投稿者「dipex-j」のアーカイブ

医療的ケア児の家族の語り

特別支援学校の就学について問い合わせたら、相談日を過ぎていた。自分で動かないと何もわからないと思い、HPや先輩ママを頼りに情報収集した

支援学校と一口に言っても、肢体不自由児が通う学校、知的障害の子が行く学校とか、いろいろ分かれているんですね。でもそれも自分で調べなければ分からない。

教育委員会も相談の場を年1日ぐらい設けるんですけれど、各幼稚園のほうにはお知らせが行くんですね。
私は通っていなかったんで分からないんですけれど、もしかしたら、療育園なんかにも(お知らせは)行ったかもしれないですね。市報に小さく載っていただけで。

障害や病気がある子の自宅に、何かお知らせがもらえるものだと思っていたんですけど、全くなくて。
問い合わせてみて、で、もう(相談日は)終わったっていうのを聞いて。
市報に載ってましたって言われても、小さくて正直、そんなに見てる余裕はないんですね。
ものすごく、優しくないなーと感じて。

市の教育委員会とやり取りをする中で、まず、障害課とつながっていないっていうことに驚愕(きょうがく)して、そこはせめてつながってほしいです。
きっと相談の会場に来る子って、ちょっと発達が心配な子とかがとても多いと思うんですよ。
それはそれでいいと思うんですけど、医療的ケアがある子がまずその場に行く、連れて行くっていうことはものすごく難しいことなのです。
だから、こういう子がそういう場所にいるっていうことをまず知ってくださいとは訴えて、一応、教育委員会のほうで、市の障害課とはつながりますとは言ってもらったんですけど、その後はちょっと分からない状態です。

――実際に教育委員会に、談判をするような感じで、就学まで行き着いたっていうことでしょうか。

直談判というか、まず、支援学校に行きたいと思ったら、教育委員会に自分で申請をしないといけないんですね。
まず市の教育委員会に、こういう障害があるので支援学校に行きたいですっていう申請をして、それが通ったら、今度は県の教育委員会に同じような申請をして、そこで下りて初めて支援学校に通えるっていう状態です。

今、通っている支援学校は割と家から近いんですけれども、ちょっと離れた所にもう一軒あって、その2校かなって勝手に思っていたんですね。
でも、誰も教えてくれないので自分で調べてみると、実は、もう一方のほうは、知的の子だけの学校だったっていうのが分かったり。
だから公的にはそういうことは、一切教えてもらえなかったです。

医療的ケア児の家族の語り

普通高校を3回受験しすべて不合格だったが、定時制高校の校長先生が学校開放の制度を設け、娘が通える環境を作ってくれた

ですが、大阪のように障害のある子どもが高校を受ける上での受験の枠とか、そういうシステムができているわけでは全然なかったので、その受験はほんとにもう、普通に高校を受けるっていうだけの受験だったと思いますね。
それでも、どうやって挑んでいくかっていうので、支援機器を使って、自己表現をしたりとか、そういうふうなことで、トライしていきました。

受験の日は母親が付き添うのは駄目だったので、リハビリの先生に付いていただいたりとか、そんなふうにしながら学力検査に挑んだり。
学力検査に挑むと今、言いましたけれども、回答できるわけではないので、その時間ずっとそこにいるということですね。そういうふうな形で受験に挑んでいきました。

それをする上で、同級生が高校生でいる3年間をタイムリミットにしようということで挑んだので、3年間そういう形で受験に挑みましたけれども、駄目だったです。
結局、定員内でも合格することはできなくて、結局そこで、重度の障害という壁に阻まれたというふうなことになるのかもしれないし、制度的にそこに乗っけていくのが難しかったっていうことだと思うんですけれども駄目だったです。

なんですけれども、そこ(受験した定時制)の高校に、非常に理解のある校長先生がおられたということで、全ての受験の、チャレンジが終わった後で、最後のとりでとして、そこの校長先生のところに会いに行きました。
高校の生活を娘にもさせてやりたい、なぜそう思うのかっていう話をして。

それはずっとずっと、地域で学んで地域で暮らすっていうことが大事だと思ってきた私たちの、将来のためにっていう理念も話をしながら、ここの学校に学びに来れる方法はないかっていうことで校長先生にお願いをしました。
初めてそこで、「お母さんの言ってることは何一つ間違ってないね」って言ってくださったんですね、その校長先生が。
もうほんとに、涙が出るほどうれしかったですね。

