投稿者「dipex-j」のアーカイブ

医療的ケア児の家族の語り

息子が小さい頃は訪問看護やリハビリの方と話すくらい。地域の子育ての場にも入れずに、日々、緊張と孤独の中で生活していた

それ(困りごと)はもう本当に、最初のほうから考えたらたーくさんあったと思うんですけど、今ちょっと思い付くのは、やはりなんか孤独なんですよね。
仕事もしてないですし、息子とずっと2人で、話す人がまず、主人しかいないし。

会話がなくて日々ずーっと、1週間に1回来てくださる訪問看護師さんとか、リハビリの方だから気付いたら息子関係のかたがたと、その息子の病気のこと、今の症状のこと、体のこととか、病気つながりの会話を常にするし。

息子と2人きりのときは常に、緊張して、今でこそ何となくだんだん、人と人の関係ができてきたかなーとは思ってるんですけど、ほんとに赤ちゃんのときは、ずーっと何が起こるか分からないし、常に緊張して息子の様子を逐一、観察して。
何かちょっと、不安なことがあったら、書いて先生に次聞かなきゃって思ったりとかしてたので、ずっと緊張しててずーっと疲れてて。かといって、それを話す人もいなくて。

だから、そういうときに少しでも気に掛けてくれるっていうのが、ほんとにうれしいなと思いました。
今私が住んでいる市は、赤ちゃんの頃は保健師さんとかが、そういうお仕事だったと思うんですけど、保健師さんもうちだけじゃなくて、その地域のお母さん方、皆さんを見てるので、私だけに集中して、特に時間を費やすとかっていうこともできないだろうし。

(保健師も)元々病気を持ってるとか、障害を持ってる方に関するプロっていうわけではない、専門っていうわけではないと思うので。
なかなか話しづらいことだったりとか、ちょっとここ聞きたいなと思って電話しても、全然つながらなかったりとか、全然電話がかかってこなかったりとか、そういうことがすごい多くあって、誰に頼っていいのかもほんとに分からなかった。

1人でもいいので、その担当してくださる方でどんなときでも電話かけてもいいし、何かあったらすぐに言ってくださいっていう人が、それは市なのか何なのか分からないですけど、誰かいたら、もっと気持ちが穏やかに過ごせただろうなと思う。
児童館とか、普通、お子さんとお母さんたちが集まるようなところだって、私たちも興味はあるし、行きたいんだけれども、誰も行っていいって言ってくれないし。

もちろん他のお母さんたちも、行っていいと言われてはいないだろうけど、皆さんは行きたければ行くんだろうと思う。
でも、どうしても、「行ったら迷惑だろうなー」じゃないんだけど、やっぱり自分も疎外感を感じるだろうなと思うし、どういうふうにそこに行っていいか分からなかったりっていうのがあると思うので。

そういうのを相談できる人っていうか、一緒に付いてきてくれるでもいいし、案内してくれる人でもいいし、そういう人が1人でもいたらよかったなとは思います。心の面でも。

医療的ケア児の家族の語り

娘が人と触れ合う機会として訪問型児童発達支援を利用したいが、医療的ケアがあっても介護認定がないので使えないと言われた

――これまで利用していた以外のもので、こういうものを利用したいっていうようなご希望ありますか。

そうですね。もっと、人と触れ合う機会を増やしたいですし、成長を促す機会っていうのと、私がもう少し楽になれる機会っていうのも同時に欲しいですね。
訪問介護まではいかなくても、訪問看護のレスパイト事業や訪問型の児童発達支援だったり、そういうところも都内を中心にあるとは聞いているので、制度として使えたらいいのになっていうふうには思ってます。

――これまでその申請はされたんでしょうか。

申請はしてみたものの、娘の状態だと、娘は医療的ケアは必要ではあるけれども、介護が必要っていう認定は下りなくて、障害者手帳の申請も通らない。でも医療的ケアは必要っていうような状態で。

