インタビュー時:62歳(2011年8月)
関係:妻(夫を介護)
診断時:夫55歳(67歳で逝去)、妻49歳
1998年に夫が若年性アルツハイマー型認知症と診断される。妻は当時、夫と娘2人の4人暮らし。診断時、家族一丸となって頑張ろうと話した。夫は製薬会社に勤務していたが休職。1999年アリセプトの内服を始めるが、1年後頃より乱暴になり、主治医の判断で中止となる。2004年に妻は体調を崩した為、夫を介護施設に入居させ、毎日見舞いに通う。次第に夫が痙攣を起すようになり、誤嚥性肺炎で入退院を繰り返し、2010年逝去した。
プロフィール詳細
近畿地方在住。A.K.さんの夫は製薬会社で営業職を経て、研修業務に従事していた。夫は1993年頃から何だかもの忘れがあると気にしていたが、50歳を過ぎれば皆そうだとA.K.さんは聞き流していた。1998年、会社からの勧めもあり、夫が自ら探してきた病院の心療内科でMRIや血流検査、知能テストなどを2~3カ月かけて受け、純然たるアルツハイマー型認知症であるとの告知を夫婦揃って受けた。
帰宅後に夫から渡された文献には、「原因が分からず治す薬もない」「6~7年は人として生きていけるがその後は寝たきりの状態が続く」といった内容が書かれており、漠然とした病気のイメージが具体性を持ちショックを受けた。娘2人は「お父さんが好きでなった病気じゃないから思い出づくりをたくさんしよう」と言い、夫も「がんばる」と宣言し、「前向きに家族で頑張っていこう」が家族の考えとなった。その後、休職を言い渡されたことが夫には一番つらい出来事だったようだ。
1999年には新薬のアリセプトを試したが、飲み始めて1年ほど経った頃、おとなしい夫が物をたたくなど乱暴になり、主治医の判断で服薬をやめた。その後穏やかな夫に戻った。良いと思うことはなんでも夫とともに試したが、夫が負担に感じ始めればやめるようにした。2、3歳児用パズルも最初は20分ぐらいかかっていたが毎日続けると7~8分でできるようになりすごく喜んでいたが、それも徐々につらい様子を見せ始めたのでやめた。家族で1カ月に一度行くようにしていたカラオケも2年半ぐらい経った頃、字幕スーパーが追えなくなりつらそうにするのでやめた。夫は一人で散歩をよくしたが、2002年に自宅の目と鼻の先で迷子になり、それからは2人で散歩するようになった。
その後A.K.さんが体調を崩し、2004年7月にやむなく夫は介護施設に入った。当時は時間さえかければ自分で食べることはできていたが、時間がなくなると職員が食べさせてしまうので、自分で食べることがどんどんできなくなっていった。持っている能力はできるだけ残して欲しいと思い、施設にとってはやっかいな存在だったかもしれないが、A.K.さんは毎日施設に通い世話をした。
2006年頃から夫は3~4カ月に一度ぐらい痙攣を起こすようになった。その後、誤嚥するようになり、嚥下ができなくなり肺炎で入退院を繰り返し、気胸までおこした。それでもゼリーをつくれば、5cc、10ccと食べることができた。先生からは「胃ろうをしないとこれ以上は無理」と言われたが、食べることの好きだった本人の意向や娘達や親族の意見もあり、胃瘻をしないことにした。先生から家族のエゴと説得されたが、気持ちが揺れることはなかった。亡くなる前日までジュースを含ませた衛生コットンで口の中を掃除すると美味しそうに吸っていた。2010年、症状が出てから16年、診断から12年で夫は亡くなった。
帰宅後に夫から渡された文献には、「原因が分からず治す薬もない」「6~7年は人として生きていけるがその後は寝たきりの状態が続く」といった内容が書かれており、漠然とした病気のイメージが具体性を持ちショックを受けた。娘2人は「お父さんが好きでなった病気じゃないから思い出づくりをたくさんしよう」と言い、夫も「がんばる」と宣言し、「前向きに家族で頑張っていこう」が家族の考えとなった。その後、休職を言い渡されたことが夫には一番つらい出来事だったようだ。
1999年には新薬のアリセプトを試したが、飲み始めて1年ほど経った頃、おとなしい夫が物をたたくなど乱暴になり、主治医の判断で服薬をやめた。その後穏やかな夫に戻った。良いと思うことはなんでも夫とともに試したが、夫が負担に感じ始めればやめるようにした。2、3歳児用パズルも最初は20分ぐらいかかっていたが毎日続けると7~8分でできるようになりすごく喜んでいたが、それも徐々につらい様子を見せ始めたのでやめた。家族で1カ月に一度行くようにしていたカラオケも2年半ぐらい経った頃、字幕スーパーが追えなくなりつらそうにするのでやめた。夫は一人で散歩をよくしたが、2002年に自宅の目と鼻の先で迷子になり、それからは2人で散歩するようになった。
