月別アーカイブ: 2023年6月

医療的ケア児の家族の語り

経鼻経管栄養になったが、食事をミキサーにかけて注入する。自分で子どもに食事を作る喜びがある

経鼻経管栄養になったときに、「もうこの子はご飯を食べられません」っていうのが当たり前みたいな感じで言われたけれども、うちはラコールとかエンシュアとか、使ったことがないんですよね。

最初っから食べることが好きな子だったので、おいしいものを入れたい、おなかに入ったものって香りが上がってきたりするので、毎食これ入れるの私は無理と思って。

交流会に行ったときに、あるお母さんが、「胃ろうでも手作りのご飯をあげたいんだけど、皆さんどう思いますか」みたいな質問をしてる人がいて。

私は胃ろうにすればそういうことできるんだと思ったけど、そのお母さんはほかのお母さんたちから、「え、何でそんなわざわざ面倒くさいことすんの?」とか、「いや、だって処方されたものだったらお金掛かんないんだよ」って言われて、シュンってなってたんです。

胃ろうにすればそういう可能性もあるのかっていうのを、私はそこで、一筋の光じゃないけど、「憧れの胃ろう」みたいになって。

大体みんなが言うのが、「処方されるとお金、保険で下りるんだよ」、「わざわざお金掛けるの?」みたいな話をしてたときに、「いや、子どもの食事って普通お金掛かるよね」って言ったのが、そのお母さんだったんです。
今も一番仲いいんですけど。

あるときそのお母さんが、おうちでバーベキューしてるときに呼んでくれたんです。
こういうふうにミキサーを使えば、注入ができるものも作れるんだよっていうのを試しで作ってくれたのを、そのときは経鼻のチューブだったんだけれども入れてみたら、入った。

その後に何か講習会をした先生が、納豆を胃ろうから入れるっていうのを聞いて、「納豆入れる? じゃあ鼻のチューブから入るのかな」っていって実験してみたら入った。
そういうことをやってるうちに、経鼻経管栄養でもミキサー食できるんじゃない?ってなって、ちょっとずつ始めていったら、体調も一気に良くなってきたんで。

食道破裂をきっかけに胃ろうにして、今はご機嫌でご飯を作ってます。
そういうのも全部、お母さんたち発信ですよね。

医療的ケア児の家族の語り

在宅療養が始まり、自分の自由がなくなった。失敗もあり、息抜きは訪問看護がある間のスーパーでの買い物だった

夜中も含めて均等割で注入があったんです、栄養剤の。
今までは夜勤の看護師さんがやってくれていた時間帯も、(家では)自分が動かなくちゃいけなかったんで、正直いつが昼でいつが夜なのか、もう分かんない感じだったなとは思います。
整えてから退院したつもりではいましたけど、やっぱりこまごましたことって、そこまで完璧にはねえ。

今まで自由に生活してたものが、一気にこの子から離れられないってなったので、すごくつらかったのは覚えてます。
寝たいときに寝られないし、食べたいときに食べられないし、話したいときに話せないしっていう、すごく窮屈な感じで、そういうときって自分に余裕もないので。

例えば、きょうだいに対してどうだったんだろう。夫婦げんかみたいなのもすごくあって、温度差とか。
実際振り返ってみると、みんなが一生懸命だったのは確かだと思うんです。
父は父の役割を、母は母の役割を、兄は兄の役割を一生懸命やってたけど、一人一人の歯車が合ってたかっていうと合っていなくて。

例えば、注入物をポタポタ垂らしてて、その間に洗濯物干しに行って、半分干したところで様子見に来たら、注入物が全部もう注入されちゃってたとか、逆に止まってて1滴も垂れてなかったとか。
吸引チューブを口にくわえさせて離れて、トイレに行って出てきたら抜けてて、ゴボゴボ溺れて若干、(顔色が)黒っぽくなってるとか。

