投稿者「dipex-j」のアーカイブ

認知症の語り

そろそろ胃ろうを考える時期にきている。長生きはしてもらいたいが、旅立つときは自然に送ってあげたい。調整は難しいだろうが、できれば家族3人揃ったところで見送りたい

往診の先生にしてみても、あのー、要は胃ろうをするか、しないかっていうのを決めないといけない時期に来てますよね、ってお話はやっぱりされてるので。で、ただ、胃ろうも、もともとはたぶん、して元気になって、その先があるっていう方だったら、あの、いいものなんだろうなと思うんですけど、うちの父の場合はもう、16年やっぱり、血圧の薬から、血液さらさらにする薬に、あとはもうアリセプトだったりとか、もうとにかくありとあらゆる薬を、もう毎日10種類ぐらい飲んでるのを16年続けてるので、父の心臓にもすごく負担はかかってると思いますし、で、そういうのをいくと、まあ、うーん、長生きしてほしいなっていう思いは当然あるんですよね。当然あったとしても、でも、もう自然な形でちょっと父を楽に、スッともう眠るように送らせてあげたいなというのは、すごく思っているので。
だから、今、うちは在宅で父を見送るっていうふうに決めてるので、病院のほうで亡くなると、どうしてもここに本人がいて、手をつないでても、こう、ピッピッていう、あの、心臓の電子音のモニターのほうにやっぱり目が行ってしまうので、そうじゃなくて、もう目の前にいる父が、まあ、母と私の手をつないで、こっちに犬もいるので、犬とかもいる中で、ま、静かに、こう息を引き取るっていうふうに見送ってあげられれば、まあ、あのー、父がその、アルツハイマーになったとき、あと、そもそも、その前で脳梗塞で倒れたときに、あの、ま、どういうふうな結果であったとしても、旅立つときには、もう家族3人ちゃんとそろった状態でいて、病院じゃなくて、できれば家の普段のお布団の上で見送れるように、一緒に頑張ってこうね、っていう話を家族3人でして、今まで来てるので。それをまあ、集大成として考えることができるのかなとは、まあ、思ってるところですね。なかなか、でも、その調整もいろいろ、難しいところではあるんですけれども。

認知症の語り

両親は延命措置はしたくないと言っているし、自分もそうしたい。このまま穏やかにできるだけ自然な形で枯れていけたらいいと思っている

うーん、やっぱり、あの、例えば、病院に……入れられてっていうか、ま、病院に入ってですね、徘徊するから手を縛って動けなくするとかですね。ええ。あと、栄養が摂れないから、まあ、どんなやり方があるんかよく分りませんけど、いろんなやり方ありますよね、栄養の摂り方。まあ、あの、年齢的なものもありますから、うん、例えば、胃ろうとかね、それは反対じゃないんですけれども、やっぱり、できるだけですね、あの、自然なかたちを望んでいるんです。ですから、なるべく、あの、何かあったらすぐ救急車で運ぶんじゃなくて、ま、できたら、うちで、あの、ま、穏やかに、うん、自然にこう細胞が小さくなって枯れていけばいいなあって、うーん、うん。
ですから、あの、わたしもね、両親のこと思ってて、今のうちに、あの、夫に(自分のことを)話してあるんです。もし、自分が植物人間みたいになったら、あの、そういうのは嫌だからねって。一切、管(かん)につながれたり、あの、栄養入れたりするのは、あの、嫌だから、それは、あの、はずしてくださいって。うん、ただ、痛みがあるときは嫌だから、痛みだけ取ってもらえば、あとは、あの、そういう、例えば、心臓が止まりそうになったらですね、あの、子どもに一目、あの、会いたいだろうと。子どもが遠くから来るだろうから、その子どもに一目会わせたいがために、強心剤打ったり、心臓マッサージ、よく分らないで話しているんですよ、想像ですから。そういうことをするんであれば、「お父さん止めてちょうだい」って「わたしねえ、あの、静かに死なせてもらいたい」って。うん、「子どもが駆けつけてくるのはね、あの、自分が呼吸止まっても、空から見えるんだよ」って、「子どもが頑張っているの上から見えるから、あの、無理にね、肉体だけを生かすっていうことは、あの、止めてほしい」って、今からお願いしてあるの。で、「お父さんはどう」って言ったら、「おれもそうだ」って言うからね。あの、父と母のことを見て、あの、自分たちの、あの、生き様をね、あの、決めているところなんですね。だから、実際にうちの父と母は、まあ、あの、元気なうちに少しずつ聞いているんですね。あの、こういうことをしてまでして、こう、命をね、長らせたいかとかですね、そしたら、「そういうのはしないでほしい」って、まあ、言っているもんですから。できるだけ、自然なかたちで、あの、苦痛なくですね。