それから夏になって、学校開放という制度をつくったのでそこに来てくださいということになり、娘にまた私が一緒について行きました。
定時制高校なので、午前の部、午後の部、夜間の部、通信教育の部って4課程あるんですけど、各課程で週1回の学校開放を行うから、誰でもが高校の授業を受けられます。
そういう制度を学校独自につくったのでぜひ来てくださいと、校長先生のほうから言ってくれて、それに行くようになりました。

それに行きながら、またいろんなこう環境を持った生徒さんたちと、関わっていくっていう中で娘もそういう経験を積みながら、どんどん体としてもたくましくなっていったと思います。

医療的ケア児の家族の語り

普通学校は断られ、特別支援学校に通っていたが、姉が妹と通いたいと言ったことをきっかけに行政に働きかけ、普通学校に転校した

学校には、1年生から支援学校のほうに行ってたんですけど、4年生のときに地域の小学校のほうに転校して、お姉ちゃんと一緒に通ってるんです。
でももう普通、健康っていうね、障害とかない子たちと過ごしているんですけど、やっぱり、声とかにぎやかなのにすごく刺激になって、すごくにこにこと喜んで登校できています。

――支援学校から、4年生のときに転校するっていうのは、何かきっかけがあったんですか。

元々、小学校1年生のときから地域の小学校を希望してたんですよ。
そのときは呼吸器を付けてなくて、市のほうに何度も訴えたんですけど、受け入れを断られてしまい、支援学校のほうに入学して行ったんですけど、片道送迎に45分。
1人で送れないので、下の子の横におばあちゃんにも乗ってもらって、私とおばあちゃんと次女で3人で毎朝と、送り迎えずっとしてたんです。
でもそれが距離もあり負担でもあり、子どもが体調を崩すことがあって、それで入院も増えたりもあったんです。

ある日、上の子が「 (妹)と一緒に学校通いたい」と言ってくれて、で、ああ、私が1年生に通わせたかったんになと思って。
そこから市とか県のほうに、地元のほうに通いたいっていうことを働き掛けて、 県の方と、病院で講演する機会をいただいて取り上げてもらって、新聞とかでも。
それから、自分の市のほうからも受け入れが整い始めて、小学4年生から地域のほうに受け入れが決まりました。

医療的ケア児の家族の語り

娘がお兄ちゃんと同じ普通学校を希望した。市の担当者が学校のトイレ改修や看護師資格をもったアシスタントを探してくれた

学校問題が出てきたんです。
一緒に通ってたお子さんはそのまま隣接する支援学校に行く子たちが多かったんですけど、娘を見てて、どうしようかなって。
もっと可能性伸ばせるようなところないかなっていうのを考えて、コーディネーターの先生に2年前から相談をして、支援学校2カ所と地域の学校3つを何度か見学して、校長先生とかとお話しさせていただいたりして、それで小学校を決めようと思って。

そのうち、娘のほうが「地域の学校に行きたい」って言ったんです。
2番目のお兄ちゃんが小学校6年生のときに娘が1年生で入学するっていう年があって、「どうしてもお兄ちゃんと一緒に学校に行きたい」って娘のほうが言ったので、もう娘の気持ちを一番尊重しようかなっていうのがあってですね。

たまたまその地域の学校が、娘が入る3年前に建て替えでエレベーターがついたんですね。
だから、これはバリアフリー、ハード面考えても、ちょうどいいかなって思って。
校長先生に学校に出向いて「こちらでお世話になりたいと思ってるんですけど」っていうお話をさせていただいて、当時の校長先生は、「ぜひ一緒に頑張りましょう」って言ってくださって、それから、地域の学校に行くっていうふうに決めたんです。

教育コーディネーターの先生と一緒に市の教育委員会とかに行って、看護師配置とか、他県で、市の単独事業とかで看護師の配置とかをされてるっていうのも知ってたので、そういうのをお願いに行ったりしたんです。
でもやっぱり、なかなか予算がつかないとか、まあ、前例がないっていうのもあって、なかなかそこは難しいって言われたんです。

市の教育委員会の方も、一生懸命、一緒に考えてくださって。教育アシスタントさんを、そういう准看護師の免許を持った方とか、そういった経験者の方を探してくださって。
小学校1年生に上がる前に准看の免許を持った教育アシスタントさんを配置してくださいました。

