ええと、最初、障害者手帳もらったんですけれども、申請して、それも言われて申請して、もらったんですけど。じゃあこの障害者手帳が一体どんな、これを持ってることによって、あの、どういう支援を受けられるかっていう説明が本当にないですよね。
それであの、娘、次女が、自閉症の子どもの仕事をしてるんですね。そいで、「自閉症の子どもだって、こういう公的な支援が受けられるんだから、きっとあるはずだよ」って言って、一緒に市役所に行って、それで調べてもらったんですね。「どんなサポートが受けられるんですか」って。そしたら、向こうもいろいろ調べて、それでそれをコピーして、それでやっとくれて。ああ、こういう支援が受けられるんだっていうのに気がついて。それで、それを申請した。そういうときには、何か向こうから、最初から手帳をくれるときに「こういうのが受けられますよ」って、もうちょっと親切な、あの支援が、親切な申し出があっていいんじゃないかなっていうふうに気がつきました。向こうの職員の方もよく知らないんですよね。ええ。まあ、田舎だからかもしれないですけれど、それは、あの、「もっと早く気がついてたら、もっと早くこんな支援も受けられたのにね」っていうの、ありましたね。
精神障害者の手帳なんですけども、わたしは、アルツハイマーは精神病だとは思えないし、思っていません。それで、それは、そういう専門の先生方も同意してくださるところなんですけども――まあ、別に名前がどうこう、こだわるわけはなくて、まあ実質ヘルプをいただければ、ありがたいとは思ってはいるんですけど――やっぱりこう、あの、本人にしてみればね、そこんところはちゃんと、区分けしてほしいことじゃないかなっていう気がするんですね。うん。
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―― 今は、その、どうやって生活してるんですか。生活保護?
生活保護。だいぶ、変じゃろうけどね。
―― あ、そうか、それがお国のね?
それの、だいぶ使ってるからね。それを早く返さなあかんやろな、あかんかなって、そればっかりや。頭にこびりついてんねん。
―― ご自分はどうしようと思ってらっしゃるか教えてください。
…いや…それがなかなかできへんのやな、分からんねんな。…今だから、そのー、生活保護やら受けてるから。…生活保護受けてる以上は…
―― 生活保護を受けてる以上は?
うーん。難しいね、それから。それが分からんのよ。あのー、………生活保護受けるのを脱し…生活保護という言葉を…脱しきらなければ、私自身には未来がない、と。……どうも話がまとまらんな(笑)。
それ病気やという実感が、実際はないんです、もう。何もないです。何か意味分かってもらえます?
―― 正しくは把握できてるか、分かりませんけど。あの、それほど困難なできごとが日常生活の中でないから、別に忘れるとかっていうこともなく?
今はそやから、全然、別にこう、もの忘れして困ることがないから。何もないですもん…。これ、せなあかんことやったんやけど、せえへんかったいうても、別に困ってないから、何もないし…はい。今日はご飯とみそ汁。みそ汁の具、これ入れようって初め思ってたけど、全然違うもん入れたりしても、別に困らへんわけでしょ、僕。そやから、何もないんですわ、今、ええ。何もないんです……はい。だから、こう、全然困らへんのですよ。何か目的持ったら別やろうと思うんですけど。
―― にもかかわらず、障害者っていわれてしまう。
そうなんですよね。…障害者はショックやったなああれは。ほんまにショックでしたね…何や、向こうも悪気はないんやろうけど、うーん。あれ、びっくりしましたわ、僕、あれは……はい。……それがね、これ、身体障害やったらまだ格好ええな、思いますよ。精神障害みたいなのじゃ、きちがいでしたから、いうたら、ね。いや、ほんま、扱いそうやもん。実際、ねえ…あれはショックですね。前、認知症のときのショックが大きいけど、もうね、認知症のときに「もう終わったな」思って、もうね、思ってただけに、まあ障害者は、認知症いわれるよりはショックは少ないけど、それでもショックでしたね、ええ、ええ。
障害者の認定は受けてますわ、それは。はい。あれ、何でか分からへんのですけどね、あの、その、社協の人とかがね、もう、こうして、ああしてって全部段取りしてくれるんですよ。ものすごい面倒見てくれる。僕、あんな面倒見てもろうたの初めてですけどね、世の中で、生まれて。ほなもう、自動的にそういうヘルパーさんはつけるし、ほんで、その障害の認定も自分らで、ばあっと、先生と相談してであっと段取りするし。
もう、僕の意見関係なしに全部進んでいったいう感じですね。まあ、まあ、こんな言い方おかしいですけどね。それ、障害の認定までは僕はほんま受けとうは、受けたくはなかったんですけどね。ええ。また、それ障害者なんかいう頭なかったですから、そんなん、その時点でね、僕。結局、その障害認定の申請しますから、言うて、もう、そんときはもうでき上がってましたからね。「あらまあ」言うて、ええ、ええ。でもまあ、自分でもそういう認知症は障害者やなんか信じられへんかったですしね、ええ。
―― その、なぜ、そういう認定をするかということに対する説明とか、そういうことはあったんですか。
あのね、要はね、あの、1人でいてて、あの、これから生活が、あの、基本的に良くなることはないやろうと。ほんなら、まあ、あの、支援する形をもう周りでつくるしか、まあ、今はないからということで、こういう形で申請して、こういう形にしていきましょか、いうような感じですわ。そうやった思いますわ、説明は。
―― それに対してやっぱり?