認知症の語り

父は肺炎で施設から病院に運ばれて亡くなった。本などを読んである程度わかっていたが、想定外だった。家で看たかったので、もう少し長生きしてほしかった(テキストのみ)

―― あの、介護の知識がなくて勉強されたということだったんですけれど、お父さまのその認知症として寿命まっとうされたときの、こう、進行の具合とか、予後っていうのは、想像できるような。

うーんと、予後っていうのはあれですか? 病気が治る、うーん。

―― 病気が進行して、みんな、あの、誰でも100歳、110歳になれば寿命、天寿まっとうするわけですけど。

ええ、はい。

―― 病気進行して、その、これからお父さまが、その、天寿まっとうするまでっていうようなことは、こう、(病気に関する)本を読めば、ある程度分かったものなのか、それとも、本からはそれは難しいのか…

うーん、だいたい分かったんですけど…。ええ。少しでも父が家にこう、いられればいいと思っていたんです。だから、うーん、もうちょっと何で、私の退職まで待ってくれなかったのか。そしたら、そっちのほうの、介護のほうの勉強とかして、こう空いている土地を使って、何かデイサービスやグループホームのような施設を建ててやろうかな、そうしたら父の帰宅願望も叶えられるなんて考えていたんです。そっちの土地も空いてるし、あの、東側の土地が空いてるんで、まあ、作るのは、全然、ほら、知識もないんで難しいし、分かんないですけど。そういうことを、ま、考えたこともあったんですけど。で、そうですね。計算外っていうか、よく、あの、あれですけど、想定外っていうか、あれなんですけど。

―― そうですね。

ええ。もうちょっと、あの、長く生きてたかなと思ったんで、えー、あんまりこう。

―― 定年までは、あの、病院や施設で、あのー、頑張ってもらって、定年になったら、おうちを少し改造してでも一緒にと思ってらしたんですね。

そうですね。で、まあ、老人ホームに入った時に介護保険の申請をして1級の認定が出たけれど、手すりをつけた時はすでに入院中だったので、自費で取り付けたんですけど、結局そのまま亡くなったので、1回も使うことはなかったんです…。

