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医療的ケア児の家族の語り

遠足でも付き添いを求められたが、親元を離れて過ごす経験のため粘り強く交渉し、自治体初の付き添いなしでの修学旅行が実現した

遠足とかも、バスに乗れなかったんです。
みんなで、例えば葛西臨海公園行きますとか、ちょっとその辺に行きますとかっていったときにバスに乗っていくのに、この子は医療的ケアがあるから介護タクシーで別で1人で乗っていくとか。

なんでですかって聞いても、途中で吸引するときに車が動いてると危ないから。
バスだと止めなきゃいけないから。

え、動いてるときでも大丈夫なのにとか思ったりとか。
ちょっとなんかよく分かんない理由がいっぱいあったりとか。
特別支援学校でなんでかみんなと一緒にできない、過ごせないとかはありましたかね。

――プールと、遠足?

あと修学旅行とかも親が泊まらなきゃ駄目、しかも夜は親と一緒の部屋で寝てくださいだったんですけど。

なぜなら、看護師さんは夜9時から朝までは、活動しない時間だから。
でもこの子、全然夜中に何かケアがあるわけじゃないですし。

よっぽど医療的ケアがないけれども眠れなくて興奮してわちゃわちゃなってる子のほうが手がかかったりするのになと思いなが、親も泊まってくださいって言われたりとか。

――結局どうしたんですか、そのときは。

もう交渉して、交渉して、最終的にはなしでなりました。
それも、初めてだって言われました。

なんでかっていうと、今までそういう要望がなかったって言ってました。
みんな親御さんたち心配で、一緒に行きますって親御さんが多かったみたいで。

でも、修学旅行って健常児にとってもそうだと思うんですけど、親元離れて友だちと先生とで一晩を過ごすっていうのも、醍醐味かなと思って。

だって、そこに看護師さんもついてるしお医者さんもついていく修学旅行なのに。
で、誰かが一晩中起きて何かケアをしなきゃいけないケアはそのときなかったので。

医療的ケア児の家族の語り

人工呼吸器をつけていたが、個別対応看護師の導入や文科省支援事業で体制整備が進み、最後は本人の意思が尊重されて待機が外れた

まだ日本全国でも呼吸器で付き添い介助が外れるっていうのは少ないのかなと思うんです。けど、うちの県では支援学校でも通学生って本当にいなくって、数名しかいなくって。

うちが行ってた学校が県の中央にある肢体不自由の学校なんですけど、看護師さんの人数も多くて。

ただ、看護師さんができる行為っていうのが3行為。
口腔内吸引と胃ろう注入と、導尿の3行為って言われてて、「人工呼吸器管理っていうところが入らないので付き添いは絶対です」って支援学校に入るときにも言われて。

それが条件で入ったっていう感じだったんですけど、それからも校長先生といろいろ話をしながら、「どうしたら(学校での)待機外れるんですか」って。

もう私も大人げなく通ったんですけど、その中で文科省とかそちらのほうでは話はいろいろ進んでるんだなっていうのは校長先生のほうから話を聞くたびに感じてはいました。

実際法が決まっても現場がそれだけに対応できるかっていうのが一番の問題というところも分かっていたつもりでずっと待機をしながらその日を待ってたんですけど。

小学校6年生のときに県が、個別対応看護師っていうシステムを取り入れてくださって。
というのが、呼吸器をつけているうちの娘に、1週間に3日、1日最大3時間、娘専用に看護師をつけますよっていう。

だからその時間だけお母さんが待機を外れていいですっていうシステムを、つくってくださって。
それが2年ぐらい続いて1人、そのために看護師さんを雇ってくださったんですね。

3年目からは学校の看護師、誰もがその個別対応看護師「きょうはあなたがこの係ね」っていうふうな感じでなってたんですけど。

高校1年生のときに多分、文科省だったかの事業で、待機を解除するにはどうしたらいいかっていうような研究みたいなのがあって、で、全国で何校か…。

――モデル事業みたいな?