その障害いう言葉がもう嫌ですやんか。要はもう…もうおかしいですやんか…。そやけど、もうみんな一生懸命やってくれるから、もう、断ることもできへんし。
あのー、僕、要はね。あのー、その、検査する、もう治療費がなかったんですよ。それで、まああの、病院のほうの人が、あのー、その、区役所行ってこうしたら、まあまあ、もう保護受けてね、生活保護を受けてくださいと。だから、治療費もこうなりますから、説明を受けて。それで、あのー、保護を受けて、そのー、担当の人と、あれが全部やってくれたんですけどね、はい。
いや、そやから、病院のほうがその治療費や検査費のことで保護する、(生活)保護受けて、そのー、治療費のあれとかね、やってください、いう話になったときに、その、区役所の人が、ええ、段取り全部してくれて、社協の人も紹介してくれはったです。はい、はい、はい。
―― じゃあ、病院のほうから、こう。
いや、病院の人が、まあ、僕に、あのー、治療費やその検査のお金、何かものすごい、その、高いらしいんで、その、何か、あの、検査のその血液に何か、うーん、やって、そんで何かMRI入ってするやつ、ものすごい高かったんですよ。ええ、そやから、そんなんもあるんで、あのー、お役所行ってくれと。それで、そっからの段取りですわ。そやから、僕は区役所行って、その話になって、ええ、なったんですけどね、ええ。
義父が亡くなったあとの相続のこととか、いろいろ処理でもう大体1年は過ぎてしまい、主人は、その1年後までは、会社に在籍できるということにしてもらえていて、人事部付きで。ですから、診断があっても、1年間は家に居ながらお給料もいただいて、で、自分は転職するつもりで勉強をしていたんですけども、実際には、なかなか転職とかうまくいかなくって。1年が過ぎて、2年目は、その退職っていうときに、退職手続きが全然できなくって、もうわたしがいろんな、その主人がやっていたことをさかのぼって、社会保険、企業の組合のこととか、保険料とかですね、主人が保険に、必要以上に入っていたんですね。それも、わたしもちゃんと気が付いていなくて、がん保険に3つぐらい入っていたり。あの、必要のないものにも複数入っていたり。そういったことの、解約にもずいぶん手間どったり苦労をしました。
会社、……会社の辞め方ですね、やっぱり…ほんとだったら円満に退職して、定年までいて、こう何かあたたかく見送ってもらえるところが、何となくうやむやにして、人事の人たちの間でこうやりとりして、しかも、人事の人には病名は言わないまま、……あのー、辞めてしまったんですね。だから、わたし、今にして思ったら、ちょっと違う辞め方もあったのかなと思うんですけども。
会社から早く帰ってくるようになった。夕方、残業でもなく、定時よりもっと早く。で、聞いてみると、「僕は、これまで長年もう会社に貢献してきたし、有給がすごく余っていて、うまく使ったほうがいいんだ」ということで、「帰ってきたんだよ」と何か筋が通っているんですけども、あの、それが、週に1回あったり、毎週あったり、結構、ひんぱんだったので、これはちょっとうまくいっていないことがあるのか、休みたいのかなということは思っていましたけども。それが病気につながっているとは思わなくて、ずるいなみたいにしか思っていなかったですね、ええ。
まず、朝起きるときが「頭が重たい」、「すごく疲れる」、「しんどい」っていうのを、それと、「ああ、もう大学行きたくないな」っていうのを…そのときはほとんど毎日のように、朝起きるのが嫌だったみたいですね、今思えば。…と、その、「大学の授業が面白くない」、「教えてても何か面白くないな」っていうの、ぼそぼそと言ってましたね。で、やっぱ何か、「すごく体が疲れやすい」って言ってましたね。
そのときにすぐに、脳神経科(に)連れていったほうがよかったのかなと、今思えば。そしたら、もう1年早く分かってたのかなと思うんですけども、もう全然疑わなかったですね。うつだろうということしか、ちょっと思い浮かばなかったの、その当時は。
