投稿者「taguchi」のアーカイブ

認知症の語り

一人で出掛けて迷ったことがあるので、今は必ずかわいいお母ちゃんと出掛けるようにしている。文字も読むことはできるが書くのは苦手になってきた

―― 今は、1人でお出かけされることありますか。

あ、ない、ないですね、ないです。

―― 出かけるときはどなたと一緒に行かれますか。

かわいいお母ちゃんと一緒に行きます。

―― 必ず必ず素敵な奥さんと。

そうなんです。

―― どこ行くときも。

ええ、どこ行くでも、もう。そうでないと、もう、どこ行ったのか分からなくなる。

―― やっぱ、迷ったことがありましたか。

ありましたよね、ありました、ええ。

―― どこか1人で出かけて帰れなくなるようなことがあった。

あ、もう、だいぶ、前だから、ちょっとはっきりは覚えていないんですけど、あったと思います、ええ。

―― で、あのー、えー、そうですね、あと、ほかに、ご自分で、あ、前に比べてこういうことしなくなったなとか、できなくなったなと思うことってほかにはありますか。

もう、全体がそういう感じだから、うーん、もう、やる、やれることが決まっちゃったというか、うーん。

―― 先ほど字を書くのは、もう苦手になったと。

もう、駄目ですね。はい。

―― 読むのも、もう。

読むのは、大体、まあ、普通のことをぐらいは、あのー、やれますけど、ええ。

―― 書くのは苦手ですね。

もう、ちょっとね、字書けない、書けって言われると自分の名前もちょっとうろうろしているんですけど、ええ。

―― うーん、ぱっと、こう、出てこない感じですか。

そうですね、まあ、見た目でも、あ、駄目だっちいうの感じがあるから、ええ。

認知症の語り

仕事も自分から辞めると言い出し家にこもってしまった。散歩も迷子になって行くのをやめ、車の運転も操作ミスをして自分からやめた。認知症であることを知られたくなかったようだ

だんだんこう、仕事の量が増えてくると、やっぱりパニックになっちゃうんですよね。そうすると自分がもうできなくなってくる。「もう、俺はできない」って言い出したので、で、あのー、私が勤めてた病院の先生にちょっと相談したら、「ちょっと連れてらっしゃい」って言われて。で、簡単な検査してもらったら、「うーん、始まってるかな」って言って、ちょっと大きい病院に。そのときに、あのー、会社には何も言わなくて、ただ、「ちょっと検査入院させるので」って言って。で、入ったら、うん、それからすぐに辞めたんですけど。「もう仕事ができない」って言いだしたので。

あのー、迷惑かけることだし、配送で間違ったりするとお店に迷惑かかるから、じゃ辞めてって言って。それからもう、うちにこもっちゃったんです。

お正月明けに入院して、ずーっとあれしてたんですけど、うーん、やっぱりあのー、「何か仕事する?」とか、「何か探す?」とか。それで「やりたくない。やりたくない」って言ってたので。

花を触ったりするのが、あのー、主人の父が植木職人だったので、花触ったり庭いじりは好きだったんで、それはちょこちょこしてたんですけども、今は一切やらないですけど。

だけど外には、散歩に行って、3回ぐらい迷子に、自分で、何か3回ぐらい迷子になったみたいで、もうそれ、自覚、自分で自覚して、「散歩は行かない」って。で、車も、あのー、最初のうちは乗ってたんですよね、会社を辞めて、認知症認定されても。ただ、あのー、家の車を操作ミスで、ブ、あのー、防犯ブザーが鳴っちゃって、2回ぐらいやっちゃったらしいのね。で、「もう俺は車に乗らない」とか言って。何か怖くなったみたい。それからもう、ぴたっと乗らなくなって。

まあ、そうやって自分で何か自覚して、「やらない」、「行かない」とか。それは自分で判断してやってましたからね。で、その間、やっぱり認知症は隠してましたね。私はみんなに相談したり、近所の人たちに相談したりするので、私はいろいろしゃべって。すると、主人は「誰にしゃべったんだ。俺のことしゃべったか」とか、そういうことは最初は言ってましたね。ずーっと。