ハード面も2階のトイレに身障者のトイレが一つだけあったんですけど、そこの前室にアコーディオンカーテンを付けてくださって。
他にもおむつを替える場所をつくってくださったりとか、娘が車いすで手洗いができるように手洗いに流し台みたいなのをつくってくださったりとか、すごく一生懸命してくださいました。

医療的ケア児の家族の語り

24時間呼吸器が必要になり、学校をどうしたらいいか悩んでいたところ、県の支援学校の先生が病院に通う形で訪問教育が始まった

このまま呼吸器で行くかというようなことになったのが、本当に小学校入学直前の3月でした。
そこで24時間呼吸器になってしまったんですけれども。
もう療育も卒業なので、学校どうしようっていうときに。本当は近所に県をまたぐんですけれども、15分ぐらいのところに、肢体の支援学校があるので、そっちに行きたいなーと思って。
あの「入学したいんです。」っていうことで。
要望書を出して、ちょっと運動してたんですよね。

そこに「行きたいんです、15分なら何とか通わせてほしい。」っていう形で言ってたんですけれども、東京都から断りが来たのが2月の下旬だったんですね。
もう入学(直前)の、2月の下旬に断られて、3月の上旬に大学病院に入ってしまって。そこから1カ月間ぐらい入院してたので。一体どこの学校に通えばいいんだろうっていうことで。

教育委員会と相談して「もうとりあえず、こんな状態だし、お子さんに行ける学校はないから、もう遠くても県の支援学校の訪問教育ということにしましょう。」ということで。
本当に、具合が悪かったので、どうなるかも分からなかったので、とりあえず訪問教育受けますという形で。
学校の先生に、病院まで来てもらって、訪問で「あ、いろいろできるね」なんて言われながら、いろいろ楽器なんか持ってきてくれて、楽しそうにもしてたので。「訪問教育でいいです。」っていう形で。
小学校1年生は訪問教育で受けますということにしました。

医療的ケア児の家族の語り

家での吸引は自分でほぼできるので、中学に入ったら自分でさせてほしいと伝えたが、特別支援学校では自己吸引を許可してくれない

小学校5年生から自己吸引はするようにさせてます。
学校でも、中学校入ってから自分でするようにさせてほしいと、小6のときに頼んで。
…それが今問題になってて(笑)。
支援学校は、手厚くするために、自分がやらなくていい環境を取ってるので、わざわざ自分でさせるってことがない。

(地域の学校での)育成学級とかでは、自分で吸引する子って、多分結構いると思うんです。
支援学校で自分で医療行為をするっていうこと自体が、まず…支援学校なのにっていう考え方なんですね。
で、そこを話し合って、一応、就職とかを考えたら、やっぱり自分でできるようになるのが当たり前というか、この子にとっての身支度的なものじゃないですか。
服着替えれるようになります、ご飯食べれるようになりますの一部になってるじゃないですか。吸引も注入もなんですけど。

それをやってほしいって学校に頼んでるんですけど、学校からしたら、まず支援学校で自分で吸引をするっていうこと自体が、考えられなかったことであったし、やる必要もないっていう考えで。
それで、ちょっと…いろいろ学校とも話し合ったりとかしながら、一応進めていくっていう形にはしてる、学校ではしていってはくれる感じなんですけど、今私もそれで頑張ってます(笑)。

――支援学校は支援する環境だから、自分でやらなくてもいいって。それは誰の考えなんですか。全体がそういう感じなんですか。

そうみたいです。管理職の先生と、夏休み前だったかな、夏休みの間に話し合いがあって。
で、その教頭先生は、昔低学年のときに副教頭でいはった先生で、地方のどっかで働いて、教頭として戻ってきはったんですけど。
だから、子どものちっちゃい頃からのことも分かってるし、動ける子とか、そういうのも分かってくれてるんで…前向きに話はしていただいたんですけど。
やっぱり、その支援学校っていう特性が話しててこっちも理解した部分はあるんですけど、ちょっと複雑だなと思って。
支援学校という特性って結構あるのだな、っていうのは分かったんです。