それ今思ったら、たぶん、その、自分の文学を教えられないのも1つ、まあ原因はあったかもしれないんですけれども、その、病気のせいで、自分がうまく前みたいに、以前みたいに学生に対して教えられなくなっていたんだと思うんですね、今思えば。それで、授業も自分にとってはもう、楽しくないっていうか、学生の反応もあまり良くなかったんじゃないかと思うんです。そういうので、ま、教える授業が教えられないのと、自分の教える教え方がたぶん前みたいに、うまく教えられなくなっていたんじゃないかと、ま、両方ですね。そう思います。
それで結局、主人は職のほうが、2000、えーと、2009年はまあ、まあ、まあ、少ない授業、大学の好意で、授業数をちょっと少なくしていただいて、何とかがんばってたんですけれども、やっぱり限界があるということで、去年の、えーと、2010年ですね、2010年の秋に、もう無理って大学のほうから、「ちょっともう授業はできない状態であると判断します」ということで退職を迫られたんです。それで、ああ、どうしようって考えて、で、心療内科の先生から以前、その、Aの会(家族会)の、えーと、パンフレットをもらったのを思い出して、ああ、もしかしたら、Aの会の、その、えーと、そのお電話番号も書いてあったので、あ、ちょっと電話してみようっていうので電話したとき、「絶対、絶対オーケー出したら駄目よ」って。あの、「これは認められている権利なんだから、大学がどう言おうと、休職扱いっていう形にしてもらったほうがいい」って。えっと、電話かけたときに、何回か電話かけて、そんなふうにおしゃっていただいたので、これは権利なんだと思って、もう主人は一緒に2人で大学のほうに出向いて、ま、お話ししたんですけども、最初、2度ほど、最初2回ぐらいはなかなか、こう、認められないっていうか、いや、でも、もう退職っていう形、何か…これくらい払うから、もうこれで退職してくださいみたいなこと、何かお金で片付けるっていう言い方、ちょっとおかしいんですけども、何百万かここで、あの、お支払いしますので退職していただけませんかっていう言い方だったので、これはないわと思って、すごく頭に来て私も。それでBさん(会の代表)が、「絶対そんなオーケーしなくてもいいから」って言われたので、食い下がって、それで。
でも、認められている状況だし、えーと、私学共済という共済なので、インターネット調べてもちゃんと休職っていう形書いてあるので、こういうふうに書いてあるので、これは私、あのー、権利やと思うんですっていう言い方を、ずっとBさんにレクチャー受けたとおりやったんで。で、3回目に会ったときに、もう1年半の休職にしますっていうことを言っていただいて、あ、よかったっていう形だったんです。でも、あのとき、Bさんに電話してなかったら、たぶん私もそこまで深く調べてなかったと思うので、ああ、じゃあ、もうこれでって思って退職してたかもしれないですけども、あのときから、このAの会のかかわり合いが始まって。あ、1人でなくてよかったなと、今思いますね、本当に。
ほかには今の、そうですね、制度的に若年の方、はい、もう、認知症だから辞めてくださいとかいうのが、やっぱり多いじゃないですか。でも、まだまだ仕事ができるよっていう部分。だから、今まで勤めてたとこで、職を、あのー、職種が変わると難しくなるんですね。新たなことを覚えなきゃいけないので。だから、難しいことかもしれないけども、あのー、誰かサポーターついてくれて、一緒に仕事をしていったら、もう少し続けられるんじゃないのかなっていう、あれはあるんですよね。これ、願望ですけどね。でも、企業としてはなかなか難しいとこだろうなと思うんです。これが行政のほうから、少しでもそういう人をしたらお金が出るよ、ってなったらやってくれるのかなって思いはあるんですけどね。それ、国にがんばってもらわなきゃいけない部分かなと(笑)。