私の問い合わせた自治体の見解としては、そのようなお子さんは基本的には、就学までは親御さんが、主体的にケアをするっていう前提があるそうで、介護の認定もなく、障害者手帳もないお子さんで、児童発達支援の許可が下りた前例がないと言われて。
そもそも申請まで、こぎ着くことができなかったっていう感じです。

――そのときお母さんも、ちょっと悔しい思いというか、反論したい気持ちもあったと思うんですけど、そのとき何かおっしゃったんですか。

そうですね。
お子さんをいろいろ審査をされたりとかして、実際のうちの様子をよく分かった上で、もっと困ってる人がいるからちょっと難しいですって言われるんだったら、まだしも…。
前例がないからって言われたことに関しては、じゃあ前例って誰がつくるんだろうかとか…。

困っている、支援が必要だと思ってることは事実なのに、そこには、なかなか手が差し伸べられないんだな。じゃあ誰が助けてくれるんだろうかっていうような思いはあります。

医療的ケア児の家族の語り

訪問看護師から制度について教えてもらったり、病院のパンフレットに目を通して市役所の担当者に質問したりするように心がけていた

主治医の先生は、最初に搬送された病院で、赤ちゃんのときから今もずっと診ていただいてるんです。
そこのリハビリの先生から、「娘さんに合ったリハビリがあるよ」って言われて、リハビリだけ別の病院を紹介していただいて、そっちに関わったり。

訪問看護さんもいろいろ情報をくれたりもするので、そういうところからいろんなサービスを使ったりですとか、病院にパンフレットがたくさんあるので、まめに目を通して、自分の娘に合ったいいサービスがないかなとか。
何か疑問があったときには、市役所の担当課の方が力になってくださるので、こういうところでこういうサービス受けたいんだけどっていうふうにすると、つないでくださったり。

行政機関とも綿密に連絡を取ったりとか関係をつくることで、私自身にとってもいいサービスであるとか、娘自身にとってもいいサービスっていうのを見つけられるので、積極的にそういうところとは関わるようにしています。

娘が生まれた当時っていうのは、医ケアのあるお子さんが行けるような預かりですとか、そういったものがほとんどなくて、ただお姉ちゃんがいたので、お姉ちゃんの学校行事のときに「どっか預ける先ないですか」っていうふうにいったときに、「ないです」と。
で、「今まで、そういうサービスを利用したいという申し出もありませんでした」って言われて。
でも私たちの住む街で、まさか私たちの子が一番最初の障害児ではないので、皆さん仕方がないものとして多分、家で過ごしてらしたんだと思うんですね。

それでは何も変わっていかないだろうなと思ったので、私は結構、積極的に市役所に出向いて、こういうサービスが必要なんです、こういうサービスを利用したいんです、そのためには行政としてはどうしていただけますかっていうようなやり取りをして。

結局、行政からこういう情報がありますよ、こういうサービスがありますよっていう提供って、ほとんどしてもらえないんですね。
それは今もあまり変わらなくて、でもこちらからこうしたいんです、こういうのはどうですかっていうふうに投げ掛ければ、回答はもらえる。
だから困ったときに「どうしよう」ではなくて、自分自身から行政のほうに働き掛けをするっていうことが、当然、自分自身にも子どもにとってもいいふうに動いてくれることがあるので。

――お子さんも連れて行くんですか。

そうですね。連れて、成長を見てもらうというか、見てもらわないとどこに困ってるか、どこに私たちが大変な思いをしてるかっていうのが伝わりづらいので、なるべく連れて行くようにしています。
そうすると、部署が変わった担当の方とかも声を掛けてくださったり、「大きくなったね」っていうふうに言われると、私自身も嬉しいので、なるべく外に行くときは連れて行くようにしています。

医療的ケア児の家族の語り

在宅医療に移る際、役所の担当者が我が家を何度も訪問し、ヘルパーの時間枠や吸引器・ 補装具の支給を検討してくれた

息子が帰ってきたときの役所の担当の方がですね、大変理解が深く、家にも何度も来てくださって、こんな状況お母さん大変だと。
ヘルパーさんの枠もこれじゃ足りないと、右も左もにっちもさっちもいかない私に対して、かなり大きい枠をくださったり、その許可を求めてくださったり。