認知症の語り

診断当時のことはもう忘れかけているが、嫌なことは嫌だったし、悔しかったこともあった。昔からの友達は今も遊びに誘ってくれるので、今はこういうものだと受け止めている

―― やっぱり、あのー、ご病気っていうことを、まあ、病院で診断受けたとき、どんなお気持ちでしたか。

うーん、……ずいぶん前になって、どう、どういう感覚だったか、ちょっともう忘れちゃってあれなんですけど。嫌なことは嫌で、もうできなくて悔しかったこともあります。

―― そこを、今、今のご自分に至るまで、やっぱり、こう、苦しんだところもありましたか、かなり。

そうですね、あったと思うんですけど。まあ、こういうもんだと思って、思っちゃっているというか、うん、…ね。でも、まあ、友達も、まあ、昔からの友達がいるんだけど。…(涙)そういう人たちと、「遊びに行こうか」って言ってくれることがあるんで、そういう友達と一緒に(涙)……遊びに行ったりしています。

―― つらいことを思い出させてしまってすみません。ごめんなさい。

はい。

―― ああ、やっぱりつらかったですね。つらいことをほんと聞いてしまって、申し訳ないです。

あ、いえいえ。

―― でも、やはり、同じ思いをしている人たちたくさんいるので。

ええ、そうなんですよ。でなかったら、もう、そういう話来ても、もう、しゃべりたくなかったんですけど。まあ、そういう人がいるから、多少(でも役に立てれば)…。

認知症の語り

もしかしてと思いながらも違ってほしいと願っていたが、認知症と診断がついた。渡辺謙の映画で見たぐらいの印象しかなくて、ああなってしまうと思い悲しくて娘と泣いた

―― まさか認知症だと思わなかったっておっしゃっていたんですけど。その、2度目ですよね、病院に行くっていうのはね。そのときっていうのは、自分の中では、認知症のことは何かちょっと思い浮かべながら。

あのー、もしかして、認知症なのかなって。でも、そんな、認知症の症状もそんな分かんないし、自分とは、また違うから。え、でも、何なんだろうっていう。でも、もしかしてっていって。そういう、もしか、えって、うん、そういう、どういう。でも、自分の中では、そうあってほしくないじゃないですか。だから、その、いろいろ検査をしたんだけれども、その結果が出るたびに、ああ、何か、その、結構、あのー、最終的にその診断されるまでにすごい時間かかったから、その間その間は、ああ、違う病名であってほしいっていう思いはあったんですけれども。だけど、ま、そういうふうになっちゃったんで、それで、…はあーっていう感じですね。だから、もう、あのー、友達にすぐ、その結果が出たときに「ビンゴだった」とかって言って、そう、そうやって友達に、あのー、あれ、連絡した覚えがありますね……。

もう、あのー、そのときは、ほんとに、ね、認知症のことも何も、ほんとに何も知らなくって、あのー、ね、渡辺謙の映画で見たぐらいの、そう、その、そんな印象しかなくて。ああ、わたしもあんなふうになっちゃうんだって。うーん、それを思うと、そのほかの情報は何もないし。ああ、自分が、もう、ああいうふうになっちゃうんだと思ったら、もう、ほんとに悲しかったですね。娘と一緒に泣いて、……うーん、うん、ですね。

認知症の語り

毎日1万歩が目標だった母の歩幅が狭くなり、匂いもわからなくなり味付けに自信がないと話し始めた。母の姉も匂いが分からないので姉妹で似た老化現象かと思った

最初に思ったのは2016年なんですが、母は毎日1日1万歩歩くことを目標にしていたので、あと歩幅もとても気にしていて、あの、できるだけ長く広い歩幅で歩くようにしてたんですけど、すごく歩幅が小さくなってきたので、とってもおかしいなと思ったのが始まりです。はい…。

