月別アーカイブ: 2023年3月

医療的ケア児の家族の語り

子どもが生まれてパートを辞めたが、声をかけてもらい短いシフトで再開した。働いて人とつながるっていいなと感じる

お総菜屋さんのパートをしてました。
妊娠する前までは結構、社員並みに働いていたんですけれども、妊娠してから時間は減らしてもらいつつ、普通に電車とバスで30分ぐらいかけて通勤していました。
結構、力仕事とかもあるんですけど、自分の体は全然平気だったので働いていて、ほんとに突然入院して休んだ感じでした。

――その後は退職されたんですか。

その後は、まだNICUに入院中は保育園預けれるのかなっていう、薄い期待はあったので、しばらく1年くらいは籍置いてもらっていて、退院してしばらくしてから、やっぱりちょっと難しそうってことで退職しました。

――保育園の申請は出す前に、ちょっと難しいかなってご自身で判断されたんでしょうか。

そうですね、申請すら行かなかったですね。

――うーん。でもそれだけ、頼られて待ってもらってるので、ちょっと諦めきれないところはなかったんでしょうか。

それが今のパートにつながっていて、小学校1年生のちょっと前ぐらいに1回、声掛けてもらったんです。
でも「ちょっとまだ難しそうです」って言ったにも関わらず、その1年後ぐらいか、2年生になる直前ぐらいにまた声掛けてもらって、それで働けることになって今も続いてるんです。
あのとき頑張っててよかったなーっていう感じがします。

――今のお仕事はどういうシフトって言うんですかね。どういう働き方なんでしょうか。

その当時働いてた店舗とは別の、地元の店舗で働かせてもらえていて、週に2回、3~4時間ですけど、短いシフトでも雇ってもらえています。
思ったよりも、息子の病気で休むとかはないんですけど、そういうことも理解してくれて働けています。

働いてる日は放課後デイに朝から行ける日なので、もうほんとに安心してお任せしてるので、お風呂も入ってきてくれるし、特に何も考えずに働けています。

――じゃ、それ以外の日は下準備みたいなものはいるんですか。

特に何もいりません。

――働いている職場に対してお子さんのお話とか、どんなふうにされてるんでしょうか。

本人を連れてったことはまだないですね。
障害がある子がいて、ちょっと休むことが多くなるかもしれないということは、社員さん以外の、パートさんとか学生さんとかにも最初にお話はしてます。

――それだけ、ずーっと熱いオファーがあったら応えなきゃいけないですね。お仕事してて、これはよかったなとか思うことってありますか。

ずっと働いてきたので、家にずっといるのが苦手だし、社会とつながってるなっていうことも実感できます。
そんなに稼げはしないですけど、お客さんとのやり取りとかもできるし、人とつながれるのっていいなと思います。

医療的ケア児の家族の語り

息子が生まれ会社を辞めようと考えたが、仕事が支えになると社長が言ってくれ、在宅や月1,2回での簡単な勤務を継続している

息子が生まれる前まで働いてた会社で今も育休を取っていて、育休を取りながら月に1~2回だけ本社に出勤して、コピーとか、ちょっとした掃除とか、ファイルの整理とかっていうような、あんまり負担のかからないような仕事をさせてもらったり、在宅でパソコンを使ってできる仕事をさせてもらってます。

――お仕事先には医療的ケアのことはご説明されたんですね。

はい。生まれてもう一番、家族の次に報告したのが会社の社長で、まず出産の報告と、現状の報告をして、すごく心配をしてくれて。
上司とか、同僚とかにも、仕事の人にはまず一番最初に報告して、そこから、辞めなきゃいけないかなっていうふうに最初は思ったんですけど、会社のほうから絶対辞めちゃ駄目って、言われて。

それは嫌な意味ではなくて、自分の生活を守るためと、やっぱり仕事があることで気持ちが楽になったりとか、絶対するから、今諦めて辞めないで、取りあえず会社には属してなさいっていうふうに言ってくださったので、ありがたくそのようにさせてもらってます。

――会社に行くときには、お子さんはどういうふうに生活しているんですか。

基本的に私が会社の本社に行く日は息子のデイサービスがある日で、デイサービス先にも今日は出勤しますということを伝えて、送り出したらすぐ電車で、1時間ぐらいかかるところに会社があるので行って。

短くて1時間半とか、長くて2時間半から3時間ぐらいしか働けないんですけど、気分転換にはなるので、終わったらすぐバーッと帰ってきて息子を出迎えてっていうような形です。