子どもの吸引器ですとか、全て揃えなければいけないんですけれども、当時は6歳以上でなければ、吸引器は支給されなかったんです。
その住んでる自治体に掛け合ってくださって、もうこれだったら仕方がないよねということで、いろんな日常用具や補装具というものを、ナビゲートいただいた経緯があって。

その方が今の、息子の生活の礎を築いてくださった、公的な礎を築いてくださったので、非常に恵まれたスタートを切ることができた、というのが大変印象に残っています。
ただ、仕事を復帰するとなったときに、大きな障害であるということは、今もこれからも変わらないと思います。
保育園ですね。保育園に預けられるかというと、それ無理なのは分かってます。

無理なのは分かってるんですが、そういった子のための選択肢というのが、5年前にはほぼなかった時代。
(そこ)から、今は少しずつできてきているという状態ですので、ぜひこの流れを、各自治体の負担にならない(ように)。

私たちが考える問題ではないんですけれども、各自治体がどれぐらい取り組んでくださるか、重要だと思ってくださるかというのは、われわれの行動にもかかっている。
ですから今回の取材もそうですけれども、積極的に外に発信できるものに関してはしていきたいというふうには思っております。

医療的ケア児の家族の語り

雨が降ると歩いてバス停まで行くのが難しく、移動支援とは別に生活サポートという事業の契約をする

あとは、雨が降ると、歩いてバス停まで行くっていうのが難しくなってくるので、そういうときはまたその移動支援っていうのとは別に、生活サポートっていう事業の契約をします。
ただ、その事業所によっては生活サポートはやってなくて、移動支援と身体介護はやってますとか、ほんとに事業所によってばらばらで。

また、天気も途中までは晴れてたけど、途中から雨が降ったとか、ものすごい風が吹いてさすがに歩いては行けないとか。
そういう途中で変わっていくものの対応みたいなのが、それも事業所によってなんだとは思うんですけど、うちはとても、今、良い関係ができてるので、臨機応変に事業所さんと、のほうで考えて、やってくれてはいます。

ただいっとき、事業所さんのほうから、新しく自分の事業所の傘下にグループとして新しい事業所ができたので、使ってみませんかって勧められたことがあって。
同じ町内の方でとても親切な方だったので、「あ、じゃあ」って言って、そちらの新しい事業所を使ったんですけど。
ある日、「雨が、降りそうです」って、「今日どうしましょう」っていう連絡をもらって、「じゃあ、いつもどおり生活サポートに切り替えてもらって」って言ったら、「うち生活サポートは取ってないんです」って言われて、それじゃあできないねって。

やれるところ、やれないところっていうのがほんとに事業所によって違うし、そこを選んでくっていうのは難しいなあとは思いますね。

医療的ケア児の家族の語り

息子が亡くなり40歳で看護学校に入学した。学生時代は人生を楽しむ気持ちになれなかったが、働き始めてから楽しめるようになった

――今、ご自身が訪問看護師として医療者になられたわけですけれども、訪問看護師になりたい、って思われたのは、どのぐらいのタイミングだったんですか。

最初からです。(息子と過ごしたいという)私の最後の願いをかなえてくれた、(訪問看護)ステーションのナースの姿勢っていうんでしょうか……。在宅で、私の経験を生かすとか、そういうことではなくてですね、私が受けた看護が、私の中にぐーっときたので、私はそういう看護師になりたいって。働くんだったら訪問看護師に行きたいなと思って看護師になりました。そこはもう最初からですね。訪問看護師に最終的にはなりたいなと思ってたので。