で、その後は、えっと、匂いが分かりづらくなりまして、え、料理に自信がなくなってきて、味付け、ま、匂いが分からないこともあって、「味付けに自信がない」と話し始めました。
えー、ま、そんなことぐらいだったのですが、母の姉も匂いが分からないんですが健康に過ごしていたので、ま、姉妹で似た老化現象だと思ってそのまま普通に過ごしていたんですけども、やっぱり一番ショックだったのは、えー、2017年の5月に子どもたちの運動会があったんですけど、あの、運動会は、あの、母が早起きをしていつもお弁当を必ず作ってくれていたんですが、「今年もお母さん、お願いね」と、ちょっと不安だったんですけども、言ったら、「どうして私が作らなきゃいけないの?」と初めて言われたので、あれってそのとき、やっぱり何かがおかしいとは思いました。

―― ほんとにもう驚くほど悪くなられて、もうびっくりされたと思うんですね。そのときの心情っていうか、どんな感じでしたでしょうか。

そうですね。うーん、正直、あの、母は姉とも、姉は遠いですが、あの、いつも電話もしてましたし、会うことも、その、2016年、私がおかしいと思っている間に親戚の方と旅行に行ったり、姉にも会ったり、たくさんの方とも過ごしていた中で、誰も気付いていなかったんですが、私だけが気付いていたので、…あのー、2018年、ごめんなさい、2018年の診断を受けるまで、…すいません。とっても苦しかったです。一人で…変わっていく母を心配していたのはつらかったです。…もっと早くにこういう病状だと気付いてあげられたら……、違う、こ、違う状況で対応できていたんじゃないかと思うと、つらいです。

認知症の語り

年賀状の字がおかしいことに気づいた友人に受診を勧められ、アルツハイマー型認知症と診断された。振り返ると10年前から症状が出始めていたが、認知症とは思わなかった

でも、やっぱり、また、さらに、あのー、できないおかしいっていうのが増えてきたので、やっぱり…で、その、うーんと、うーんと、字を、字を、漢字とか書くにしても、あのー、年賀状とかで、うーんと、友達に送ったときに、あのー、びっくりして電話がかかってきて、「誰が書いたのこの字」とかって言われて「え、わたしが書いたんだけど」とかって言って。で、その子には、その、わたしが、ちょっと、最近おかしいっていう話をしていたもんだから「ちょっと、1回、医者行ったほうがいいよ」っていうことも言われて「そうだよね」って言って。それで医者に行くことにして。で、そこで、診断がついた。あ、そこで「あ、検査しましょ」っていうことになって、うーん、で、そこで診断して。そのときに、あのー、うーんと、アルツハイマーていうふうに言われたかな。

―― あとから振り返るとっておっしゃいましたけど、そのあとからっていうのは、その診断がついたときぐらいに、あとからいろいろ考えてみたらっていう感じ。

そう、そう、診断がついたときは、まだ、そんなふうには思っていなくて、もうほんとにあとから、もうほんとの、あ、そういえば、もう、もう、ずいぶん。だって、その、あとから、10年、そのおかしいなってなったのは、結局10年前なんですよ。だから、5年、うん、計算ちょっとできないから、うーん、あれだけど。

―― 診断がついたのは、何年前ぐらいですか。

診断ついたのが、5年前、5年前か。

―― じゃ、5年ぐらいは、ちょこちょこそういうことがあったっていうことですか。

うーん、そう、そう、そう、そう、で、そうですね、うーん、でも、仕事もできていたし、そのときは。そんな、うん、割りと、まあ、漢字はちょっと書けないにしても、全く書けないわけでもないし。で、だけど、…うーん、漢字が書けない、字が書けない。で、そうですね、仕事はしていたけども、やっぱり、そう、時間がかかるようになった。で、時間がかかって、で、物忘れはそんなにないんだけれども、やっぱり、あのー、細かいことができなくなるっていうのが多くなったんです。