そういうことを主人に話すと「じゃ、こうすればいいじゃん」っていうふうにアイデアはくれるんですけど、「や、そうはうまくいかないんだよ」っていう。
「じゃ、やってみてよ」みたいな感じの、いざこざっていうのはすごくありましたね。

たくさんアイデアは出してくれるし(笑)、工夫も教えてくれるけど、なんかそこがうまくかみ合わない感じで生活をしていました。
そんな中で息を抜けたのが、訪問看護が来てくださってる時間だったかなと思います。

そのときはディズニーランドとかに行くよりも、スーパーに行くことのほうが全然楽しい。スーパーってこんな楽しかったのか、コンビニだけでもウキウキするような、そんな感じの生活だったかなって 。

医療的ケア児の家族の語り

朝は経管栄養終了を知らせるアラーム音で目覚め、4時間置きの注入の合間に家事をこなす。動き回る娘を追いかけては注入する日々だ

夜間ずっと、夜の10時から朝の5時ぐらいまでかけて胃ろうで栄養が流しっぱなしになってるので、朝は、栄養の投与が終わりましたっていうポンプのアラーム音で目覚めるんです。

真っ暗な部屋の中でアラームを止めて、そんなことをしてるうちに、娘が起きてくるので、そこでおむつを替えて、大体6時ぐらいになって、そこから午前中は栄養の休み時間です。
その間に一気に家事を全部バーっとやって10時から、栄養ミルクが始まって、あとは4時間おきに10時、2時、6時は栄養の注入がある。
それに合わせてすき間すき間で買い物を済ませたり、お風呂に入れたり、ご飯作ったりっていうような感じで、一日が娘の栄養ありきで、毎日過ぎていくっていう感じです。

――それはお母さんご自身が基本的に全部行ってるんですか。

はい。ただ、全く同じことを夫もできるので、丸々1日私が外出させてもらったりもしてます。

――胃ろうからの注入で、在宅で失敗したとか、うまくいかないということもあるんですか。

元々はずっと、ポンプを使って注入をしてたんです。
娘は最初は寝返りするぐらいだったので、ポンプとチューブにつながれてる状態で問題なかったんです。
でもハイハイするようになって、そのハイハイもどんどん早くなって、遠くまで行けるようになると、つないでいることが難しくなって。

今は、シリンジで手押しで注入するっていう形にしたり、彼女の成長に伴って問題点はたくさん出てきました。
今はだんだん寝転がるのが嫌になってしまったので、そのシリンジで注入するのもなかなか止まってくれない。
注入してる最中に、突然走り出すというか、回転したりして、中身が全部こぼれるみたいなことも、何回もあるんです。

その都度どうやったらうまくいくんだろうっていうのを、彼女の成長とともに私も一緒に工夫して、日々試行錯誤しながらっていう感じです。

医療的ケア児の家族の語り

退院前に1か月の母子入院で日常的ケア、緊急対応や外出も想定した訓練を受けた。自信をもって退院でき、やってよかったと思う

息子がお世話になった病院では、最低1カ月の母子入院をして、母親が完全にできる状態で退院が認められますっていうことが条件だったんです。

内容としては、病院に全て家で使うものを持ち込んで、在宅で必要になるもの、例えばベビーベッドとか、ベビーバス、ベビーカーとか、全て必要なものを病院サイドでリストにしてくれました。
毎日インターネットで検索して、それを先生に見せて、…あ、これならいいとかっていうのを先生が教えてくれる。

その中で必要なものを全部買いそろえたら病院に持って来て、ベビーベッドとか持って来れないものもありますけど、ベビーバスとかも実際持って来てとか言われて。

実際、どうやって家でお風呂に入れるかっていうのも、家のお風呂を想定して看護師さんと計画を立てて、家で実際入れるような想定で一緒に、看護師さんが訪問看護師さんの役目になって、一緒に入れて練習をしたりとか。