ただ、自己吸引ができるようになったら、今度は注入も自分で学校でしてもらいたいから、まずはここでスタートじゃないんですって言って。
まず自己吸引をしてから注入も学校でさせたいんで、早くやらせてほしいですっていうのはちょっと伝えてるんですけど。
学校で今話し合いが行われてて。
ただ、進める方向ではいってるけど、それにはまずそういうカリキュラムやマニュアルを作らないといけない。
で、教育委員会とかも、そっちも関わってくる。そういうので、ちょっと時間はかかってはいるんです。

だから、多分中学校とか高校で支援学校に編入する子っているじゃないですか。育成学級から。
そういう子が、育成で自己吸引してて、支援学校では自己吸引できないんですかって言ったら、今はそうって言われたんで。
自分では、支援学校では今はさせないっていう、安全面とか、そういうのだと思います。

――難しいですね。

難しいです、もう。嫌になります。

医療的ケア児の家族の語り

普通学校に入学したが、2年生の終わりに吸引や休憩は待機室で行うよう言われ、悔しくて学校に行けなくなり支援学校に転校した

2年生の終わり、3月31日に離任式って学校の先生のお別れ会がある。
その日に学校に行ったときに、帰りに校長室に呼ばれてですね。私と娘、呼ばれて行ったんです。
そこで、校長先生から、「小学校3年生になる前にお母さんにお願いしたいことがあります」っていうことで、3点告げられたんですけど。

まず、吸引は他の子が気が散るので、それまでは教室内で後ろを向いて吸引をしてたんですけど、「もう今度からは教室の外に行って、保健室なり、そういったところで吸引はしてください」っていうのが1点。

で、水泳の時間も、みんなはちっちゃいプール、まだ低学年だったので、小プールに入ってたんです。
その小プールの横に小さいビニールプールを用意してくださって、そこに教育アシスタントの先生が抱えて、娘とそのビニールプールに入って、手遊びしたりとか足をばたばたさせたりっていうのを水泳の時間、させてくださってたんです。
でも「やっぱり水泳は危ないので、もう3年生からは(水泳の)授業は見学で参加してください」っていうふうに言われたんですね。

で、3点目に、娘、側弯が進行してきてて、授業中、横になって授業を受けれるのは、まあ、1時間程度ですかね。
午前中1時間ぐらい簡易ベッドを市の教育委員会が用意してくださって、それに横になって授業を受けてたんですけど。
「横になってる生徒に、担任は何の指示も出せません」って。
「だから、その休憩してる時間は、お母さん、待機室に連れてってください」っていうふうに言われて。

決定事項としてそれを告げられてしまって、私はなんか、「何……何で今頃、そんなことを?」って思って、もう悔しくて、悲しくて、涙しか出なくて。
それを横で一緒に娘も聞かされて、そのデリカシーのなさというか。
そういったところにも、もう。学校に対して不信感しかそのときになくって。私の中では、この学校に足が向くことはなかったんですね。

どうしても、娘とこの学校に登校するっていうことが私の中でどうしてもできなくって。
たまたま、すぐ、こども療育センターの小児科の受診が入ってたので、その先生に相談して「こういうふうに言われました」って。「もう、私、あの学校には行けません」っていうふうに相談し、「支援学校に転校したい」って私がそのときに申し出たんですね。
そうしたら、その小児科の先生も、「お子さんの今後を考えたら支援学校で、プロというか、専門を学ばれた先生の下で体調を見ながらとか、側弯なんかも防止しながらそこでできることを増やしていくっていうのも一つの選択肢ですね」っていうふうに言われて。
私もそれだったら支援学校に転校しようかなと思って、その手続きを始めました。

医療的ケア児の家族の語り

重症心身障害児を一人で看る困難を思い、悩んだが、最終的に離婚し気持ちが軽くなった。元夫と息子の面会交流も続いている

シングルに(なったことに)対してですね。
私は最初結婚生活9年で正直、結婚して子ども授かりたいと思ったけど、結婚してすぐ離婚したいって思っちゃうくらい、その夫との関係が厳しい状態で。

わが子を出産したらもうシングルになろうかなってちょっとよぎるときもあったんですけど、それは健常児、またはただのダウン症児だったらシングルでやれんのかなと思ったけど、まさかの重症心身障害児で医療的ケアも必要だから、あ、これは無理だわと思って。

夫もNICU毎日通ってくれたし、職場からね。
それで息子に愛情いっぱいに関わってくれて。

それでもちょっともう耐えられなくなったときに、でも医療的ケア児と重症心身障害児は人の手があって初めてね、在宅が成り立つくらいですから、無理だって思っちゃったんですけれど。