……まさか、そんな、ね、あのー、靴下がしまえないだけで、それイコール認知症なんて思わないじゃないですか。うーん、だけど、だから、あとから考えたら、ああ、あのときのああやっていろいろできなくなってきたのが、始まりだったんだなっていうのは、ほんとに最近になって、その、思い浮かべると、あ、そうだ、あのとき、そうだ、あんなに、そう、そう、そう、ああいうことがあった、こういうことがあったっていうのを思うと、そう、そうなんです、もう、ほんとに前からちょっとずつちょっとずつ出てきていたんだと思います。

認知症の語り

計算を間違える、字がうまく書けない、ビールをコップに注げないなど、やりにくいことが増え、最初は年のせいと思っていたが、あまりにひどいので受診したらうつと言われた

―― 最初のことを聞かせていただければと思うんですけれども、初めて、何か、ちょっと、こう、おかしいなって気付かれたときのことを教えていただけますか。

はい、はい、初めて、うーんと、ま、あの、計算が得意だったのが、あの、間違えるようになってしまった。字も割りときれいに書けていたのが、あの、書けれなくなった。で、それで、最初は、ま、年のせいかなっていう感じで。まさか、そんな、ね、自分がそんなふうに考えもしないから。そんで、年のせいかなあっと思いながら過ごしたんですけども。鍵も、何か、かけれなくなったりとかして。で、それで、家の鍵は大丈夫なんですよね。だけど、その、その、職場でのとこの鍵とかが、何かできにくくなって、あ、おかしいな。あと、あのー、水道の、うーんと、チューブ、チューブ?チューブっていう、あのー、ぐるぐる回る、それ、それをうまく、あのー、片付けれなくなったりとか。何か、ともかく、ちょっとしたことが何かできなくなってきたんです。で、靴下、洗濯したときの靴下をこうやって丸めてしまうときに、丸めてしまうことができなくって。それは、もう、だから、あとから思ったことなんですけども。一番最初だから、あ、そういやああのとき、ああ、靴下とかが、こう、うまくしまえなかったのも、結局、こっから始まっているんだなっていうのは、あとから思いましたね。で、あと、そう、そう、ビールの、あのー、うーんと、ビールをコップにつぐじゃないですか。それがうまくつなげ、あのー、何だ、何ていうんだ。

―― つげ。

あ、そう、そう、つげなかったりとか。そういうのもあって、何かこぼしちゃったりとか。それも、だから、あとから考えたら、あ、あのとき、そういえばあのときから何かできなくなったな、やりにくくなったなっていうのは、ほんとにちょっとしたことちょっとしたことが、だけど、ちょっとしたことだから、ああって、もう、ほんとにそれでスルーしちゃって。そこで、何ともおかしいとも思わなくって、ずうっと過ごしてきて。
それでも、やっぱり、その漢字とかそういう計算なんかは、ほんとにひどくっていうか、もうおかしい、もう、自分、自分がこんなんじゃなかったっていうので、おかしいなおかしいなと思って。それで、1回、あのー、医者には行ったんだけど。で、でも、そのときに医者に行ったときは、やっぱり、うつっていうふうな診断だったんですね。だから、ああ、そうかって、だから、ああ、で、まあ、そのまま様子見てくださいっていう感じで。で、それで、また何年か過ごしたんですけど。

認知症の語り

40年来の近所づきあいがあるので、自分が倒れた時には近所の人が差し入れをしてくれた。夫に対しても「認知症だから」と思わずに普通に接してくれるのが嬉しい

でも、私が倒れたときに、もう近所の人が助けてくださいましたからね。うん、すごく助かりました。だから、あのー、もう近所の人にはしゃべ、あのー、話してたんで、助かります。やっぱり分かってもらえるし、うん…。

―― 入院されたときっていうのは…。

入院、入院はできないので、うん。

―― あ、入院はしないで、もうすぐ(ご自宅に)?