吸引の指導、栄養の指導、栄養も朝昼晩って、スケジュール組みから全部看護師さんが丁寧にやってくれて、ほんとに家で困らないように看護師さんたちがやってくれる。

吸引とか、注入とかも、全部家帰ったら一人でやらなきゃいけないので、看護師さんの手伝いは基本なし。
夜中も自分で起きられる練習で、最初はなかなかアラームに気付けなくて、息子の吸引がなかなか寝入っちゃってできない。

そういうときは看護師さんが来るんですけど、息子のはやってくれなくて、私が起きる練習っていうか、看護師さんがわざとアラームを鳴らしたりとか、音に気付く練習をしてくれたり。

うちの場合はもう主人は仕事が忙しい。
夜中に帰ってくる仕事なので、主人に頼らなくていいような訓練とか、退院してから外来に来るときも、主人がいない想定で、電車に一人で乗る練習とか、外をベビーカーで歩く練習なので、電車乗ってきて1周してきてとか、そういう練習もあったりとか。

アラームが鳴ったとき、息子が苦しくなったときに、判断力も付けなきゃいけないので、ピーピーピーピー、酸素の値が低くなってアラームが鳴ると、主治医じゃなくても病棟にいる先生がパッと来るんですね。
で、「お母さん、今、これどういうこと?」とか、「今どういう状態? どういうふうにするべき?」とかっていう、試験みたいな、常にそういうのがあって。

「今は胸に手当てます。当てて、ゼロゼロしてるので、吸引します」。「はい、じゃ、してください」っていう形で、先生とか、看護師さんが横で見てる。で、する。
で、間違ったら、「お母さん、はい、違います」って言われて。

なので、看護師さんがやってくれるっていう入院生活ではなくて、私がいかに判断力を付けて実際できるかっていうのを、もう先生たちが一丸となって、主治医以外の先生たちも多分ここは訓練の入院ですっていうのが分かってて、先生たちが見てくれる、看護師さんたちも見てくれる。

医療的ケア児の家族の語り

本退院前には自宅に病院の主治医と看護師が来て、ベッドやアラームの位置や動線を確認してくれ、自信をもって在宅療養を開始できた

だんだんできるようになったら、今度は病院の1室を自宅に見立てて、ベッドの位置とか、お母さんがどこに寝るとかっていうのを見立てて、お父さん、お母さん、ばらばらの日に院内テストを経て、今度は院外テスト。

家に実際3泊で帰ってくる。
そのときもお父さん普段いないから、お父さんは手伝い一切なしでやってくださいとかっていう指示を受けてやって、それに合格して、退院っていうのが決まる。

指導はそんな感じだったんですけど、すごくありがたかったのが、まず先生が本退院の前に、主治医の先生がここ(自宅)に看護師さんと来てくれました。
全ての配置、ベッドの配置から、呼吸器の配置、寝る位置、モニターアラームの位置っていうのを全部家の中を見てくれて、私が置こうと思ってる位置とか、大丈夫かどうか、音がちゃんとどこにいても聞こえるかとか、見てくれて。

先生が、「じゃ、お風呂はここで入れようね」とか、もともと病院で計画してた配置じゃなくて、息子をいつでも感じられるように、「ソファこの辺に変えてください」っていうふうに、家の中のものを見てくれたりしたのがすごく私としてはありがたかった。

本退院の日にも来てくれて、最終設置をしてくれて、これで良しっていうゴーが出て、いよいよ在宅の生活っていう形で。
在宅に向けて、家に帰ったはいいけど、すぐ体調崩して病院に戻ってくるっていう子がすごく多いっていうのと、いきなり在宅が始まって、寝られない生活に親はなるので、それが負担で、お母さんがまいってしまうっていうことがよくあるそうで。
その病院ではそういうことがないように、自信を付けて退院できるようにっていう形で、徹底的な指導をしてくれてたので。

付き添い入院の最初の10日間っていうのはもうほんとにしんどくて、眠れないし、自分の搾乳もあるし、注入もしなきゃいけない。
1~2時間おきに起きて吸引しなきゃいけない。ほんとにつらくて、つらくて。

