理かなと。でも、経済的な状況からしたら、ああ、じゃあ、やっぱり私仕事しないと駄目かなとか、もう…思いがこう、交錯してましたね。うん……主人の仕事、その退職を迫られて仕事がなくなったら、どうなるんだろうとか、そういうのが一番でしたね。
先生の答えは、「奥さん、間違いなく認知症や」と。だから、あの、あのときはぼけ…ぼけが奥さんには始まってますよ。だから、私は歳を考えたときには、あのとき家内は52やから、そういうおかしな病気かかるわけないやろ、っていうもんがあって。ま、そこのお医者さんに、「この病気が、先生、治らんのですか?」その先生いわく、「治らんな」という答えだったんですよ。 だから、あのー、まあ慎重派の先生やったら、「もうちょっと様子見てみましょ。ひょっとしたら、いいほうに向かうかも分かりませんよ」という言葉が私、欲しかったんやけど、ま、家内もちょっと待合室に置かしてもら、あのー、待ってて、で、私はちょっと先生の診察室に呼ばれまして、まあ、あの、いわゆる認知症宣告を受けたんですけれど、その時点で、私はそういう言葉がもうものすごくショックで、もう、その言葉がずーっと残ったまま、えー、その認知症から逃げてました。私自身が、そんな病気にかかるわけないやろ、っていう気のほうが多くて、逃げてる自分がずっとあったと。
ほんで、まあ、まさかなーいう、その、こわごわ、まあ、そういう認知症でなければええけどな、いう思いで(病院に)連れて行きました。ところが、やっぱりもう診断、えー、診察に行った、もうその時でもう認知症いう診断やったんですよ。うん。それで、まあちょっと大きなショック受けましてね。
で、それも先生自身、まあ本人、本人そのときは、本人を外してくれて先生話してほしかったいう(笑)。何で、本人の目の前で先生、言わはるのかな思たぐらい、うん、やっぱり、もうこれは…うん、あの、うちの場合はCTだけの検査やったんですよね。それでもう、そういう診断がいきなり出て、「これ、残念やけどな、もう認知症や」言うて。もう、「これはもう治らん病気で、もう進行性の病気で、これは治らへん」。言われてね、それが、それがきつかったんですよね、そう(笑)。
本当はやっぱりね、治らないじゃ、その、まあ、病名はいいとしても、治らないっちゅうことは、あそこまで言うてほしないよな、いうね。やっぱりね、うーん、本人に対しては、もうきつかったんちゃうかな思うね。やっぱり、そんなことからね。ま、昔、あのー、がんに、がん患者にね、もうその宣告は、もう本人には言わなかったいう、そんな感じで。今はね、やっぱりはっきり、こう、言うてるみたいやけども、うん。ま、結果的にやっぱりそれを思えばね、やっぱり、まあ、(病名は)言うてもらったほうが良かったな思ってね。そう、まあ、思ってますけどね。
「これ、残念やけどな、もう認知症や」言うて。うん。もう、「これはもう治らん病気で、もう進行性の病気で、これは治らへん」。うん、言われてね、それが、それがきつかったんですよね、そう(笑)。うん。 そんでもう、愕然としまして。うん。ま、本人自身もね、その、どうなってんか、あんまり、こう、ピンと来てなかったと思うんですよ。うん。そやけど、僕自身がね、「えー!」思てね、うん。めちゃめちゃ残念なショックを受けましたね。
というのはやっぱり、ねえ、そういう…店の開業と同時に縁があって一緒になって、ほんでこのかたまでずっとね、やっぱり一緒に、苦労してもらって、うん。で、この先やっぱり、あとね、もう旅行などいろいろ楽しみ持って、自分の趣味であれ仕事でもちょっとやって、楽しやっていきたいな、いう、そういう感じで。やっぱり店をずっとね、やってきた、その後の話やから。それはほんまもう、めちゃめちゃショック、やっぱり受けましたね、うん。
で、そんなんで、やっぱり、その年ね、やっぱり、もういろんなとこ、ばたばたしましてね。とにかく、そのときはもう顔色がもう、全然もう、それは子どもたちが、誕生会、どっちも、僕も家内も2月なもんで誕生会やってくれたんですよね。ところがやっぱり、写真もありますけども、とにかくもう、あの人の精、精一杯の笑顔がね……もう笑顔じゃないんですよ、うん。………(涙をこらえる)そやから、それがあのー、やっぱり大きな一番のショックでしたね。