そうですね。
モデル事業みたいなところ募集されて、うちの支援学校も手を挙げてくださって、それに選ばれて2年間研究をされた結果、待機が外れたっていう感じなんですけど。

でも、それまでに私も当事者として会に入れていただいて、いろいろ参画させていただいたんですけど、ちゃんと順序よくというか。

先生たちも不安がないように看護師さんも不安がないようにっていうので、いろんなシミュレーションをやってみたりとか緊急体制をきっちりつくったりとか、本当いろんなことを2年間かけてやって。

最後に娘のあとはやっぱり一番は本人の意思が大事っていうことで、娘が「もうお母さんはいなくても大丈夫です」っていう言葉が最後決め手になって、待機が外れたっていう感じです。

医療的ケア児の家族の語り

小学3、4年までは新学期から秋頃まで付き添った。高学年になり体調が安定してきたことで親自身の時間が少し長くなってきた

学校行き始めて、小学校3年生ぐらいまでは結構体調を崩しやすくて、学校行ったら急に熱が出た、戻ってきた、そこから1週間熱が続いた。

で、私は基本入院させたくない人なんです。
子ども(のこと)なんですけど(笑)
呼吸器もある、酸素もある、薬は胃ろうからできる、水分も注入でできる。

点滴も、ソリタ(水分補給の点滴)があれば、点滴と同じ成分なんで吐かないように機械でアミカ(アミカシン:二次感染を防ぐ注射液)とか使いながら、24時間ずっと水分も注入はできる。

なんで、本当に医療や注射とか、そういうのが必要じゃない限りは家で看れる状況が整ってるんです。

何かあれば往診の先生に電話するなりメールするなりして、指示を仰げるっていう感じなので、基本もう家で見看てていう感じでやっていってるんですけど。

学校は結構厳しいんで、ちょっとでも熱があったら迎えに来てくださいとか、体調がちょっとおかしかったらとか、急に吐き始めましたとか。

結構小学校3年生までは多々あったんで、仕事もできないしいつ呼び出されるかも分かんないし、私もまだそのときは学校行ってくれてる間ちょっとゆっくりできるかなっていう。ただ、いつ電話かかってくるんだろうっていうそういうのはありましたね。

本当にゆっくりできるようになったのは小学校高学年入ってからで、学校の学年始まりは引き継ぎで、小学校3年生、4年生ぐらいまでは、大体秋ぐらいまで常に一緒に学校に行ってます。

で、5年生ぐらいから子どもも体調を崩しにくくなったりとか、先生の引き継ぎも短くはなっていくんで、夏前とかゴールデンウィーク明けとかには1人の時間が増えたかなっていうのはあります。

医療的ケア児の家族の語り

小学校の修学旅行で看護師は夜間のケアまではできないと言われ、子どもの宿泊先の近くに家族皆で宿泊して、母親がケアをした

個人的な話になっちゃうんですけど、この子が小学校の修学旅行でディズニーランドに行きますってときに、下の子が2歳になるかならないかっていうときで、私がいないと駄目だったんです。

夜のケアとかはお母さんが全部やってくださいねって学校で、看護師さん一緒に行くけど夜間は見れません。

上の子も下の子も私が見て、突然の呼び出しにももちろん15分以内に来れるところで対応してくださいねって言われると、「悪いけどちょっと、仕事休んでくれる?」って主人にも来てもらって半分家族旅行みたいな感じになっちゃって、全然望まない形で。

サラリーマンならいいんですけど、うちなんかは日給月給で働いてるので1日休むことで収入は減るけど、休んで一緒に行った人の分の交通費とか入園料とか食費とか宿泊費とかもかかってきたりもするし。

じゃあ、行かないって言っちゃったこともあったんですけど、そうなると、本人の教育上とか思い出とかにも影響してくるし。

看護師さん(自腹で)連れてってなると、夜間まで含めると1泊2日で10万円ぐらいなっちゃうので、現実的ではないねっていう話で。

じゃあ最終的にどうするのっていうと、やっぱり家族が泣くしかなかったんですよね。
もうそういうことがすごく積み重なってる感じはしています。

医療的ケア児の家族の語り

学校では気管切開のカニューレが外れると親を呼び出したり、吸引器の吸引圧も変えられなかったり、臨機応変とはいえなかった

学校ってねえ、カニューレとかが外れちゃうと、必ず親呼び出しなんですよね。
その辺がなんかもうちょっと臨機応変にできるといいかなって。
吸引も全部その後、親がやんなきゃいけないとか受診しろとか言うわけ。