でも退院するときには、いけるでしょうみたいな感じの自信が自然に付いてたので、もしあの10日間が家で起こってたと思うとやっぱり恐怖。
誰にも頼れないし、聞けないし。

でも、病院のあの10日間は、万が一何かがあったら、看護師さん、先生がいるので、助けてくれるので、そこは心強かったなって思います。
つらかったけど、あの1カ月半があったのが良かったので、これはどこの病院でも取り入れたらいいんじゃないかなっていうふうにはすごく思います。

医療的ケア児の家族の語り

三男が退院するときには、夫、当時小学生だった兄たちも病院で2日間の研修を受け、家族内で三男を迎える気持ちがぐっと高まった

先生のお考えが「お父さんもできなきゃ駄目」というふうに、言ってくださったので、主人も会社を何度も抜けて、蘇生の方法だったり、救急車を呼ぶシミュレーョンまで全部やりました。

セリフですよね。電話をかけて、呼んでっていうのも、尋常じゃないこう精神状態の中でないと、救急車は呼ばないので、そういったときの対応ですね。
全部主人と一緒に行なって。

あとは双子のお兄ちゃんですね。
小学校その頃は4年生だったかな。3年生4年生の頃だったんですけれども、お兄ちゃん2人にも2日間の研修を組んでもらいまして。

チャイルド・ライフ・スペシャリストという資格を持った方がその病院にはおりました。
お兄ちゃんたちに対してぬいぐるみを使って、「カニューレはこう入ってるよ、人工呼吸器はこうやってつながってるよ。なので、君たちはこういったものを触っていいか、いけないかでいうと、どっちかな」。

息子の病気はこういう病気であって、「こういうことが起きたらすぐ大人を呼ぶこと。お母さんを呼ぶこと。自分でやっていいのはここまでだよ」というふうに、2日間プログラムを組んでくださって教えていただいて、最後は卒業試験まで準備されて。

お兄ちゃんたちも、弟を迎えるためのチームの一員としてですね、そこで自覚がぐっと芽生えたんじゃないかなと思っております。

医療的ケア児の家族の語り

娘はクリスマスに初めて一時退院し家族だけで過ごした。様々な人が在宅環境を整えてくれ感謝だ。楽しく、緊張の2日間だった (音声のみ)

(クリスマスに)帰ってこられるのが分かったときは、まず普通のうちと同じで、飾り付けを突貫工事で、朝早く起きて、バーって大きなツリー飾ったり、プレゼントをネットで注文して。
小さいクマのぬいぐるみを準備したり。

家に帰ってくるとなると、在宅ケアの準備をしないといけない。
たとえ、一時帰宅でも。

どうやって酸素の機械を家まで運ぶか、リハーサルを一回やってみる。
その来る前の積み込みからどこに娘を乗せてって全部シミュレーションを一回っていうことが病院でもあった。
機械を家に設置するので、業者の人に酸素を立てる台を運んでもらう準備もありました。

GCUの看護師さんが家に来てくださって、家の動線、危なくないかとか。
酸素の機械って火が近いとこに置けないんですね。

安全かどうかっていうのを一回確認しに家に来てもらってて、そのチューブがつながったまま家のお風呂にどうやっていれるかっていうのを一緒にやってもらったり。
ベビーバスですね。
つながったまま、外れないように入れるやり方を教わったり。

――病院でできる範囲のことが家でもできるように、家を近づけてったっていう感じですか。

そうなんですけど、病院、GCUで自分がおむつ替えたり、経鼻栄養の準備したりしてるときっていうのは、何かあったときにいつも看護師さんや先生が後ろにいてくださるので、呼べば来てくださる状態なんで、なんかあったときの不安っていうのはあまり正直なかったんです。

