月別アーカイブ: 2023年6月

医療的ケア児の家族の語り

仲間内で愚痴程度に話していた内容を陳情書の形で3つの区議会に出した。改善まではされていないが、まず第一歩だ (音声のみ)

仲良くなったママと、愚痴程度に話してたものを、そのママの提案で、まず議員さん、区に話してみようっていうことで、そのママの住んでる区の議員さんに相談しに行ったら、陳情書っていう形があるっていうのを教わって。

いろいろ相談をして行く中で、陳情書にしよう。
じゃあ、私の住んでいる区、そのママの住んでいる区、両方出しましょうっていうことで、最終的にはもう1人別の区に住んでいるママが加わって、3つの区に陳情書を出そうってなって。

私の住んでいる区と、もう1個の区には出したところで。
私の住んでいる区では、ありがたいことに4人の議員さんがその陳情書を見て、興味を持ってくださって、「実際にお話聞かしてもらえますか」って。
少し前に区役所の議員会館に行ってお話をして、「議会に上げさせてもらいます」っていうことで、協力的に動いてくださっている。

議会でお話ししてくださって、結果はあんまりいい方向では(なく)、改善の方向には行ってないんですけど、私たちみたいな家族がいるっていうことと、困ってるっていうことを、まずは知ってもらえたっていうだけでも、まず大きな一歩。
引き続き継続してそれは審議してくださるので、それが良くなっていけばいいなっていうふうに思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

区の福祉センターに医療的ケア児を受け入れてほしいと活動し、実現した。引っ越し先の他区でも重症児のデイサービスを作る活動をする

前に住んでいた区が面積が小さくて人口も少なくて、小児人口が減少してた地区だったので、小児人口を呼び込もうって活動をしていて。だから、そこに障害児がいてもって。

ただ、すごい障害児には厳しい、特に医療ケア児には厳しいエリアでした。
仲間と活動することで、地元の子ども福祉センター、家庭支援センターに行ったり。
地元の福祉センターも、医療ケア児は親がついてても受け入れられませんって言われて。

それが理不尽だなと思ったので、1年かけて交渉して、迎え入れてもらったんですね。
今、後輩たちの話によると、定員がいっぱいになるぐらい。
私たちが迎え入れてもらって、ニーズがあったわけですね。
今はそこの区にとって重要な社会資源の一つになってるんじゃないかなと思いますね。
福祉センターで受け入れてもらったことはね。

私が今住んでる区に重心児童デイ(重症心身障害児向けのデイサービス)が一つもない。
それで、うちがお世話になったスーパーNICUほどじゃないけど、NICUがある大学病院があって、多くの命を助けてくれている区なんで、医療ケア児が次々と生まれることは想定内なのに、一つも、重心児童デイがないために、みんな他区に行かなければならないって状態。

仲間と重心児童デイをつくってくださいって活動したんですけど、駄目でしたね。
区によってやり方がそれぞれ違うので、この区にはそのやり方が通用しなかったのかなって思いましたし。

だから、ここの区に来てから勝ち取れてないんですよ、実は。
今回、区の障害児福祉計画を見直す時期なのでね、素案説明会ってのがあって、仲間と一緒に行ったり、それを仲間それぞれが意見表明したりとかしてますね。

ただ、うまくいかなくても諦めずにアプローチを続けるっていう体制でおります。
端から見れば何も勝ち取れてないじゃない、このグループって思われても、いや、そんな簡単じゃないけど、ただ、その精神はね、つらい思いを一人で抱え込まないように、みんなで共有して、この先、学齢期になったらこういう課題があるよっていうのも情報提供して、覚悟っていうかね、準備しといてもらうみたいなこともやってます。

医療的ケア児の家族の語り

同じ境遇の親で集まって当初は泣いていたが、そのうち退院時の相談や親子イベントを開催し、支援活動をするようになった

もともとは私たち全員、毎日泣いてた、何かしゃべると泣くみたいな感じだった。
私たち女子会って呼んでたんですけど、女子会をすることによって泣く回数が減っていくんです。
泣く回数が減って、笑う回数が増えてくると、今度、情報が入るようになってくる。