――お子さんがもう生まれて、小さい頃から、タイミングがあればなりたい。

それは(息子が)亡くなった後ですよね。主治医から、息子が亡くなった後の自分の生き方を考えときなさいって言われたんですよ。言われてたんですけど、「考えきれるわけないですよ、先生」って。「まだ生きてるもん」って。「嫌だ、そんなの考えるの」って言って。

でも亡くなった瞬間から考えていかないと、いつまでも生活保護をもらえるわけではないのでですね。ヘルパーの免許を先に取ったんですけど、やっぱり違うよなって思って。でも、勉強得意じゃないので、看護師になれないと思ったんですよね。だけど、やってみようかなって思って、人生で初めて勉強しました。はい。

――お幾つのときに。

40(歳)です。

――周りは20代の方が多かったと思うんですけど、看護学生時代のお話も教えていただけますか。

息子が4月に亡くなって、受験をしたのは翌年の2月です。おかげさまで入学をさせていただいて。ただですね、私は、長い間、障害を持つ社会っていうんですか、まあ世の中が100あったら、私は10、20ぐらいの中で生活をしてたもんですから。そして、私は息子の母親として、そこにはいられないわけですよね。

私の前にあったことは誰も知らない。自分の中で存在することが、とっても違和感があって、苦しくて。まず呼び名が違うんですよね。今までは、「何々ちゃんのママ」って本名で呼ばれない。この子のママで呼ばれる。でも、新しい今から生きていく社会では、名前で呼ばれることがすごく違和感があって。で、心を開けない…うん、それがほとんど学生の時代は続いてましたね。最後まで。だから、この子の社会に戻りたい戻りたいってずっと思ってましたし、何を人って考えてるのか分からんなって、いつも思ってました。

――実際、訪問看護師になられてからは心が開けない部分は変わったっていう。

私、罪悪感とかっていうことではないと思うんですけど、訪問看護師になるまで、ある大きい病院に勤めてたんですよね。4年か5年ぐらい。で、学生時代くらいまでは、自分がね、楽しむとか、おいしいものを食べるとか…そういうのができなかったんですよね。

しちゃいけないとかっていうことも思ってなかったと思うんですけど、無意識のうちに、どうしても自分に課してしまう性格があるのか、一方で両親の介護もしてたもんですからね。息子が食べれなかったので、あんまり食べるっていうことにも関心がなくて…とにかく一生懸命勉強して、看護師になりたいと思って。

卒業をして、訪問看護に行く前の、大きい病院に行って、そこで心がばーってほぐれていったような気がします。うん。ちょうど同じ年の仲間と仲良くなって、で、旅行に誘ってもらったりとか、韓国の化粧を教えてもらったりとか。楽しむっていうんですかね。もうそろそろ自分のために生きていいっていうのかな。もう、それから歯止めがかからなくなって(笑)。

医療的ケア児の家族の語り

夫に仕事をしてもらわないと生活できない。夫も出世欲や向上心もあるだろうが、私一人でケアを担うのもつらい(音声のみ)

夫についてはやっぱり仕事をしてもらわないと、生活していけないので、そこは大事なんですけど、そっちばっかりになると今度、私が自分で全てをこなすのに、ものすごい大変なんです。
もっと手伝ってほしいっていう気持ちもあったりして、よくそういうところでは、ぶつかったりしますね。

仕事としてのキャリアを伸ばしたいっていう、男の人の野望じゃないですけど、そういうのもあるので、資格を取るためにチャレンジしたりとか、夫は社会人になってからもう一回大学に行きだしたりなんかしたんですけど。

自分のやりたいことを優先させていく夫を見て、私は自分はやりたくてもできない状況にあるし、働きたくたって働けないし、家や子どものことも守ってますので、そういうところで障害児を抱えて、夫婦でやっていくっていうのは、とっても難しいなって考えるところがありますね。

通常のご家庭よりも離婚率が高いなんてよく言われてますけれども、それもほんとにちょっと分かるなと思うところもあります。
こっちも何やってほしいな、こういうときは手を貸してほしいなって期待してしまうところもあるんですけれど、その期待が外れると、怒りもこみ上げてきちゃって、言ってしまって、またそれをきっかけにけんかになったりとか、そういうこともありますね。