その後A.K.さんが体調を崩し、2004年7月にやむなく夫は介護施設に入った。当時は時間さえかければ自分で食べることはできていたが、時間がなくなると職員が食べさせてしまうので、自分で食べることがどんどんできなくなっていった。持っている能力はできるだけ残して欲しいと思い、施設にとってはやっかいな存在だったかもしれないが、A.K.さんは毎日施設に通い世話をした。
2006年頃から夫は3~4カ月に一度ぐらい痙攣を起こすようになった。その後、誤嚥するようになり、嚥下ができなくなり肺炎で入退院を繰り返し、気胸までおこした。それでもゼリーをつくれば、5cc、10ccと食べることができた。先生からは「胃ろうをしないとこれ以上は無理」と言われたが、食べることの好きだった本人の意向や娘達や親族の意見もあり、胃瘻をしないことにした。先生から家族のエゴと説得されたが、気持ちが揺れることはなかった。亡くなる前日までジュースを含ませた衛生コットンで口の中を掃除すると美味しそうに吸っていた。2010年、症状が出てから16年、診断から12年で夫は亡くなった。
インタビュー家族12
- 夫が自分で行きたい病院を探してきて、そこの心療内科で若年性アルツハイマーではないかと言われ、脳波の検査やMRI、血流の検査、知能テストなど詳しい検査を受けた
- 1998年に若年性アルツハイマー型認知症と診断され、翌年アリセプトが発売されて飲み始めたが、壁や机を叩くようになったので服用をやめたら止まった
- 病院から言われて三度の食事でお皿に何が載っていたか思い出して書くようにしていたが、生真面目な人なので食べる前にメモをしたりしていた
- 医師に2-3歳児用のパズルを勧められ、初めのうちは上達して本人も喜んでいたが、次第にできなくなったので、つらい思いをしないよう、できないものは排除していった
- 夫は月に1回、家族と一緒にカラオケに行って歌っていたが、次第に字幕が追えなくなり、そのうち字幕がどこにあるかもわからなくなったので、行くのをやめた
- 散歩中の夫が迷っていると友人が電話をくれるので、偶然を装って車で迎えに行ったりしていたが、次第に家から300メートルも離れていないところでも迷うようになった
- 自分の血圧が高くなってしまい、夫を入所させることにした。個室だったので、最後は泊まりこんで、そこで生活していた。施設でも病院でもなるべく一緒にいて、自分がケアをしていた
- 家族会ではこんな施設があるとか、病気が進んだときにはこんなやり方をしたらいいといった、自分では仕入れられない情報が得られるし、ストレス発散にもなる
- 家族会には夫婦で参加していた。夫婦で参加していても本人の前では話せないからと本人に席を外してもらう人もいたが、夫はすべて知っているので隠す必要がなかった
- 始めはデイサービスを週1から始めた。半年ほどして慣れてきてお風呂にも入れてもらうようになり、認知症が進行してきたので、ショートステイも利用するようになった
- 認知症だからと退職を迫られるケースが多いと思う。新しいことを覚えるのは難しいが、サポーターがいてくれれば今の仕事を続けることは可能だと思う。行政の支援が欲しい
- 休職中は傷病手当があった。その後障害年金をもらうようになったが、株や土地もすべて売って現金化し、いざというときに備えた
- 障害者手帳は精神障害でも1級なら公共料金や車の税金の減免があるが、2級ではメリットが少ない。若年では生活が大変なので、医療費が無料になる身体障害のほうがいい
- 夫婦の間でどんな病気でも隠さず伝え合う約束をしていたので、夫と共に診断を受けた。帰宅後、夫から資料を渡され、ショックを受けたが、娘たちと家族で頑張ろうと話し合った
- 若年性アルツハイマー型認知症の夫は、発症後9年ほど経ってけいれん発作を起こすようになった。発作のたびに症状が進み、その後、誤嚥性肺炎を繰り返して亡くなった
- 嚥下ができなくなり胃ろうを造るか聞かれたが、「したくない」と言っていた夫の言葉を尊重し、食べることが好きな夫の気持ちを考え、子どもたちや夫の兄弟とよく話し合った
- 本人の意向を尊重し、家族で夫が望むことは何か考え、胃ろう造設を断ったが、医療者は「なぜ?」、「エゴだ」と言い、抵抗にあった