認知症の語り

肺炎になってしまい、父も病院に行こうというので、連れていったらそのまま入院となり1カ月後に亡くなった。最後まで治そうと頑張った姿はこれまでの父の生き方が出ていた

あの、父も、最後までね、あの、ま、在宅でずっといて、最後また、あの、肺炎起き、が起きてしまって、それで、あの、ただ、その、最後の時間っていうのは、…ま、熱が上がったり下がったりで、どうもはっきりしないんで、で、そこも、あの、そのときはもう訪問診療の先生、お願いしてたんですけど、私もまた、あの、そこが迷いの、…何か、迷ってしまったというので、最後の最後のときに、この熱の原因は一体どっから来るのか、ちゃんと、あの、病院で調べてもらおうと思って(笑)、で、訪問診療の先生のほうに、あの、「ちょっと病院で調べたいんですけど」って言っちゃったんですよ。そしたら先生が、あの、ま、それは自由と、いうことだったので、で、父にどうするって、また言ったら、父は、あのー、生きる、生きたいわけですから、だから、あの、「病院行こう」って、「調べよう」って言って。で、もう、あのー、ちょっと微熱のある父を車に乗せて、助手席に座らせて、それで、あの、病院に運んで、で、そのまま入院になって、で、それで、あのー、しばらくして亡くなったんですけどね。1カ月かな。うーん。でも、最後まで、父はこう、治そうと、頑張ってましたね。うん。すごく、あのー、前向きだったと思います。本人のやっぱり生きてきた生き方みたいのが結局最後まで、頑張って、出てたかなとは、今になってはそう思いますね。

認知症の語り

母に腎臓がんがみつかり、手術をするかどうか悩んだ。本人に聞いてみたらその日はクリアで「一日考えさせてくれ」といい、翌日も覚えていて手術はしないとはっきり言った

で、そうこうしてるうちに、2009年でしたかね、母が腎臓がんっていうのが見つかって、で、たまたまちょっと出血、かけつ?(下血)があったので、あのー、下血(げけつ)? 下血があったので、あの、救急搬送するっていうので、で、まあ、そのとき偶然に、そのー、いつもの通院してる、うちの近くの、あのー、病院のほうに運んでもらえたんです。で、そこで、あのー、検査したら、あのー、何か腫瘍があるっていうことで、で、そのままうちに戻って、ホームに帰らず、うちに来て、で、あのー、検査をもう一回再検査って、いろいろしましょうって。で、調べたら、あの、腎臓がん。で、もうだいぶ大きかったんですけどね。
で、そこで今度は手術をするかしないか。で、母が八十、何歳でしたかね、八十、八十五? 歳ぐらいで、天寿がんっていうのにはちょっと早い。で、で、先生、泌尿器科のほう、腎臓のほうの先生は、「手術はできますよ」と。「だけど、認知機能のほうの低下とか、そういうところでは、んー、まあ、何も保証はできません」っていう。で、ずっと母のかかりつけの、もう何十年って、母の主治医の先生は、もう、あのー、うちの母をよく知ってるから、「僕は手術は、しないほうがいいと思う」と、言ってくださって、で、あのー、まあ、「でも、そこはご家族と、よく話、相談してください」って言われて。で、あのー、よく考えてみて、母に、ちょっと聞いてみようと思って、そうしたら、どう…、なぜか分かんないんですけど、すごくその日はクリアで。で、「お母さんね、何か腎臓にちょっとできものがね、腫瘍ができてるみたい」っていうね、って言ったら、母は多分、もうそのときから分かったんじゃないかなと思うんです。実は母は、あの、日赤の看護師だったので、まあ、いろんなことよく、理解してはいる人だったけど、まあ、覚えてるか覚えてないかは、分からなかったんですけど、一応、その、言ったので、「腎臓に腫瘍ができてるけど、それを手術するかどうかっていうことで、どうしようかと思う」って聞いたら、あのー、そして、「先生はこう言ってる」と、「しない、しないほうがいいって言ってる」って言ったら、「一日考えさせてくれ」って言った。初めて(笑)。びっくりしたんですけど、えっと、今までそういう話もしたことないし、そういう答えが返ってくるとも想像しなかったので、で、いっつも私のことをてっちゃん、てっちゃん(他の人の名前)って呼ぶから(笑)、あんまり覚えてないかも、と思いながら、…その、腫瘍の話をしたら、あの、一日考えさせてって言って。
で、翌日、多分、覚えてないだろうと思いながら、聞いたんです。「昨日話したことだけど」って言ったら、そく、即答で「手術はしない」って、言った。で、そこで何でそうつながったのかよく分からないんだけども、そういう日があって、で、それで、あの、手術、まあ、母が決めてくれたなあと思って、それで、もう手術はしないって決めたんです。で、ホームのほうにもそれを伝えて、で、ホームのほうも分かりましたって、それこそ、嫌な話だけど、看取りまでできますというホームなので、まあ、そのつもりで。でも、あのー、まあ、近いうちにもううちに連れてこようと、うちで送ろうと思ってはいたんです。