けど、家に帰ってくると、私と主人でそれをしなくちゃいけないし、なんかあったときにすぐ誰かが来てくれるわけではないので、そこの緊張感がやっぱりすごくて。

楽しかったのは楽しかったんですけど、娘が病院に戻った後、ものすごく緊張感から解放されたというか。
あ、こんなに緊張してたんだっていう思いはありましたね。

――何泊して、どんなことをしたんですか。

クリスマスは1泊でした。
いろいろしようと思ってたんですけど、娘がクリスマスのとき、家でずっと寝っ放しだったんです。

普段、病院では、夜起きてて、看護師さんたち困らせたり、構って構ってっていう感じで泣いたりしてるのが、うちに帰ってきた瞬間にずっと、ほとんど寝っ放しっていう感じの1泊でしたね、クリスマスは。

医療的ケア児の家族の語り

夫婦2人で生活していた家に息子を迎え、赤ちゃんのいる生活に驚きもあり、病院とは異なる環境で酸素ボンベの位置なども気を遣った

本退院する前に、1週間ぐらい前だったか仮退院みたいなのがありました。
1泊だけ家に帰ってくることができて、真夏、8月だったんですよね。
すごい暑い年で、その日は。

今でこそ考えられないんですけど、そのときは普段、私たち夫婦が、日中クーラーはつけるけど、夜間はクーラーはつけないように生活してて、普通に窓開けるように生活してました。

息子が仮退院で1泊だけ帰ってきたときも、一緒にこれこうしながらこうだねとかって言って、酸素の位置とか確認しながらやったりとかしてて、普通に寝たんですけど、何回も何回も起きるんですよね。

そのたんびに汗がすごいびっちょりで、初めて、ああ、赤ちゃんってこんなに汗かくんだっていうのを、それまで1回も一緒に夜寝たことがなかったですし、一緒に夜過ごしたことがなかったので、全然分からなくて。
病院がどんだけ快適だったというか、適する温度で朝から晩までいたんだなっていうのをほんとに思いました。

その1泊のときにだいぶ、あ、こうなんだなっていうのが、分かって、本退院することになって、もう、すごくワクワクドキドキ、不安もあり、楽しみのほうが大きくて、あれもしなきゃ、これもしなきゃねとかって言いながら、迎え入れたのは覚えてますね。

――おうちに帰ってくるにあたって、一番気を遣ったとか、家の中で工夫したところっていうのは何かありますか。

当時の家がほんとに単身用のマンションだったんですよね。
そこで、息子が生まれるまでは主人と2人で住んでて。

手狭になるので引っ越さないといけないねっていうのは、妊娠が分かったときから言っていて、何となーく2人のときは、狭いけど全然暮らせるよねっていう感じだったので、なあなあで来てしまって。

いざ引っ越ししないとねっていうふうに話をしてて、息子がもう生まれる直前までは、ほんとにバタバタだったので、そこまで本腰で引っ越しに、気持ちが向けられなくって、じゃあ生まれてからでいっかとかって思ってたら、もう全く自分たちが(動けない)。

息子の病気は分かっていたんですけど、そこまで入院も長くなるとは思ってなかったし、先生方も思ってなかったぐらいなので、もう全く引っ越しなんて全然余裕がなくって。

だからそこの狭い家で息子と3人で暮らすことになったんですけど、ベッドの位置とか、酸素の位置とか、もちろん子どもは動けないのでそこまで、ころがるよねってことはないんですけど。

やっぱりある程度、酸素の位置とかそういうことはすごい相談して、火気厳禁で火が近くにあると駄目なので、遠い場所であるとか、そこはどの程度、危険なのかとか最初のほうは分からなかったので、すごい神経質になっていたのは覚えてます。

医療的ケア児の家族の語り

新居を建てるにあたり、息子と暮らすことを前提にバリアフリーや天井に窓がある家、加湿や空気のきれいな環境を保つ家づくりをした

(新居の)工夫はいろいろあるんです。
まずは、息子の場合は、ゆくゆく自分で自立して、立つ、歩くっていうことは難しいっって思っているので、トイレは特に、バリアフリーにはしてないんですけど、他のところは全てバリアフリーにして、段差のない家。