子どもによって様々対応が違うんだから、カニューレが外れたからって、酸素濃度がすぐ下がるわけでもない子どももいるんだから、その辺はちょっと臨機応変にできたらいいんじゃないかなって思うことと、学校の(痰の吸引器の)吸引圧、すごい低いんですよ。

子どもによって、圧は強くしてもっとがーって吸引していいんだけれども、その辺が何て言うのかな、学校だからっていうのがあるので、その辺を要は、医療的ケアの部分だよね。

こないだね、(カニューレが)抜けちゃったの。
ちょっとゆるくって、こうやってかいてたらびよって。

で、たまたま私がいたから入れてあげたんだけど。
なんかそういうのきっとね、今後も出てくると思うんだけどね、どうすんのかなって感じ。

やっぱり学校の看護師の限界っていうのがあるから、ずーっと学校で面倒見てもらうのには、安心感がはっきり言ってないですね。

安心感がないっていうか、んー、分かります?
また療育の場とは違うから、看護師さんの対応が。

あれは駄目、これは駄目、(吸引器の)バッテリーが入ってないと、学校の電源使うと文句言われるしね(笑)

変でしょう(笑)。ねえ。「吸引が多い人でもバッテリーちゃんと充電してるのに、なんで(あなたは)充電してないんだ」って怒られちゃうのね。

いいじゃんね、電源ぐらい使ったってね。
学校によるのかな、看護婦さんによるのかもしんないですけどね。
「はい、はい」っつって(笑)、うるせえなと思いながら。

なかなか難しい、学校はねー。
ほんとに、うまくやってかないとって感じですね。

私は働いてないから、なんかこうやってのんきに言ってられるんだと思うんだけど、ほんとに働いててっていう人は、大変だろうな、これからね。
両立してやってくのね、大変だと思う。

医療的ケア児の家族の語り

看護師だったので、デイサービスに付き添うついでにそこで働いた。娘は他の職員が見てくれて娘の知らない一面も知ることがあった

次女が支援学校に入って学校の付き添いがなくなったときに、一度は(看護師の仕事に)復帰しました。

でも、また体調を崩して人工呼吸器になってからまた辞めた感じで、小学校入る前には放課後のデイサービスとか、ほういう児童発達系のデイサービスのほう通って、そこに次女とともに行って、私も働かしていただいてました。

――あ、そういう仕組みも、できるんですね。

なんか、「子どもを預けてる間、もったいないから働いたらば?」と言われて、「家ですることすることないんちゃうん」っていう感じで、「働くとこ探してるんやったらここで働き」っていう感じで言ってくれて。

――へえ、面白いですね。

はい。

――毎日のようにデイがあって、放課後に行く?

まだ入学前だったので、普通に朝から通えていたので、一緒に子どもと出勤してまた一緒に帰るみたいな(笑)。

――それによってお子さんと、いい意味での距離ができたりとか。

そうですね。
それまでは自分が24時間付いてるから、次女(について)の知らないこと、私が知らないことはなかったんですけど。

ま、言ったらみんな保育所に預けて、親と子が離れてて、あ、こういうことあったんだねーっていうことがあると思うんですけど、ようやくそういう自分の知らないところの時間が発見できたというか。

――その意外なわが子の側面って、例えばどんなこととか、覚えてることありますか。

私は次女が嫌いなこと分かってなかったときに、他のスタッフから「ほういうことしたらすごい怒ってたよ」とか、「ほういうことしたらすごく喜んでたよ」という新たな部分、自分の知らなかった部分の発見もたくさんありました。

――お母さんだと気を遣って出さなかった、あるいは、お母さんがスルーしてたりとか、そういうこともあったってことなんですかね。

家族以外と多分、触れることが少なかったから、そういう面で成長があったのかなという思いもあります。
周りの子たちの様子とか、環境での成長があったのかなーと。

医療的ケア児の家族の語り

毎日親が付き添ったことで他の子たちとの交流が活性化し、プールに入ることも認めてもらえ、得られるものがたくさんあった

私がついていくことで、しゃべったり意思表示が難しい娘が友達とコミュニケーションを取るためのサポート役も担うことができました。
なので、娘に対するいろんな子どもたちが投げかけてくる質問に、私が答えていく。
あるいは、娘と一緒に、遊ぶっていうことのサポート、こんなふうなことができるよとか。

