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インタビュー時:42歳(2021年6月)
関係:母
医療的ケアのある子:長女0歳5か月(逝去時)
北陸在住。夫、次女2歳の3人家族。
長女は3年前に生後5か月で亡くなった。
緊急帝王切開で生まれた長女は、合指症や心房心室中隔欠損などの身体的特徴があり、検査で染色体異常(18トリソミー)がわかった。
生後まもなく口腔鼻腔内吸引および経鼻経管栄養、さらに人工呼吸器と医療的ケアが必要になっていき、娘のためになにがよい選択か親として悩む日々だった。
娘の「生きたい」という気持ちを感じることができ、とても短い人生だったが多くのことを残してくれたと思う。
語りの内容
で 、一応その羊水検査を受けようかと思ってたんですけど、その矢先にちょっと切迫流産になってしまって。ま、結局ちょっと受けられなくて。まあ、逆に受けてたら、そのときにもう病気が分かってたと思うんで、そのとき自分たちがどうしたかっていうのは、ちょっと今となっては、うーん、なんていうか、もうあんまたらればで話しても意味がないことなので、そこはあんま考えてないんですけど、でも、2 番目にじゃあいざ生まれるってなったときに、やっぱりすごく不安は不安で。あの、どんな子でももちろんかわいいっていうのは、その上の子のときに分かってるんですけど、なんかまた、その、長生きできないって言われたりして、あの、本当にもう身を八つ裂きにされるようなあの苦しみは、を味わうのかと思うと、それはどうしようっていうことで、すごく考えて。
あの、ま、結論はでなかったんですけど、結論出ないまま出生前診断受けたんですね。で、あの、受けるときも、その結果が出るまでも、もうすごい、こんなに人生で緊張だったり不安したこと、に思ったことはないっていうぐらいすごく不安で。でも、結果が、一応その検査では異常はなかったっていうのを聞いたときは、本当にもう、うちの夫と腰を抜かすくらいもう、腰が抜けるぐらいもう本当に緊張が取れたっていうか、もうよかったっていうか、安心したっていう気持ちがあって。
下の子のときも、考 えてはいたんですけど、もし陽性だったらどうするかっていうのは、えと、主人と話して、あの、もうそのときに陽性だったら、もう陽性だったときに考えようっていうふうに、その時点では結論を出していたんです。で、ニプトの、ニプト外来の先生にも、もうちょっとそういうふうにしか今決められませんっていう話はして。で、なんか、もし陽性だったらっていうのは、なんかこれはもしかしたら逃げの回答になってしまうかもしれないんですけど、あの、私、上の子のときに、たらればで考えたり、もしこうだったらとか、なんか、そう考えることの意味のなさっていうのをすごく痛感したんですね。で、明日もどうなるか分からない中で、こう、なんか、毎日必死で生きてきて 、だ から、そうなったらそうなったとき考えようって思って。結局最後の、最終の、なんか、結論がそれだったんですね。なんで、うーん、なんか、どうしてたかなっていうのは分かんないですね。
という不安を、まあ、超えて、だんだん、あの、安定期には入ったんですけど、でも、やっぱり、あの、生まれるまで何があるか分からないっていうのは、自分が上の子のときに一番よく分かってるので、本当に、なんか、もう安定期だから大丈夫とか、なんか、今度は元気に生まれるよとか、結構周りからそういうなんか無責任なこと言われる度に、私だってそう思ってたよって言い返してやりたくなるのをぐっと堪えてっていうのがあって。実際、本当にその微妙な気持ちを分かってくれたのは、GCUの師長さんと、あとうちの夫と、あの、病院の産科の看護師さんたちぐらいで。なんか、結構、周りの人との関係を割とシャットアウトして 、2 人目も帝王切開はもう分かってたので、なんか手術台の上、最後手術台の上に乗るまでもう不安で。なんか、そうなんですよ、生まれてちょっと産声を聞くまでがもう、本当になんかもう、全然緊張が取れなかったですね。
インタビュー26
- 第1子を生後5か月で亡くし、第2子を妊娠したときに迷いながらも出生前診断をした。異常なしだったが生まれるまで不安だった (音声のみ)
- 娘はクリスマスに初めて一時退院し家族だけで過ごした。様々な人が在宅環境を整えてくれ感謝だ。楽しく、緊張の2日間だった (音声のみ)
- 娘が生まれた年は記録的な大雪で、病院にいくため自家用車もタクシーも利用できず、病院近くの施設に泊まり込んだ (音声のみ)
- 気管挿管が成功し、ほっとしたのもつかの間、娘の心拍が急に下がった。突然のことで受け入れられなかった(音声のみ)
- アロマのお風呂に入れて楽しめることがあると思った矢先に娘は亡くなった。父親も一緒にいられる日を選んでくれたのか(音声のみ)
- 亡くなった娘と家に戻り最後に川の字で寝た。また戻ってきてという思いで、次の妊娠に向け行動を開始し、下の子を授かった (音声のみ)
- 明日が保障されない目の前の子どもの生と向き合うことで精一杯だった。障害は自分たちが寄り添っていくしかないと思った (音声のみ)