こんにちは。どうやら夕方に投稿をしたほうが皆さんがお知らせを読んでくださるようで、これからはなるべく夕方に投稿したいと思っている運営委員の瀬戸山です。
昨日のお知らせに引き続き、認知症モジュールで語ってくださっている樋口さんからの情報提供です。
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最近、ヨミドクター(読売新聞の医療サイト)にコラムを書き始めました。
病気を持つ者、障害者やマイノリティーへの社会の意識についてです。
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私もさっそくこのコラムを読ませて頂きました。
私自身、病いや障害を持つ当事者の「言葉」に触れるようになり、多様な人を知るようになって、それまで自分は、単なる診断名や障害名でその人に対するイメージを勝手に作ってしまっていたのではないか・・と、思わされることがよくあります。
「認知症」「身体障害」「精神障害」など、これらの言葉は単なる診断名/障害名です。その人が感じている症状や自分なりの対処方法、その人の思いや経験、人となり、その人の価値観について、何一つ表すものではありません。医療者だろうが初対面であれば、相手のことは何も分からないんです。それなのに診断名/障害名を聞いただけで「分かった気になってしまう」のは、明らかに医療者のおごりですよね。
病名や障害名にとらわれず、「初めまして」から関係性を作っていく・・・そんな姿勢が医療者に求められると思います。
そしてまたこれは、一般社会においても言えることかもしれません。「認知症」「身体障害」「精神障害」などの言葉を聞いた時、一般社会の人たちは、何をイメージするのでしょうか。
そういえば、私自身、ある時から体の一部が不自由になったのですが、不自由になったその時と、障害者手帳を取得した時は、なんとなく違うショックを受けていたように思います。不自由になった時は文字通り、自分の体が不自由になってしまったことへの悲しさと先々への不安を強く感じていました。その一方で、障害者手帳を取得した時には、簡単に言うと「身体障害者になってしまった」という、勝手に自分が作っていたイメージに引っ張られて、「違う人になってしまった」ような思いを持ったように思います。
今考えたら、私は知らなさすぎでした。「障害者」と言われる人たちがどれほど多様で、様々な価値観を持っていて、それぞれ多様な生き方をしているか。自分とものすごく馬が合う人もいるし、時にはむかつく人もいるし(笑)、・・・それを全く知らないがために、当時は「障害者」というイメージを勝手に持って、「そちらに入ってしまった」自分を受け止めきれなかったのだと思います。
でも今は、「障害者」と言っても、「人」という言葉と同じくらい多様であることを知っています。「障害者」という言葉が、個人のことは何も表していない単語であることを、当事者の言葉から知りました。同じく、「認知症」と言っても、その症状は様々で、その人の思いは様々、家族との関係も様々であることを、(こちらはまだほんの少しかもしれないですが、)やはり当事者の言葉から、教えてもらっている最中です。
障害者やマイノリティの人たちの生きづらさは、周囲が、「障害者」とか「マイノリティ」といったラベルを通じてしか、その人を見ないことに寄るのかもしれません。そしてこの勝手なラベルは、当事者の言葉が世に出ていくことでしか、なくならないのではないか・・とさえ思います。
逆に、当事者の言葉が世に出ていくことで、社会がそのラベルにつけた画一的なイメージが薄れていくのではないかと期待したいです。
私はおそらく、樋口さんにお会いして、認知症の方のイメージが変わりました。これはある意味乱暴な言葉かもしれません(樋口さんにしてみたら、どれだけ知っているの?ということもあるかもしれませんしね。勝手にすみません^^;)。でも、少しずつ、個人を知ることを通じて、その病気の人のイメージが変わる…診断名や障害名に引っ張られなくなる…そんな小さな積み重ねを、DIPEx-Japanが後押し出来たら…そんな風に思う今日この頃です。
みなさま、樋口さんのコラム、ぜひお読みください♪
運営委員 瀬戸山陽子