当時、娘は幼稚園の頃からですけどコミュニケーションの支援機器を活用することを進めていたので、それが非常に子どもたちの関心を誘って有効でした。
たった一つの音声を録音できる、ビッグマックという機械なんですけど、その機械を幼稚園のときから持って行っていて。
で、そこに子どもたちと非常にシンプルな支援機器ですので、簡単に録音ができます。

子どもたちが録音してくれたり、私が録音していったものをみんなが聞いたりとか、それを娘が不自由な手なんですけれども、別に置いたスイッチを押してそのコミュニケーションの機械に支援機器につないで音声を発生すると。
自分の声では声掛けができないけれども、スイッチとか支援機器を使って友達に声を掛けたりとか、学校の場所で発表をしたりとかそういうことができるので、子どもたちが非常に興味を持ってくれて。

そういうことに関する情報伝達を娘に代わって私が子どもたちや友達にできたりっていうふうな有効なこともたくさんありました。
で、また遊ぶ約束をして、放課後うちに子どもたちが集まってきてみんなで遊ぶっていうことにもつなげていくことができました。

いろいろどうしても必要な役割は待機中はあったわけなんですけれども、それ以上に得られるものもたくさんあったと思います。
それは特に子どもたちや先生方と娘に関する情報伝達を十分にできたかなーと思います。

あと例えばプール活動とかそういうときにも、一緒に介助して入ったりとかそういうこともしました。
親が関わるのであれば、できないことはないかなというふうな学校の先生がするにはちょっと大変だけれども、お母さんが関わってくれたらみたいなところも当初はあったかもしれないです。
そうしてやっていくうちに、だんだん娘の状態を学校の先生たちも知るようにもなっていってくれたかなーと思う。

それより何より子どもたちが娘の理解をしてくれて、いろんな発見もしてくれて、子どもたち同士、あるいは先生とか自分の親にも伝えてくれるような流れもできてきました。
私は同時にPTA活動にも入って行ったので、PTAの役員とかを通して、子どもや娘自身の理解もそうだし、子どもたちのために読み聞かせのグループで、朝読み聞かせの活動にも参加したりして、学校生活が円滑に行くきっかけも得ていけたかなーと思います。

医療的ケア児の家族の語り

入学当初は胃ろうで看護師のケアを受けられたが、経口で食べられるようになると誤嚥が心配と、給食時の親の付き添いを求められた

嚥下(えんげ)の回復が少しずつうちの子始まっていって、吸引器が最初に(学校に)見学に行った頃は、24時間の吸引が必要でしたけど、入学の頃は24時間までいらないかもっていうふうになっていったんです。

ちょいちょい引かなきゃいけないけど、体勢によって何とかキープできる。
でも、吸引がいらなくなってくるっていうことは、じゃあ食べられるんじゃないのっていう。

食べることに関しても、私自身が栄養剤だけで育てていくっていうことに疑問を感じていたので、胃ろうから自分で作ったご飯をとにかく食べさせたかったんです。
自分でいろんな栄養を考えて、例えば便秘気味ってなったら繊維が多いものでとか。

繊維にも不溶性と水溶性があるとか、そういうのを調べながらこの子のより良い状態をつくっていきたいっていうのがすごくあったので、そこは病院のほうとも相談しながら、力を入れていた部分だったんですね。

嚥下の回復のためのリハビリも、病院のPT(理学療法士)さん、OT(作業療法士)さんと相談しながらずっと進めてきたし、その努力があってとは言わないけれど、きっと本人の成長で回復が進んだんだろうなとは思ってますけど。

そのことで逆に学校に入学したときは、栄養剤の注入しか学校は認めていなかったので、胃ろうから注入をしてました。

病院側はもうこれならある程度の形態の食事だったら口から行ってもいいよっていうOKサインがお医者さんからもリハの先生たちからも出たけど、どうしても学校がうんって言わない。