加湿が大事って聞いてるので、なるべく自然の壁で、呼吸ができるような壁を、設計士さんが選んでくれて、家の中の湿度が循環する、空気がきれいに保たれる造り。
エアコンをなるべく使わなくていいように床暖房にするとか。

他の方からアドバイスいただいたのは、息子は常に、天井を見てる状態が続くので、電球が丸見えだと目が痛くなってしまうから、なるべく電球が丸々見えないライトにする。

天井のほうに窓があると、そこから空が見えるとか、木が見える、お花が見えるとかって、楽しみができるから、なるべく上を見上げたときに見えるものがあるといいよっていうのを教わったので。

設計士さんが工夫してくれたのは、家の壁。
家の壁の縁、床の縁、天井のクロスの縁は、掃除機がガンガン当たってもいいように縁に木が張ってあるんですけど、そこにもちょっとした幅があってその幅にほこりがたまる。
なるべくほこりがたまりにくい家の構造を、設計士さんも考えてくださってる。

大事なのは、医療的ケアが常につきまとってくる生活なので、いかに他の家事を楽にするかをテーマにして、食器洗いは食洗器に頼るとか、洗濯ものもなるべく、たたむ時間をなくする、家事にかける時間をなるべく少なくできるように、家電に頼れるものには頼っていける家にしてます。(笑)。

医療的ケア児の家族の語り

一軒家からフラットなマンションに引っ越した。病院で家の前の道路幅やマンションの階数など要件をまとめた書類をもらい助かった

なぜ引っ越しをしたかですが、当時住んでいたのが一軒家で、主人のお父さんお母さんと同居をしていたので、われわれの居住スペースは、常に2階3階で、呼吸器の子を連れて帰るということは、外出のたびに階段で上り下りをしなければいけない。
マンションに引っ越さないと危ないというのが、大きな一つの決め手でした。

あとは同居する祖父母がおりますので、毎日訪問看護さんが来る、ヘルパーさんが来るという状況に巻き込むのも難しいことが予想されましたので、思い切って、ここは引っ越しをしてというふうに入院中に、考えまして。

周りのママたちもみんな引っ越してます。お風呂に入れられないとか、近所の人たちの知らないところに引っ越したいとか、いろいろママたちの背景はあるんですけれども、ほとんどの方が引っ越しをされていて。

引っ越し先を見つけるフェーズに入ったときに、活躍してくださったのが、病院の在宅支援室のナースの方ですね。
その方が、一覧にしてペライチ(一枚紙)の資料を持ってきてくださったんですね。

高層マンションに住むときは何階まで。高さですね。
何しろ高層マンションの場合、高ければ高いほどエレベーターが来ないので、救急隊員の到着が遅れて、命を大きく左右するので、なるべく地面に近いところに住みなさいという(笑)、ガイドライン。

あとは救急車ですね。
救急車が通れる道幅2メートルはないと駄目、そこに救急車が横付けできるスペースがないと駄目という道幅であったり。

それから住んでる地域ですね。
23区内にしなさい。
医療保険の自己負担金に差が出るので、できれば23区内で探しなさい。

いろんな要件をまとめたペライチをくださったんですね。で、そこの中の点をつくような全てを満たす物件を(笑)探しまして、現在の住まいに落ち着きました(笑)。

――おうちを探すときのその家の中の条件って、どういうことがあったんですか。

廊下が少なくバリアフリーであること。
将来この子が家の中をバギーで移動したり、リフトとかあるとは思うんで、その点を想像すると、まず家の中に段差があってはいけない。

できる限り廊下は少ないほうがよい。90度に曲がることができないので、そういう点を注意して探したり、お風呂に入れられるスペースを確保するために、脱衣所であったり、お風呂が大きいおうちというのを探しました。