――今の生活って、自分のこと、お子さんのこと、ご主人のことってあると思うんですけど、切り盛りしていくときに、ここはしんどいなとかはありますか。

あー、しんどいなっていうのは、やっぱ家事との両立だと思うんです。
幸い主人が家事何でもできるのと、割と理解のある主人なので、話せばやってくれるし、息子に関わった先生、特に、女医の先生は、女性の気持ちが分かるので、主人に結構きつく言ってくださったので(笑)。
それもあって主人が自分のやれることは率先してやってくれるので、そこは何とかやれてます。

――結婚する前から随分変わられた感じですか。それとも変わらず優しいなっていう。

多分もともと優しい人であると思うんですけど、特に、息子が生まれてから協力的にはなりましたね。

医療的ケア児の家族の語り

子どもに障害があることが不幸なのではなく、医療的ケアがあるために社会から特別視され、孤立することが不幸なのだと思う

私は、大学を出てからは、ずっと会社員として10年以上働いてきました。
出産後も早々に復帰して、家事、育児、仕事を両立させていきたいなって、モチベーションがすごく高かったんですけれど、それがかなわなくなってしまって。

それは今思えば、子どもに病気や障害があるからではなくて、ネックなのは医療的ケアがあるから子どもを保育所に預けられないとか、うちは来年から学齢期ですけれど、学校でも終日付き添いでいなければならないとか、もちろん放課後も親が一緒にいなくてはならないっていう環境になってしまったことです。
働くことが全くできなくて、人生がガラッと変わってしまったんですよね。

仕事大好きだったりしたんですけれど、今までの、出産前日までの自分の人生とほぼ決別しなきゃいけないような経験をして、で、今に至ってるっていうことがあって。
今思うのは、子どもに障害とか病気があること自体はすごく大変だったり、不便なことはあるけれど、多分それ自体が不幸なことでは本当はないのかな。

生まれたときは、子どもに病気とか障害があることが不幸で、自分がそういう母親になることが不幸なのかなと思ってたんですけど、もしかしたらそうではないなと。

障害とか病気、そういったことで、社会から差別されたり、孤立してしまう。
本人もそうですし、私のような親もそうですけれど、違う扱いを受けるとか。
今まで暮らしてたところと同じところにいるのに、自分だけ別世界のところに隔離されているような。
そういう生活というか、人生を強いられることはすごく不幸なんだなっていう結論に今は思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

非正規雇用ながら、やりがいのある専門職だった。再雇用や保育園も決まっていたが、生まれた子の障害がわかり、仕事復帰を諦めた

私、3月31日に仕事を退職したんですけど、専門職でやりがいのある仕事だったので、続けたいと思ってました。
それで、非正規雇用だったんですけど仕事が認められて、1年後に再雇用するって約束の下で退職したから、妊娠中に保活して保育園の認証保育園をもう押さえてたんですよ。

それで、妊娠生活を送っていた側から、さっき話になった(主治医の)「自然淘汰する命を助けてしまったのかも」ってセリフからどんだけ(状況が)重いんだと思って。
あ、これはもう普通の保育園は無理だってなって、NICUに息子が通ってるときに、保育園の辞退の連絡入れましたね。

だから、仕事復帰ってもうあり得ない、考えられないような状態でした。
あまりにも状態が重いし、預かってくれる場所も一切なくて。
一般の赤ちゃんだとファミリーサポートっていうのがあるから、私も電話したら、障害のある子は受け入れられませんと。
医療ケアのある子は受け入れられませんってね。その場合は、社会福祉協議会のほうへ連絡してくださいって言われました。

そんなやりとりだけでも、すごいナーバスで傷つきやすい時期だったので、たった1回電話してそういうふうにリジェクトされただけで、なんかもう、拒否られたって感じでね、次に電話する勇気なかった記憶がありますね。

医療的ケア児の家族の語り

地域の普通小学校に通うという選択肢があるとは思わず、勧められるがまま特別支援学校に決めたが、今は状況が変わってきたと思う

――お子さんは特別支援に通わせるっていうのは、もう最初から決めておられたんでしょうか。それとも、何かお考えがあってだったんでしょうか。

今はほんとに変わってきてるのを感じます。
周りではそういう選択肢があるっていうこと、ご存じですから。
当事者のお母さんたちにしても、そういう選択肢ができるっていう時代になったんだなって思うんですけど、ほんとにまだこの5~6年前ですね、入学のときだから。
5~6年前だと、地域的なことかもしれないですけど、私は地域の小学校に行けるって、思わなかったですね。