認知症の語り

失神して救急搬送された際に胃ろうにするかどうかの選択を迫られた。主治医の助言で父の意思を確認したら、まだ頑張りたいから胃ろうをつけると言った

ところが、だんだんに、その…、身体的に、まあだんだんとこう力が落ちてって、んー、あの、食事がやっぱりね、嚥下機能が悪くなってきて、あのー、食べられる量がだんだん減ってきたんですよね。だけど、そこで何とか、食べさせようと思って一生懸命やりましたけども、まあ、あの何か…神経の問題なので、やっぱり思うようには回復できなくて、そして、あのー、ま、胃ろうを選択したんですね。で、その、救急車で、まあ、意識がちょっと遠のいて、で、救急車で搬送されて、で、そのときに、あのー、先生のほうから「何で、その、早くに胃ろうにしなかったんですか」っていうようなことを言われて、で、そのときまで胃ろうっていう言葉もね、ほとんど、気にも留めてないっていうか、知らないって言ってもいいぐらいだと思うんですけども。そう言われてね。えー、でも、一生懸命食べること頑張ってきたしと思いながらも、で、先生のほうから「するかしないか(笑)、あの、すぐに決断してください」みたい、「3日ぐらいで決めてください」みたいなことを言われて、えー、何、どうなってるんだろう(笑)と思いながら、そして、そ、それから、あの、ふっと我に返って、これが延命治療になるかのかどうかとかいろんなこと思っちゃったんですね。
で、また主治医の先生にすぐ電話して、相談して、で、まあ、その後、先生もお忙しかったんですけど、メールを後からいただいて、胃ろうに関する考え方っていうので、まあ、あのー、…選んで、お父さんが生きたいっていうんだったら、まあ、とにかく先生はね、本人に確認と、それが第一のあれ、で、レビーだからできるからって言われて(笑)。で、覚せいしてるときを狙って、って言われました。で、あのー、覚せいして、で、まあ、大体覚せいしてるんですけど。覚せいしてるときに、「お父さん、こうこう、こういう理由で栄養が取れないから、あのー、胃ろうを付けたいと思うんだけども」って言ったら、父が、「自分も、その、水を飲むのも大変だった」と。だから、で、「まだ頑張りたい。まだ生きれる。だから頑張りたい」って本人が言ったんで、私もちょっとびっくりはしたんですけど、あの、「じゃあもう決めよう」って言って、それで先生のほうに「お願いします」って、胃ろうを付けたんです。

認知症の語り

本人の意向を尊重し、家族で夫が望むことは何か考え、胃ろう造設を断ったが、医療者は「なぜ?」、「エゴだ」と言い、抵抗にあった

で、だから、みんな、あのー、親族はやらない方向で決まってるので、あの、私も揺れ動きませんよね。
でも、主人から言われただけを自分1人でやったら、やっぱりみんなの、気持ちっていうのはどうか分からないので、そこ確かめたっていうのが1つのあれだったんですね。で、それが終わって、で、医師は「どうして。今は怖くないよ」って言うんです。だから、「いや、怖いからじゃないんです」っていう話もしたんですね。でも、何度も説得されました。でも、やりませんと。で、あの、施設の嘱託医は「何で? おかしい」って言われたんですね。だから、「おかしくはないと思うんですよ」って先生に言ったんですね。「先生は医師として、あの、こういう方向があるよっていうのは説明しなきゃいけないのは分かります。でも、決めるのは先生じゃないですよね」って。「本人、家族ですよね」って。「本人の意思を尊重したいっていうのが、私のあれです」っていう話で、したんです。
で、あのー、施設のほうの、あのー、嘱託医にはやはり、あの、胃ろうしないっていうのを家族のエゴ、エゴみたいな言い方をされたんですね。それで、「今だったら、本人も胃ろうしたいって言ったかもしれない」というふうに言われたんですね。でも、これは本人が、あのー、自分が元気なときに言い残したこと。ていうことをやはり、あのー、普通で言ったら、それは、あの、言い方おかしいんですけど、遺言と同じことだと私はとったんですね。ですから、主人の意向を、そうなったときにはしてほしくないって言ったことを、続けていきたいというふうに思って、あのー、医師と、あの、闘い続けたっていうのが現状だったんですね(笑)。