情報が入ってくるとたくましくもなるし、今度、外に出て行こうとか、あそこに行ってみたいって。
「じゃあ一緒に行こうよ」とか「先に行った人たち、どうだった?」とか、話してくれる人がいると、今度、自分の世界も広がっていく。

そうやって私たちは、乗り越えてきたけど、あの頃の私たちみたいに病院から出てきて、どうしたらいいか分かんなくて泣いてるお母さんたち、いっぱいいるはずだよね。
そういうお母さんたち女子会に呼ぼうよみたいなことがあって。
どこまで呼ぶ?とか、この集会室で何人までだったら入れるんだろうとか。

そうこうしてるうちに市の人たちから、今度こういう人が退院してくるんです。
お父さんがこういう人でお母さんがこういう人で、こういう病気なんだけど、面倒見てあげてくれませんか、みたいな話が来て。

話聞くのは全然いいし、うち見に来てもらうのもいいんだけど、そのお父さん、お母さん、子どもの個人情報を、1人の私が聞いちゃっていいの?っていうのがあって。
だったら名刺を市役所に置いとけば、何かあったらここに連絡しなさいみたいな感じのほうが良くない?ってなって、「じゃあさ、グループつくっちゃう?」みたいなノリでつくった。

それを最初は社協(社会福祉協議会)に持っていったんです。
社協でボランティアさん探してほしいとか、場所を借りれないかとか、そういう話を持っていったら、大学の先生を紹介してくれて。
そこの大学は福祉学科とか、作業療法学科とかあるので、協力してもらえるんじゃないかって紹介いただいて。

その先生が場所と学生を貸してくれるようになって、何カ月かに1回イベントできんじゃない?声を掛けられるように、会員さん募ったらいいんじゃない?っていうのが始まりです。

医療的ケア児の家族の語り

仲間内で会を立ち上げ、地域の医療的ケア児と家族が楽しく暮らせるようなイベントや勉強会の実施、会報の作成などをしている (音声のみ)

立ち上げたときは娘のためにという思いが先だったとは思うんですけど、やっていくうちに、この地域で医療的ケアの子たち、医療的ケア児の家族が安心して楽しく過ごせるようになるといいねっていう思いに、みんなで変わっていった。

会自体は、最初立ち上げたころは本当に少ない人数で始めた。
最初はうちに月に1回ぐらい集まっておしゃべり、情報交換会みたいなことをやって、少しずつ人も集まってきて。

3年目ぐらいからは春にはバーベキューを外でやって、公園のあるところで。
大学生のボランティアさん、看護大のボランティアさんとかいっぱい呼んで、きょうだい児も外で思いっきり遊べるように、レクリエーションを計画した。

いろんな施設見学に、県外のそういう重心(重症心身障害児)のいる施設とか医療ケアのお子さんたちを見ていらっしゃるところに見学に行ったりもしました。
また、年に1回、勉強会で、こども療育センターの理学療法士の方をお呼びして、家で、親でもできる簡単な理学療法とか、排痰法を勉強したり。

クリスマス会も、毎年、お父さんがサンタさんに化けて、レクリエーションをしたり。クリスマス会に関してはどなたでもどうぞって、会に入っていらっしゃらない小さいお子さんも、訪問看護ステーションを通じてお声掛けして。
たくさんの方に来ていただいたりしながら、クリスマス会をしたりとかですね。
会報を年に4回発行したり、市の会議にも参加させていただいたりしてます。

医療的ケア児の家族の語り

同じ境遇の親に会って、自分も前向きに頑張ろうと思えた。娘も周囲の人を頼りながら、自分に誇りをもって生きてほしい

病院で出会ったママ友たちは、ほんとに頼りになる人たちばっかりだなっていうふうに思います。

ケアの仕方とか、薬の種類だとかそういうところももちろんなんですけど、障害や病気がある子どもを持つことになった母としての心構えみたいなところ。
治療の中で子どもに苦しい思いをさせて、落ち込むこともお互いすごくあるんですけど。