そこに安全があるのか、その責任は誰が取るのかみたいなところで、うまくそこが進まなくて。
結局2年生までは、ほとんど付き添いで登校して、その理由が給食みたいな。

給食を(学校で)出してもらえないので私がお弁当を作って、ちょっと柔らかめの軟飯とか軟菜を作って持っていって食べさせ方も自分で安全確認しながらで。

それをどれだけ先生に伝えていっても先生はなかなか怖いので、受け入れてもらえないみたいな感じの時期だったかな。

医療的ケア児の家族の語り

人工呼吸器をつけていても元気に学校に通えることを示し、いずれ親の付き添いがなくなればと、意地になり高校2年まで付き添った

今、高校2年生になりました。
人工呼吸器を付けているということで、学校には毎日一緒に行って私もずっと学校の中で過ごして、一緒に帰ってくるっていうのが基本なんですけど。

小学校4年生、5年生ぐらいまでは学校のほうが腫れものに触るじゃないけど、やっぱりいつどうなっちゃうか分かんないっていう不安を、学校からすごく強いっていうのを感じていたので、週に3日、まあ多くて4日通う感じでした。

体調も悪くないのに休まなきゃいけないっていうこともないよなと思って、5年生ぐらいからは週5ベースで行ってます。

呼吸器の子どもたちの付き添いっていうのは結局必須だけれども、だから呼吸器の子たちが学校に来る回数が少ない。

学校に来る回数が少ないと学校のほうの受け入れも進まないっていう悪循環みたいなのもあるなって思ったので、じゃあ呼吸器の子でも毎日毎日元気に通えるんだよっていうのを伝えられたら受け入れも良くなるんじゃないかなと思って。

なるべく毎日学校に行くようにして。で、受診は放課後に入れて。
なので、うちの学校の肢体不自由児の中でも出席率はかなりいいほうなんです。

だけど今、高2になって、小5、6、中1、中2、中3の5年間で、何一つ動いてない。
私一人が頑張っても、県って動かないもんなんだなと思って。

例えば「じゃあ、モデルケースとしてやってみましょう」っていうふうにもなっていかないし、だったら、しゃにむに頑張って学校行って無理しなくてもいいかなって、今年は思っていて。

今まではとにかく学校中心、学校を休まないで受診の予定も組むってしていたんですけど、もう今年は何か用事あったら学校休んでもいいし、受診も午前中に入れちゃってもいいし、ゆるゆると行って。

その代わり例えば外の世界とつながることを大事にして、これから高3、卒業、高校を卒業した後の生活につながっていくような方向へ、シフトチェンジしようかなって今年はちょっと思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

特別支援学校で娘のケアは看護師では対応できないと言われ、自分が付き添い、トイレも自由に行けず、気持ちを休める暇はなかった

学校っていう空間がとても特殊な場所で、今は違うかもしれないんですけど、当時は学校看護師ができる医療的なケアということに非常に限りがありました。

私の(娘の)場合は医療的なケアがたんの吸引と胃ろうからの経管栄養だったんですけれど、ダンピング症候群を予防するためにトウモロコシでんぷんを入れるという作業が発生するということで、学校看護師はこれは対応できないというふうに言われてしまいまして。

本当にわずか5ccか10ccぐらいのでんぷんを溶いて、胃ろうという所に入れるだけの作業なんですけど、その当時の学校の規定にはなかったんですよね。
今は分かりません。

ただ、これは学校看護師でできる対応ではないというふうに学校長から言われてしまったもので、学校看護師は対応できないというかたちで言われてしまって。

ずっと付き添いが必要だったこと、特に1年間通学籍で通学をしていたもので娘のすぐ横に私がいてということを週3回学校に頑張って通っていたんですけれど、本当にトイレにも自由に行けないようなかたちの中で授業を受ける。

学校看護師がいても、うちだけ対応できないことがあるとお母さんはずっと教室にそのままいてくださいっていうふうに言われることが、ずっと続いてしまうと、私も非常につらいというか(笑)

24時間365日学校に行けるように、体調を整えるために家でもものすごく頑張って、学校でも教員や学校看護師の人たちが安心して娘のケアに当たってもらえるように教育を受ける環境も整えてということで、私なりに努力もしました。

ケアもいろんな人に手伝っていただきながらやっていたんですけど、全然体が休まる暇がないし当たり前ですけど2つ上のお兄ちゃんのことも考えながらの毎日で、気持ちを休める場所がなかったことがいつもいらいらしていたときかもしれないですよね。