うん、で、1週間うちで安静にしてましたね。

―― でもそういうときは、そのー、周りの方とかにはサポートしていただいたりとかってあったんですか。やっぱり基本的にはご自身で全部?

そう、そうですね。で、1晩だけ、そのー、ショートに入れたんですけど、やっぱり…どうしても3度、3度ができなかったんで……。 だけど、まあ、翌日から近所の人がいろいろ持ってきてくれて。うーん。

―― ここには長く住んでらっしゃるんですか。

そうですね。もう結婚してずっと、40年になりますけどね。

―― ご近所付き合いももう長く。

そうですね、はい。

で、あの、散歩してると、あの、「あ、何々さん、お茶飲んでいかない?」とか言ってくれるので、うん。そうやって声かけてもらえるだけでも、いいんで、うん。

で、2人で買い物に行くと、あの、「お茶飲んでいかない? 買い物行くの?」とか言って。「卵買ってきたからあげる」って。「じゃ、これでご飯、これで済ませるから、もう買い物やめるわ」とか。「もう一軒どっか寄って、何かもらえるかな?」とか言って(笑)。うーん、そうやって笑いに変えて、うん。と、近所の人が、こう、声かけてもらえれば、うん、すごく。

普通に接してもらえれば、いいんじゃないですかね、うん。認知症だからと思わないで、うん。「今日も元気だね」とか声かけてもらえれば、うん。

で、うちも玄関にメダカおるんですけどね、近所のちっちゃい子が、「メダカのおじちゃーん」とかって。「メダカいないね」とか言って声かけてくれるので、うん。だから、普通に声かけてもらえれば、それがすごくいいです、うん。

認知症の語り

丹野さん(本文参照)の講演会を聞いて自分と同じ思いをした人がいることに感動。自分でも認知症になって悲しい思いをする人を一人でもなくすために何かやりたいと思うようになった

あの、丹野(智文)さんは、うーんと、テレビでわたし「ガイヤの夜明け」で1回見ていたんですけど。ああ、こんな人がいるんだって、そんときは、その、そういう感じで見ていたんですけど。その人が、その、こっちのほうに来るっていうふうに知ったんで、「え、行く、行く、絶対行く」とかって言って。で、それで、あの、1人で電車に乗って行ったんですね。

で、そしたら、えーと、乗って、その、出発を待っていたら、何か、4人ぐらい、だっだっだっだっと、団体さんが来て、あの「セーフ!」っていう感じで乗って来た人たちがいて。それで、ふっと見たら丹野さんが乗っていたんですよ。わたし、びっくりして。絶対、これ丹野さんだと、絶対丹野さんだと思って、こう、自分で1人で思いながら、ちらちらちらちらちらっと見ながら、間違いかな、でも、そうだろうな、あ、でも、オレンジの(リストバンド)しているから、丹野さんじゃないかなとかって、ずっとこうやって、こう、ちらちらちらちらってしていたんですけど。そしたら、駅、駅違う、あの、1個来たときに、その1人の人が、丹野さんの隣ぐらいに座っていた人がどいたんですよ、降りるために。そこで、わたしは、するするすると丹野さんのところに行って「丹野さんですか?」って声をかけて。で、ほっていう感じだったんですけど。ああ、「わたし、今から、丹野さんの講演を聞きに行こうと思ってて、わたしも若年性認知症なんです」とかって、そういう話をして、で、その講演会場に行くまでずっとお話していて。すごい、もう、嬉しくて、いろんな話を聞けて。で、それで、講演会のほうに行って、で、楽屋のほうにも行かしてもらえて。で、また、そこでも、お話、で、初めてだったんですね、その、講演会に行くっていうのが、認知症の。そこで、丹野さんのお話を聞いて、もう、涙、涙。もう、すごく、うわー、同じ考えの人がいるって、同じ思いをした人がいるって、ほんとに、もう、それが、もう、ほんとに、もう、嬉しかったですね。