みんなすごく明るくって、前向きで、そういう姿を見てると、私も一緒に頑張ろうみたいなふうにたくさん思わせてもらったので、そういう境遇のママたちと出会えたのは、すごく幸せなことだったなって思います。

逆にがっかりした思いっていうのは、ほんと少ないんですけど、たまたま通院のときに乗ったタクシーの運転手さんに、娘が鼻からチューブを入れてた様子を見て、最初っから最後まで、ずっと「かわいそうだ」って言われ続けたこと(笑)。
かわいそうって言われても何て言っていいのか(笑)。

――お子さんにこういう人になってほしいなとか、ご自身でも、あるいはパートナーと話していることでもありますか。

まずは、娘の周りには、優しい人はたくさんいるんだよって、今も伝えてるつもりですし、そう感じて育ってほしいなって思ってます。
医療的ケアが必要であろうがなかろうが、人間は1人で生きていけないので、困ったときにはすぐに、助けを求められる子に育ってほしいなっていうこと。
娘も、医療的ケアが必要だったり、お薬が必要だったり、一般から見るとマイノリティーな部分を持ってるんですけれども、それでもいい。

自分自身がこれまで頑張ってきたことに誇りを持ってほしいですし、自分自身を大切にできる子に育ってくれたらいいなと思ってます。

医療的ケア児の家族の語り

心を閉ざしていた自分に声をかけてくれたママと、医療的ケアがあっても嫌なことだけではないと話せたことで自分も強くなれたと思う

NICUってすごく複雑な場所。
小さく生まれた、早く生まれただけで、障害がないお子さんのお母さんもいて、かたや、もう明日はどうなるかっていう、うちみたいなお母さんたちもいて、そこで仲良くっていうのは難しくて。

生まれた喜びで、テンション高く話してるお母さんたちに「お子さん何週?」って言われると、声掛けないで、話したくないですって感じがあって。

初めて肺炎で入院したときも、お隣のベッドにいたお母さんが、すごく積極的に声を掛けてくださった。医療的ケアのあるお子さんのお母さんだったんです。

私、かたくなになって、お友達はいりませんっていう感じだったので、そのお母さんに声を掛けられても、「はあ」って言って背を向けて。
諦めずにそのママがずっと声を掛け続けてくれて、そのママが今は一番の親友なんです。

上の子の年も近かったのと、一緒の時期に入院も続いてたので、向こうのお姉ちゃんとうちのお姉ちゃんを連れて公園に行ったときに、そのママが、「どうしてうちの子たちはね、ああいうふうになっちゃったんだろう」って。
「私たちはつらいよね」って。
「どうしたらいいんだろうね」って言ってたんだけど。
「でも楽な子育てしてる人って、きっと1人もいないよ」と。
「やることが違うだけでみんな大変じゃない」って私、言ったんですね。

そのママが(最初はお子さんが)ミルクを飲めてたのに、だんだん飲めなくなって経管栄養になってしまったんです。
それがお母さんはつらかったんです。

「でもね、ちょうど同じ年頃のおうちは今、離乳食で、お母さんたち泣いてるよ」って。
「食べないし、作るの大変だし。食べ始めたらそこに1時間座ってなきゃいけないし、私たちの子は、セットしたら1時間それでね、手が離れちゃうんだから、その分、私たち楽じゃない?」って言ったら、そのママはすーっとその言葉が腑に落ちて、あ、そんなに嫌なことじゃないんだって思えたそうなんです。

そこが私たちの始まりで、もう10年近く前の話ですけど、鮮明に私たちの記憶にあって、あの公園のベンチで2人でしゃべったことは、私たちがきょうまで頑張ってこれたスタートだよねって。

娘が生まれて娘と関わることでつながった人たちは、そういう人たちがいなかったら、きょうまで来れなかったなと思いますし、そういうつながりが、自分を強くしてくれてるなっていうふうに思います。