ただ、本当に私自身が我慢してて、自分の力が発揮できない状況が続くんだったら、やってみようって。
それも、周りの人がそういうチャンスをくれたっていいますかね。

それで、実際やってみたら、自分の足で立って生活するってことがすごい心地のいいものだって思いました。
誰のお伺いも立てずに自分の責任で両足で立って。

だから貧乏だって問題なくて、むしろその精神の自由を勝ち得たことがとても大きかったですね。
私が夫婦生活のことで悩んで療育センターのケースワーカーに相談に乗ってもらってたときも、「あなた、本当離婚してからすごいよくなったわ」とかね、お褒めの言葉いただいて。

――ありがとうございます。離婚されたのは、お幾つのときですか。

はい、3歳になったときですね。
ちょうど障害児保育園に内定を決まったときでした、はい。

――それ以降は、お父さんとは、関わりというのは何か続いているんでしょうか。

はい。
やはり元夫が息子が大変なときに支えてくれたっていうご恩はすごいありますので、面会交流を私が立ち会わない形で、第三者を介して交流するってことを続けています。

ただ、今コロナで会えない状態で、本当に息子もパパが大好きなので息子にとっても元夫に対しても会わせられないのは本当心苦しいなと思います。

医療的ケア児の家族の語り

妻が腎盂炎で入院した。子どもの入院付添ができないため子ども一時退院させ、自分が家で子ども2人の面倒をみた(音声のみ)

――お子さんが生まれて10年ぐらいたつその間、どちらかが病気をしたりとか、なんか入院するほどじゃないけど寝込んだりとか、そういうこともあったんですか。

奥さんのほうは(入院したこと)ありましたね。
ずっと高熱が出て、腎盂腎炎になったんですかね。

それで何年前か忘れましたが、年末だったんですけど、自分も仕事が休めないし原因も分かってないから休みの申請のしようもない、そういう状況で。

検査に行って初めて分かったんですけど、腎盂腎炎になってすぐ入院せないかん。
でもそうなると、子どもはその病院で見るには付き添いが絶対必要だったので、それができない。

だから、子どもを一時的に退院させて奥さんを入院させるっていうふうにしてたんです。
年末に本当は全員そろって退院っていう形をとりたかったんですけど、子どもだけ退院して奥さんだけ年明けは病院で過ごしたっていうんはあります。

――そのときは上の、お姉ちゃんも学校があったりで。

そうです、そうです、はい。

――で、ケアもあって。どういうやりくりだったのか覚えてますか。

そのときはもう(上の子は)冬休みに入ってるので、学校に対してどうこうっていうはなかったです。

それで、その上の子自体もいろいろ手伝ってくれるので、はい。
分からんなりにもこう、動いてくれて。
なんか取ってきてっつったら取ってきてくれてっていう感じなんで、特に困ったことはないです。

医療的ケア児の家族の語り

夫は入院付添いにストレスを強く感じるようなので私が付添いし、夫は家でお姉ちゃんの面倒を見るという夫婦の分担になった

主人は入院の付添いはちょっと俺には無理だと言ってました。
病院のベッドがちっちゃくて、そこに2人で添い寝する感じなので、ちょっと男の人には難しいのかなって。

正直病院の付き添いは、自分の食事をどうするかとか、それこそトイレに行く、お風呂に入るとかって、そういう基本的なことすらままならない状態なので。

ほんとに次女にずーっと付き添うって感じで、かなり精神的なストレスが来るので主人はそれはできないって。
家にいて長女の面倒を見てるほうが、仕事もありますしうまくできるって。

私はその辺は多少融通が利かせられるので、気持ち的にバランスも取れるので、お互いいいほう、自分にとって無理のないほうを取ったという感じで。

主人は病気のことを受け入れるのに多分、私より時間がかかってしまったみたいで、NICUの面会とか入院のときの付き添いとかはあんまりしなかったかなと思います。

家に帰ってくれば全然かわいがってくれるんですけど、やっぱり入院手術になって不安が大きいというか、そこに向き合うのに結構精神的な気持ちが必要なので、そこは主人はなかなか私ほどは向き合えなかったと思います。
まあ、(夫婦で)上手にバランスを取ったという感じだと思います。