認知症の語り

父は自分で食べようとしてしまうので、胃ろうの意味がないと思い、胃ろう造設について医師や姉と意見が対立した。1ヶ月後に父が亡くなり、本当によかったか考えてしまう(音声のみ)

で、その、胃ろうを作ろうと言われたときも、あのー、看護師だったものですから、「何で、医療職としてそれが分からないのか」みたいな。…ふうには言われませんでしたが、何かそんなふうに…。

―― あの、病院からですか?

は、はい。「あなた、看護婦さんですよね?」って言われて、「はい、私は看護師、看護婦なので、あのー、分かります」と。「ただ、父は、その誤嚥性肺炎をこのまま繰り返して、結果、悪化するっていうことも分かります」と。「でも、その前に、先生、分かっていただきたかったのは、父は認知症で、まだ歩けます」と。「だから、家、帰ったときにかな、絶対、冷蔵庫は開けるでしょうし、食べ、食べるでしょうから。胃ろうの意味?が分かりません」と。で、もう1人、姉はいましたけども、姉は看護師でしたけど、姉は胃ろうを作るというのに賛成して、そこで意見が分かれて「どうして」ということ。ただ、姉はまだ期待をしてまして。その、嚥下を、だから専門の病院で、嚥下訓練ですかね。「嚥下訓練をすれば大丈夫なんじゃないか。だから、その短期間の間、胃ろうを作ればいいんじゃないの」っていうことで言ったんですけど。いや、認知症があるので、というので(笑)。ですね。その、そうですね。でも、それ終わって、本当に1カ月ぐらいたって亡くなったので、さすがに胃ろうを作ればよかったのかなと。すごいその、告別式のときにですね。すごい後悔といいますか、まさか1カ月で亡くなるとは思わなかったものですから、胃ろうを作って、その、嚥下訓練をする病院に転院していれば、もうちょっと生きてたのかなあとかも思いましたけども…。なので、そうですね。治療のこととか、その胃ろうのことも含めて、介護サービスの利用のことも含めて、その判断、判断が正しかったのかどうかは分かりません。

―― いろいろ、そのとき、そのときで情報を自分なりに集めたり、調べたりってしても、本当に迷いますよね。

そうですね。その、父親がどうしたかったのかなっていうのが、分からなかったんですね。

―― 普通のご病気で、意識があれば、まずご本人に聞きますものね。

そうですね。

―― 「ねえ、お父さん、どうしたい?」って。

はい。

―― できれば、その意向に沿い、沿いたいって思うけど、認知症の場合、それがね。

そうですね。最後のその、まあ4年前から気づきましたけど、最後の、その怒濤のような2年間、まあ1年間、1、2年の間ですね、の人生をですね、父の人生を、何か、もしかしたら、その命もかも分かりませんけど、その期間を、…を父の意思ではなく、ま、娘ですけど、その判断で左右してたかも分からないなあとかも、ちょっと思う、ちょっとどころじゃないんですけど、思いましたんですね。

認知症の語り

胃ろうをつけるか聞かれた時は娘がきっぱり断ってくれたので、おかげであたふたせずに済んだ。延命行為は自分にもしてほしくないと思っている(テキストのみ)

あの、二人いるっちゅうことで、うん。あの、実際に、この施設行ったときにも、その、「胃ろうしますか」とか、あるでしょ、食べれなくなって。娘がきっぱり言ってくれたの、で、「やらなくていい」って、うん。後は何か、そういう調書取るんですよ。で、たまたまね、娘んときに書いてくれたもんだから、それもだから、結局、安心してできたっていうの、うん。まあ、安心。

―― そういう専門家がいなかったら、もうちょっと違った?