地域の小学校に行きますかっていう話すら、湧いて出てこなかったです。
無くはないんだなっていうのは薄々思いましたけど、整ってないのは明らかで、看護師さんの数とか付き添い体制とか、お母さんが全部小学校に一緒に行くんなら行けなくはないけどっていうのが、当たり前みたいな感じでした。
そもそも上の子がいる時点で私が、息子の学校に毎日ずーっと日中行っとくっていうのは、あり得ないっていうことで選択肢になかったんですよねえ。
状況が変わってきてるなっていうのは今思います。

私もその頃、情報を調べてみるっていうこともしない。
ただ毎日あるものを流して生きて消化して生きてたので、正確なところは、どの程度その当時整ってたとか分かりません。
でも流れとして出てきた単語に地域の小学校ってあんまりなかったというか、言われるまま、皆さんのお勧めのまま、特別支援学校で、せめて特別支援学校の場所を選ぶぐらいの、どこの場所がいいだろうっていうところから、ちょっと考えた感じになります。

医療的ケア児の家族の語り

特別支援学校の就学について問い合わせたら、相談日を過ぎていた。自分で動かないと何もわからないと思い、HPや先輩ママを頼りに情報収集した

支援学校と一口に言っても、肢体不自由児が通う学校、知的障害の子が行く学校とか、いろいろ分かれているんですね。でもそれも自分で調べなければ分からない。

教育委員会も相談の場を年1日ぐらい設けるんですけれど、各幼稚園のほうにはお知らせが行くんですね。
私は通っていなかったんで分からないんですけれど、もしかしたら、療育園なんかにも(お知らせは)行ったかもしれないですね。市報に小さく載っていただけで。

障害や病気がある子の自宅に、何かお知らせがもらえるものだと思っていたんですけど、全くなくて。
問い合わせてみて、で、もう(相談日は)終わったっていうのを聞いて。
市報に載ってましたって言われても、小さくて正直、そんなに見てる余裕はないんですね。
ものすごく、優しくないなーと感じて。

市の教育委員会とやり取りをする中で、まず、障害課とつながっていないっていうことに驚愕(きょうがく)して、そこはせめてつながってほしいです。
きっと相談の会場に来る子って、ちょっと発達が心配な子とかがとても多いと思うんですよ。
それはそれでいいと思うんですけど、医療的ケアがある子がまずその場に行く、連れて行くっていうことはものすごく難しいことなのです。
だから、こういう子がそういう場所にいるっていうことをまず知ってくださいとは訴えて、一応、教育委員会のほうで、市の障害課とはつながりますとは言ってもらったんですけど、その後はちょっと分からない状態です。

――実際に教育委員会に、談判をするような感じで、就学まで行き着いたっていうことでしょうか。

直談判というか、まず、支援学校に行きたいと思ったら、教育委員会に自分で申請をしないといけないんですね。
まず市の教育委員会に、こういう障害があるので支援学校に行きたいですっていう申請をして、それが通ったら、今度は県の教育委員会に同じような申請をして、そこで下りて初めて支援学校に通えるっていう状態です。

今、通っている支援学校は割と家から近いんですけれども、ちょっと離れた所にもう一軒あって、その2校かなって勝手に思っていたんですね。
でも、誰も教えてくれないので自分で調べてみると、実は、もう一方のほうは、知的の子だけの学校だったっていうのが分かったり。
だから公的にはそういうことは、一切教えてもらえなかったです。

医療的ケア児の家族の語り

普通高校を3回受験しすべて不合格だったが、定時制高校の校長先生が学校開放の制度を設け、娘が通える環境を作ってくれた

ですが、大阪のように障害のある子どもが高校を受ける上での受験の枠とか、そういうシステムができているわけでは全然なかったので、その受験はほんとにもう、普通に高校を受けるっていうだけの受験だったと思いますね。
それでも、どうやって挑んでいくかっていうので、支援機器を使って、自己表現をしたりとか、そういうふうなことで、トライしていきました。

受験の日は母親が付き添うのは駄目だったので、リハビリの先生に付いていただいたりとか、そんなふうにしながら学力検査に挑んだり。
学力検査に挑むと今、言いましたけれども、回答できるわけではないので、その時間ずっとそこにいるということですね。そういうふうな形で受験に挑んでいきました。