ほんとに、今まで、何か、うじうじうじうじしていた自分が、もう、そのときに、ほんとに、こんなうじうじしていちゃ駄目だって、何かやらなくちゃって、自分がやれることがあるんだから、何かやらなくちゃって。うーん、そう思いながら、あの、とにかく、そこから出かけれるときは、もう、どんどんどんどん出かけようって。で、いろんな人と話もしょうって。そう思いながら。で、ね、その、認知症の人たちは、みんな、そうだと思うんですけど、やっぱり、あのー、すごい、ね、大変な思いをしたりとか、そういう…ことがあるから、ね、ほかの、ほかに認知症になった人が、また、そういう思いをしないように、あのー、みんなが、あのー、理解してもらえるようにっていう、そのための、何か、わたしも、そういうことで声をあげることによって、悲しむ人が1人でもいなくなればいいなと思って、どんどん、あのー、そういう人たちが増えるような活動もしてきたいなと。そういうことがやりたいなっていうのがちょっとずつそんな気持ちが出てきたりとかして。

認知症の語り

家族の交流会では当事者の女性は自分だけだったので、しばらく遠ざかっていた。2年ほどして行ってみると同年代の女性の当事者が来ていて、意気投合していろいろな話をした

そのときに、あ、そうね、あのー、家族の交流会があるっていうのを友達から聞いて、ああ、行ってみよかなって。そのとき、ちょうど、まあ、あのー、土曜日でお休みだったから、ああ、仕事がないから行ってみようかなと思って、初めて、あのー、交流会に行ったんですね、でも、そのときは、まだ、やっぱり、何か恥ずかしいっていう思いがあったから、うーん、電話で、あの、わたしの住所言って、「このぐらいの地域の人って、そこの交流会には来てないですか」とかって、その、近所の人と会わないようなことを聞いて、で「あ、大丈夫ですよ」と言われたから、ああ、じゃ、ちょっと1回どんなものか交流会行ってみようと思って、そこで初めて交流会の存在を知って行ったんですね。

そしたら、そのときは、やっぱり、…当事者は、やっぱり、女の人はわたしだけだったので、最初のうちは行っていたんですけど、仕事をしていたんで、土日っていうのがすごい大切な2日間だったので、ちょっとずつそこの、わたしは遠ざかった時期もあったんですね。で、遠ざかった時期があって、でも、まあ、たまにちょっと顔を出しては、またちょっと遠ざかって、そういうのがちょっと2年ぐらい続いていて。

で、それで、自分が、ちょっと、あのー、あのー、仕事が休職に入るようになって、時間ができたときに、ああ、久しぶりに行ってみようかなっていう気持ちになって。…そしたら、もう、前と違って、えらい人が増えていて。全然知らない人たちも増えていて。それに、さらに、あのー、ほんとにこれは、もう、衝撃的だったんですけど、あのー、わたしと同じ女性の方がみえて、当事者の方で、もう、その人を見つけるやいなや、その人のところに行って、……あのー、「わたし認知症なんですけど、で、あなたは?」って聞いたら、同じような、同じ、ほんとに、あのー、漢字が書けないとか、着替えに時間がかかるとか、同じような話をしてくれて。で、初めて、そのときに、ああ、自分と同じ人がいるんだ。わたしだけじゃないんだって、ほんとにそのときにうれしくなって、あのー、交流会でみんなこっちで自己紹介とかしているのにもわわからず、こっちで2人で、「着替えに何分かかる?」とか何かそんな話をいろいろしながら、ずっとしゃべっていて。で、そのあと、あのー、ま、会が終わりっていうときに、あ「また、電話していい」とかって言って「また、電話で話そうね」とかって言って。で、お互いに字書けないから、この会の人に「あのー、電話番号2人分書いてもらえますか」って言って書いてもらって。で、帰って、もう、すぐにわたしは、あのー、また「きょう、ありがとうね」って電話して。で、娘に、ね、話したら「えー、お母さんよかったね」って、そういう「同じような人がいてよかったね」って言ってくれて。