医療的ケア児の家族の語り

自分の地元で暮らし、昔からのつながりがありがたい。子ども同士が無邪気で大人のほうが気遣いばかり、とも感じる (音声のみ)

私自身がこの地元で育って、結婚してもそこにいるので、同級生もみんな同じ年頃の子どもさんがいるから、お兄ちゃんたちの学校に行けば、同級生の子たちにも、私自身の同級生にも会ったりして、すごく声掛けてくれます。

「どんな?」って言ってくれたり、「いつ帰れそう?」とか、すごく声掛けてもらってました。そういうのがすごく励みだったり、一人じゃないんだなっていうのも感じられたり。
その辺では、助けられたなと思ってます。
地域に住んでるっていうことの大きさは、そういったところでも感じます。

ある日、次男の幼稚園のお友達のお母さんから聞いた話だったんですけど、お帳面ってありますよね、幼稚園に。
「この間、うちの息子がね」って、うちのお兄ちゃんからシールをもらったって(お帳面に書かれていた)。
そのシールっていうのが、娘が鼻からマーゲンチューブをして写真を撮ったのをシールにしたのがあって、それを幼稚園で配ったらしいんです。「これ、生まれた僕の妹」って。

お兄ちゃんからしたら「僕の妹だよ」って、ただ本当にかわいい妹なんだって、その概念しかないというか、それで配ったんだろうなと思ったらすごくうれしかったです。

――自然とそういう感じになったんですかね。

何回かはっと気付かされるようなことがあったんです。
周りの大人のほうが、変に気を回しているんじゃないかと。
長男の参観日の前の日に担任の先生から電話があって、「お母さん、あした、道徳の授業するんですけど。題材が車いすに乗ったカメラマンの話です。大丈夫でしょうか」っていうお電話頂いて。

最初、私、何のことか分かんなかったんですけど、お兄ちゃんを気遣って先生が前もって電話を下さった。
お兄ちゃんに「今、先生からこんな電話があったんだけど」って話をしたら、お兄ちゃんは「えっ? 何で?」って。「その人はその人やし、妹は妹やわ」っていうふうにそのときお兄ちゃんが言ってくれたのが、それもうれしかったな。

医療的ケア児の家族の語り

子どもと酸素ボンベを背負ってバスに乗っていてもほとんど声をかけられない。その中で近所のおばあちゃんとのなにげない会話がとてもうれしい

私自身も海外に行ったときに、子ども限定で会った覚えがないので何とも言えないんですけど、障害者とか、高齢者とか、少し弱い立場の方とかに対する受け止め方とか対応の仕方とかは全く違うと思います。

公共の場で当たり前のように、こんなところまでっていう気配りを、一般の人がしてくれたり(の状況を海外では)目の当たりにしてた。
私自身、妊娠もしてない、子どもも連れていない、ただそれは女性だからなのか、電車で席譲ってくれたり、大きい荷物を持ってたら譲ってくれたり。

車椅子の人に対して、周りの人たち全員で何のちゅうちょもなく手伝えるところとか、そういうところはなかなか日本では(ない)。
息子が大きくて、1歳半ぐらいのとき15キロぐらい。それに、酸素ボンベ背負って自分の荷物持って、狭いバスに乗ってたんですけど、席譲ってもらったことほとんどないし、声掛けられたこともほとんどないです。

腫れ物に触る的に思っているところがあるのか、知らない人に声掛けるのが恥ずかしいとか、ちゅうちょしてしまうっていう文化があるのかなーって思ったりはしますね。

――日本の中で、少し残念な体験もあったと思うんですけど、一方でこんな人のこんな行動がすごく助けになったとか、そういう経験っていうのはありますか。

日常、すごく大きな出来事っていうのは今、思い付かないんですけど、分け隔てなく、普通に子どもがいる母親で、息子もただ1人の子どもとして扱ってくれることが幸せなんだって、後になって気付いた。

当たり前のことなんですけど、普通に「何歳?」って、話し掛けてくれて「何歳です」って言ったら、「あ、そうなんだ。かわいいね」っていう、その普通のやり取りがありがたいなとは思いますね。