まあ、あたふたしたと思います。いろいろと、そっちのほうでも、まいったと思いますしね。うん、まあ、だから、スムースにできたっていうこともあるでしょうね、うん。

―― 逆に、その、専門家の、まあ、スムーズにいったっていうことだけど、本当は自分でこうしたかったとか、そういうのは特にはなかったですか。例えば、先ほどの、胃ろうの話ですけども、その、娘さんがなしでいいって、きっぱり言ってくださったって、それは同じようなご意見だったんですか?

あ、それはね、うん。わたしももう、何、あの、何て言うの、えーと、延命行為はしてほしくない、自分も思ってるから。ま、言ってるけど、自分も思ってて、人にもって、押しつけはいけないけど。うん、そう思ってるから、それはやっぱりね、いろんなことで大変だと思うから、うん。

―― じゃ、そういったところで、その、周りが勧めてくれることに対して。

ええ、全部、乗っとった。ええ、ええ、ええ。そうですね。

―― ほんとに安心してたってことですね。

そうですね。だから、こう、あんまりこの、深く、ねえ。あの、重いと感じなかったかもしれないですね、うん。そうですね、結果的にそうかもしれない。

認知症の語り

嚥下ができなくなり胃ろうを造るか聞かれたが、「したくない」と言っていた夫の言葉を尊重し、食べることが好きな夫の気持ちを考え、子どもたちや夫の兄弟とよく話し合った

(平成)20年の12月ですかね、やっぱり肺炎を起こして入院して、そのときにもう「嚥下難しいですよ。胃ろう」って言われたんです。で、そのときに主人からは「胃ろうはしたくない」っていうのは、私、言われてたんですね。だから、胃ろうするん…ってまで生きていたくないと。だから、「胃ろうはしません」っていうふうに、病院で言ったんです。
で、それも私1人で「主人が言ってたから」って決めるのもっていうのがあったので、子どもたちにも主人が言ってたことは言わないで、医者から、あのー、「胃ろうじゃないともう無理だって言われてるんだけど、どう思う」っていう話をしたんですね。で、子どもたち2人も、「お父さんらしくないね」っていうのがあったんです。食べることにすごく興味のある人だったんですね。だから、胃ろうっていう前に、もう嚥下障害起こしてても、おいしい物は食べれてたんです。ですから、おすし屋さんに行っても、おすし屋が、もう本当ネタをすごく刻んでくださって、それをちょっととろみつけたら食べてたんですね。で、うなぎもおいしいうなぎ屋さんだと食べてたんですよ。だから、「食べることが好きだった人に胃ろうしたら、お父さん、食べることの楽しみがなくなる。だからお父さんは好まないんだろうね」って、子どもたちにも言われたんですね。で、そこで、「いや、実はお父さん、こう言ってたんだ」って言ったら、「じゃあ、もう悩むことないじゃない」っていう子どもたちの返事ももらったんです。
それとやはり、主人のきょうだいにも言わなければいけないと思って、子どもたちと同じように主人のきょうだいにも話したんですね。そしたら、やっぱり一番下の妹は、あの、実家にいますので、んで、「今、自分は意思、意識があって言えるから、自分はやりたくない、やらない」って言ったんですね。で、主人のことも「たぶん、やりたくないと思うよ」って言われたんですね。だから、いや、実はこう言ってたんだっていう話をしたんですよ。そしたら、「じゃあ、やらなくていいじゃん」っていう言葉をもらったんですね。