夫にも、医療的ケア児を抱えてどうかと聞いてみたんです。
夫としては、家庭と仕事のバランスっていうものを取るのが、すごく難しいっていうことを言っていて、仕事は仕事で手を抜けないので、やっぱりこなさなきゃいけなかったり。
んー、抱えてるものが大きければ、それだけ自分もいっぱいいっぱいになったりすると。
家は家でそういう大変な状況で、妻が大変なのも分かってはいるけど、自分にゆとりがなかったり、やれる状況じゃなかったりっていうところも、夫からしたらあるんで。
なので、その辺のバランスっていうのは、男としてはとても難しいって言っていました。

医療的ケア児の家族の語り

家でPC作業などを受けていたが、家にあるピアノを使って、先生と生徒をマッチングするビジネスを自宅で開業することを思い立った

息子を出産して(元の職場に)帰る気満々でした。
勤めていた企業に普通に産休申請しまして、復職する気満々でしたので、自分の荷物も全部置いてですね(笑)。
後輩への引き継ぎも終えて、みんなから「元気な赤ちゃん生んで戻ってきてくださいねー」ということで、気持ちよく送り出していただいて、出産したらこんなことになりましたので、もちろん保育園も見つかるわけもなく、はい。

会社に相談をしましたところ、産休と育休は目一杯取っていいから、その中で何とか続けられる方法を見つけられないかというふうに応援していただいて、1年半ですね。育休産休取って。

それでも、居宅訪問型の、何て言うんでしょうか。訪問看護師さんの資格を持った方が、居宅訪問の保育士として働いてくださるサービスが、ちょうど5年前、息子を出産した年に始まった年だったんです。

それを自分の住んでる自治体で、認可してもらえないかというふうに願っていたんですけれども、残念ながらですね、私の育休・産休期間にはそれが実現せず、今は実現してるんですけれども、もう泣く泣く会社を退職しまして、はい。

で、会社退職した後はその会社から個人の業務委託契約という形で、家でもできるこのパソコンのデータ処理ですとか、原稿を書いたりですとか、そういったことの単発のお仕事をいただいたりとかしながら、社会とのつながりを持っていました。
息子の病状が安定して過ごせるようになったときに、家にこう、ふと見るとですね、お兄ちゃんが使っていたピアノが昼間誰も弾かれない状態で置いてあることに気付きまして。

主人と相談をして家でこのピアノを使って、先生を私たちが採用して、生徒さんを募集をして、マッチングできるようなビジネスって始められないだろうかということを始めて、今ちょうど丸3年たちまして。

息子の介護と育児と家事を、家の中で仕事をすることによって両立させる今のスタイルにたどり着いたということで、一から仕事を起こした形です。
そうでないとなかなか、こういう24時間介護をしてる中で企業に通勤をするということは、大変ハードルが高くて。
今の働き方を、もう自分たちでつくったという形になります。

――おうちで起業されてから家族の役割ですとか、生活スタイルっていうのは変化しましたか。

変わりましたねー。
まず息子が退院して帰ってきて、呼吸器ついてますので、半径2メートル以内ぐらいに、大人がいないといけないという状態です。
私が外に出るのは訪問看護さんがいる間に、ごみを捨てに行くか、銀行に行くか、ちょっとパンを買いに行くかの30分ぐらいの用事でないと、外出ができないので、全ての日常、日用品の買い物は、お父さんと双子の兄に現在委ねられております(笑)。

学校周りのPTAですとかそういったものも、全てお父さんが(笑)やってくれるようになったというのは、劇的な変化ですね、はい。

医療的ケア児の家族の語り

公認会計士の資格を持っていたが、次女のケアが必要で会社に戻ることはできないと思い、かねてから考えていた独立を決意した

上の子のときの育休明けに、子育てしながら仕事してるので。
周り同期がみんな昇進していく中で、私だけやっぱり昇進ができなかったりして。
今の職場で続けていくのは、なかなか無理があるかなっていうのは。