それをする上で、同級生が高校生でいる3年間をタイムリミットにしようということで挑んだので、3年間そういう形で受験に挑みましたけれども、駄目だったです。
結局、定員内でも合格することはできなくて、結局そこで、重度の障害という壁に阻まれたというふうなことになるのかもしれないし、制度的にそこに乗っけていくのが難しかったっていうことだと思うんですけれども駄目だったです。

なんですけれども、そこ(受験した定時制)の高校に、非常に理解のある校長先生がおられたということで、全ての受験の、チャレンジが終わった後で、最後のとりでとして、そこの校長先生のところに会いに行きました。
高校の生活を娘にもさせてやりたい、なぜそう思うのかっていう話をして。

それはずっとずっと、地域で学んで地域で暮らすっていうことが大事だと思ってきた私たちの、将来のためにっていう理念も話をしながら、ここの学校に学びに来れる方法はないかっていうことで校長先生にお願いをしました。
初めてそこで、「お母さんの言ってることは何一つ間違ってないね」って言ってくださったんですね、その校長先生が。
もうほんとに、涙が出るほどうれしかったですね。

それから夏になって、学校開放という制度をつくったのでそこに来てくださいということになり、娘にまた私が一緒について行きました。
定時制高校なので、午前の部、午後の部、夜間の部、通信教育の部って4課程あるんですけど、各課程で週1回の学校開放を行うから、誰でもが高校の授業を受けられます。
そういう制度を学校独自につくったのでぜひ来てくださいと、校長先生のほうから言ってくれて、それに行くようになりました。

それに行きながら、またいろんなこう環境を持った生徒さんたちと、関わっていくっていう中で娘もそういう経験を積みながら、どんどん体としてもたくましくなっていったと思います。

医療的ケア児の家族の語り

高校は特別支援学校かと思っていた矢先、普通学校を受験する選択肢もあると聞き、娘も望んだため、受験を決意した

中学3年の、みんな高校受験で忙しくなってきた頃に、娘に「どうしようか」って。
いよいよ、特別支援学校の高等部を考えないといけないかなっていうことで、家族でも話をしていたんですね。
今までも、幼稚園、小学校、中学校と来た経緯の中では、いきなりここから特別支援学校かっていうのがちょっとしっくり来なかったところがあって。

中3の春に、大阪のリハビリの理学療法士の先生から、「中3なったけど、高校どうするの?」って聞かれたんですね。
それで、「もう、特別支援学校しかないよねー」って言ったら、「いや、大阪はねー、そんなことないんだよ」って教えてくれたんですねえ。

特別支援学校に行きながら、日々、高校に通うっていうような特別支援学校もあるし、高校に知的障害のある人の受験枠があって、そこを受験して入っていく子もある。
あるいは、特別支援学校に行く子もあるし、普通に高校受験して高校の生徒になる子もあるし、就職する。
実際、高校に行かずに就職する子もあるしね。それだけ数えても5つの選択肢があった。

それを聞いたときにがくぜんとして、じゃあどうするっていうことになって、娘に「どうする、高校行きたいの?」って聞いたら「うん」って言うんですね。
決して、彼女は学力があるわけでもない、勉強ができるわけでもない。
みんなと一緒に、中学過ごして、楽しかったっていうことだけなんだと思うんですけど、でも、じゃあ「みんな今、受験勉強、夜もしてるよ。するの?」って言ったら、「うん」って言うんですね。
ああ、そうか、みんなと一緒に机を並べて過ごしたいんだなって思って、だったら、高校を受けるかっていうことになったんですね。

それを、中学校の先生に言ったら、とんでもないって話にもちろんなりました。学校の中でも、非常に波紋が広がり、県内でも、そういう前例のある人なんていなかったので、非常に注目されるようなことにもなったんですけれども。

でも、本人が勉強したい、みんなと一緒に高校で机並べて、勉強したいって思いがあるのは確かだったので、それは当たり前の希望だよねっていうことで、トライすることになりました。

医療的ケア児の家族の語り

普通小学校入学にあたり行政との交渉が難航した。議員らにも働きかけて、学校に看護師を派遣してもらい、無事入学できた

日々ちょっとずつ、どんどんできるようになるとうれしくて。
幼稚園に、療育をしながら、小学校行かせようとしてるお母さん方もいっぱいいるんですよね。
そういうお母さん方に憧れるんです。私もそうなりたいな。
私、そのメリットをすごく聞くんですよね。小学校に行った時の。