道歩いていると、知らないおばあちゃんが話し掛けてくれて、普通に「おはよう」とか、「学校行くの?」とか、「頑張って行ってきてね」って話し掛けてくれること。

何かあったときに助けますよって言ってくれたら、すごいうれしいんですけど、もし自分が困っていたら。
だけど、普通に話し掛けられることがほとんどないので、そういうのがありがたかった。
息子もすごいうれしそうにバイバイしたり、普通のことがうれしかったりしますね。

医療的ケア児の家族の語り

修学旅行は秋芳洞の内部で集合写真を撮る予定だったが、車いすではいけない。周囲の保護者が別の所で撮ればよいと提案してくれた

中学校の修学旅行は、山口から九州にかけて、2泊3日でした。
私ももちろん付き添いました。
でも、間の行動は全て、同級生が車椅子を押してくれたりして、行った。
娘が一緒に行くっていうことで、リフト付きのバスを借りて、行くようになりました。

そこで1つだけ、問題があったんです。
山口県の秋吉台の秋芳洞の中で、集合写真を撮るっていうことでした。
秋芳洞の中を、車椅子で行ける範囲って限られてるんだけれども、その中で一番美しいところで写真を撮ると。
そこにはどうしても娘は行けなかったんですね。

なんでそこで写真を撮らないかんのかということで、私が「ん?」って思ってたところで、私が言うよりも、周りの同級生の保護者が、「それっておかしいじゃないですか」と学校に抗議に行ってくれました。
それで結局、別のところで写真を撮るようになったんですね。

そんな感じで、変わってきたことは、地域の中でおって、言わなくても分かってくれる人たちが、どんどん出てきた。

そういうかたがたはどうして、そんなに優しく私たちに接してくれるのかなーって、思ったときがあって、その保護者たちが、私を見てて「こんなに一生懸命、頑張ってる人から頼まれて、嫌とは言わんよ」って、言ってくれた。

一生懸命、やってる人、私だけではないと思うし、そういう人に対して、手伝えることあったらするよって、何かあったら言ってねって言いたくなるんかな。
それはすごく、うれしかったな。

どっかで誰かが見てくれてるんやなっていう気持ちはすごく思いますね。
いまだに、私が体調が悪かったら、近所のお友達がすぐ駆けつけてくれたり、娘の同級生が抱っこするよって介助に来てくれたり、そういうことがありますね。

医療的ケア児の家族の語り

事故で身体が動かなくなった息子が退院したとき、近所のママたちがクリスマス会を企画し、子どもたちもこれまで通りに接してくれた

幼稚園のつながりのお母さんたちが、「退院してきたし、クリスマスパーティーやろう」って、招待状のカードも作って、みんなに配ってくれて、十何人か集まってベッドの周りで、にぎやかにクリスマスを過ごすことができた。

(来てくれた子たちにとって)今まで元気で会っていたお友達(である息子)が、動かない状態になって、呼吸器も付いて、酸素も付いていて、いろんな機械がつながっていて。
事故で第一頸椎、第二頸椎を脱臼していたので、コルセットで固定をしていたんですね。

明らかに様子が違う状態になった子どもを見て、お友達はどんな反応をするだろうっていう不安もあったんですけれど、心配していたのがばかみたいに、みんな普通に名前を呼んで、今までと何が違うんだろうくらい。

(息子は)寝てるんですけど、(子どもたちは)普通に手も触りに行くし、声も掛けるし、「こうやって言ってたよ」っていって教えてくれたりとか、普通に何でもなかったかのようにっていうと変ですけど、楽しいクリスマス会ができた。

その後も、春になれば「お花見行こうよ」って誘ってくれて、車いすでもエレベーターでお花見の土手に上がれるような河川敷を探してきてくれたり。

不思議なくらい普通に、学校には通えていないけれど、仲の良かったお友達とは、長期休みとか、集まれるときだけなんですけど交流が持てて過ごせていた。
今もですけど、その延長で、ほんとに楽しく過ごしてきた感じですね。