頑張ってる女性の方もいっぱいいるんですけど、そういう方々は、何かを犠牲にされている。
私は犠牲にできるものが、もうこれ以上ないっていうふうに思ったので、今の状態ではちょっともうこれ以上、上にはいけないなと思った中で、自分のプライドを考えたら、もう今の職場にはいられないっていうふうに思っていたので。

どっちにしてもいずれは独立という、自分で細々とでもやっていきたいなって、せっかく資格も取ったしってのは思ってたんですね。
今回、次女の病気のことがあって、もう完全に復帰は無理だと。
ちょっとこの状態で今の職場に戻るのは、いろんな意味で難しいと思って。

そういう意味で独立の背中、次女に押してもらったかなと思っているので。
そこは全然、後悔してない、逆に良かったなと思ってます。

――今も、ぼちぼちっていう感じでお仕事は、なさってらっしゃるんですか。

そうですね、結局次女の関係でいろんなとこに顔を出してく中で、会計士なんです、独立しようと思ってるんですっていうのを、時々話に出すようにしました。
すると、じゃ一緒に仕事しませんかとか、コラム書いてみませんかとかって感じで、今はボランティアなんですけど、そういう感じでこう、簡単なお仕事をいただいたりとかはしてるので。
今まで会計士としてやってきた仕事とは、全然違う方向性なんですけど。
そういうことを生かしながら、できる簡単なお仕事みたいのもいただいたりしてるので、そういうのを今ちょこちょこやってる感じです。

医療的ケア児の家族の語り

生活保護の申請時に、電子レンジ、冷房、車も所有できないと言われたが、どれも生活には必須で主治医が意見書を書いてくれた

生活保護をもらうにしてでも、当時は簡単じゃなかったですね。当時は冷房も駄目、電子レンジも駄目、車も駄目で、「(子どもを)施設に預けてください」って市の担当から言われて。もうちょっと理解不能でしたね、相手が言ってることが。
私は預ける気はもうほんとになかったので。

生活保護をね、(申請)しようと思って。
個人の主治医に相談したら、その主治医の先生が、自分が(意見書を)書くからって言ってくれて、その主治医が話をして。
結局先生は、施設に預けてても、施設ができないようなケアをこのお母さんはやって、この子育ててるのに、行政が守らなくてどうするんだっていうことを言ってくださってみたいで、それで下りたんですよね。

電子レンジも使わせてもらえるようになったし、冷房も使わせてもらえるようになった。
当時はそういう時代ですよね。
なかなかご理解っていうか、こういう世の中じゃなかったんだと思いますね。

生活保護をもらってるおかげで、私は何のお金の心配もなく最後までこの子を育てることができたので、ありがたい制度だなとは思ってますけど。
まあ当時いろいろやってた頃は、不平不満っていうか、怒りと伝わらないむなしさと、いろいろあったと思います。
でも、結果が良ければいいんじゃないでしょうかね。うん。

生活保護のその当時の金額っていうのは、月にどれぐらいだったんでしょう。

多分ですね、20万近くはもらってたと思います。
息子が障害児の加算を別にもらってたので、18万かそれくらいじゃないかなと思いますね。うん。
だから十分ですよね、医療費もかからないし。
この子は後半、医療費まともに加算すると、300万はかかってましたからね。
それの3割って、払えませんよね。2年間も。

生活保護だから、言われますよね。
家にも帰らないし、2年間帰らないし、医療費は莫大にかかるので。
そこで特定慢性疾患※を取ったんですよ、先生が。
だから、行政の絡みというのがですね、慢性疾患が通ったので、慢性疾患で全部補助してもらえて、最後までいただいたんですけど。うん。

※小児慢性特定疾病制度のこと。小児慢性特定疾病に該当する場合、申請により医療費の自己負担分を補助を受けることができる。
詳細は、小児慢性特定疾病情報センターHPを参照ください。