うちの娘にもぜひそういう体験をさしてあげたいと思いまして、何とか地域の小学校に入れたい。
ただ、この戦争は長いよっていうふうには言われてまして、2年前から、年中さんの頃から、いろんな人に声を掛けたりとか。

担任の先生に注入してもらえませんかって言ったら、担任教諭はそういうことは一切できませんっていうことで。
じゃあ、保健室の先生お願いしますって言ったら、保健室の先生は、800人の子どもたちを見てるから、あなた一人のお子さんだけを見てるわけではないからっていうふうに言われるんですね。
保健室の先生は、保健室の先生の仕事があるんですっていうふうで、断られてるんですね。

本当にその難しさっていうのを(知って)。
看護師さんの人件費を出したらいける。看護師さんを雇うって意味でね。
でもその人件費を出すのは市じゃなくて、あなたが出すんだったらってふうなんですけど、もちろんそんなことできるはずないじゃないですかっていう。
そんなお金持ちじゃないのにっていう感じだったんですけど。

それをどう乗り越えようかなっていうところで、ほんとにいろんな人の声と理解を求めて、議長さん、議会議員の方とかにも、話し掛けに行って。
そうすると、いろいろ声掛けまくったので、少しずつの声が固まりまして、理解してあげようじゃないかとか、こういうことまだ間に合うんじゃないかとか。

基本的に小学校上がる前の、年長さんの10月ぐらいまでには大体決めとかないと、その後の、小学校の現場での、場所なり人的な確保っていうとかいう問題があるんで。
もう本当に最後のプッシュで、それでもそれでもって、どんどんやってて、2月のほんとに末ぐらいの時に、OKが出たんです。
もううれしくて。そこからランドセルを買って、入学式に間に合わせたみたいな感じですね。
ランドセルなんか背負えないんですけど、大き過ぎて。まあ、そんなんで行きました。

実際のところ学校のほうは、担任の先生以外に、その注入をしてくださる、看護師さんを付けてくださいました。
その先生のおかげで、担任の先生は療育のような感じで、学校のやつ(授業)を進めてくださって。
ちょっと、学校のことをちょっと悪く言ったような感じがするんですけど、そうではなくて、本当にすごくいい学校なんですね。

医療的ケア児の家族の語り

地元の友達を作りたいという思いで、幼稚園での交流を始めた。他のお母さんたちも応援してくれ普通小学校への入学が実現した

当時(1990年代)、重度の娘のような、そのときにはチューブ栄養はしてなかったですけれども、始終、喉がゴロゴロしていたりとか、座位も取れない寝たきりの子で、座位保持型の車椅子に乗って、自分で動くこともできない。
手足を自分の意思で動かして、何かできるわけではない。
そういう重度の心身障害の子どもを、地元で受け入れるっていうことは前例がないことだったので、交流であっても非常に、ハードルは高かったです。

何度も話し合いを進めて、教育委員会の人も交えながら、園長と幼稚園の先生方と、主任の先生方との話し合いを進めました。
当時まだ離婚していなかった夫も、別居中だったんですけれども、家族全員の同意がなかったらというふうなことを園長がおっしゃったので、別居中の夫まで引っ張り出して、話し合いに参加させたこともありました。

そういうふうな中で、じゃあいいですよ、お母さんが付き添うならばいいですよということで、月1回の幼稚園の交流が始まりました。
それが地域の子どもたちとの、まず初めてのいい出会いになったと言えると思います。

そんなふうにしていく中で幼稚園だとお母さんたちが、幼稚園に子どもを迎えに来るわけですね。
で、その時間帯辺りにも一緒にいたいと思ってしてると、だんだん娘のことを、他のお母さんたちも知るようになってきてくれました。

小学校への入学に関しては、一緒の地域に住んでいるんだから行って当たり前だと、お母さんたちが応援してくれるような、そういう流れになってきて。
小学校入学も、地域の人たちの後押し、お母さんたちの後押しがあり、ずっとその交流の様子を、毎回毎回、記録に残して、それを教育委員会に持っていくようなこともしていました。
教育委員会の人たちがその意味を理解してくれて、逆に教育委員会のほうから校長先生に、娘のことを受け入れてくださいと、最終的にはお願いをされたようです。

そういうお願いが来たのでということで、最後まで当時の、小学校の校長は受け入れに対して前向きではなかったんですけれども、教育委員会からお願いの連絡が来たので、娘さんを受け入れますということで。
ただし、保護者の待機が条件ですということで、小学校の入学がかないました。
もう、入学する年の2月のことでした。