年別アーカイブ: 2024年

医療的ケア児の家族の語り

生後2週間頃自宅で息子のチックのような症状に気づき、てんかんの疑いで入院したが、次第に症状が悪化して入院は4カ月に及んだ

息子の病気に初めて気付いたのは生後2週間のときですね。ちょうど夏の暑い日だったので、チックのような症状が出ていたんですよ。
息子は帝王切開だったので、普通分娩よりも長く入院してたんですが、自宅にそのときは戻ってきていて、暑い日だなって思ってたら、顔がぴくぴくし始めて、あっ、チックかなと思って様子を見ていたんですけども。
一晩たっても良くならなかったので、次の日、病院に連れていったんですよね。そうしたら、そのまま入院になって。
確かに最初のときに点頭てんかんとか部分発作じゃないかっていう形だったので、最初、様子を見ながら入院生活をしていたんですけども、症状がどんどん悪くなっていって、脳波も測るたびに悪くなっていって、結局、4カ月間入院していました。
そのときの病名は、まだはっきりついてなかったような気がします。

気付いたときは、本当に軽いものだと思っていたんですよね。
暑かったっていうことを理由に、病院行っても、なんかそのまま帰れるんじゃないかとか、最悪入院して様子見たとしても1週間ぐらいで帰れるんじゃないかっていう甘い考えで入院してたんですけども。
それがてんかんだと気付き、てんかんの薬を飲んでも収まらなかったときには、妊娠中に太った体重がその病院の中で入院中にあっという間に元に戻って、なおかつ、まあ、ちょっと痩せるぐらいの感じですね。
ただ、そのときにありがたかったのは、私の母と義理の母は全く私を責めなかったんですよ。とにかく「大変だね」「大変だね」って言って、病室に食べ物を運んでくれて。
私はもう、とにかくどうなってるか分からないからずっと抱っこしてたんですよね。それもまたあれなんですけども、病室でテレビを見ながら息子を抱っこして。
で、テレビのワイドショーとか見ながら、何とかさんが何だってとか言って話して、そのまんま、抱っこしたまんま寝て。で、また起きてっていうのをずっと繰り返していて。

医療的ケア児の家族の語り

子宮破裂で出産時の記憶はない。目覚めた時には子どもは無事に生まれたと思っていた。起きた現実を知ったときは後悔しかなかった

出産のときに出産事故に遭いまして、それで脳に酸素がいかなくなって低酸素性虚血性脳症という診断名で、まあ、分かりやすく言うと脳性まひという診断です。

子宮が破裂したときも、実際何が起きたか分からなくて。これが破水なのかなって思っていて、もう全然分からなかったんですけど。
手術室に運ばれる前に私が意識がなくなってしまったので、目覚めたときにはベッドの上だったので、起きて、普通に生まれているだろうと思って、どうだった?って聞いたら、まあ、無事に生まれてたとは聞いたんですけど。
まあ、それで、こうなるとは私も思ってなかったので、あ、産まれたんだ、良かったなっていうことだけで安心してしまってて。
後々聞いたら、MRI検査とかして、大体1週間ぐらいで現実を、こうだったんだっていうのを気付いて、もうそのときは後悔しかなかったですね。

――そのときの思いっていうのを詳しく教えていただいていいですか。

はい。出産してすぐに、NICUのほうに赤ちゃんを見に行ったんですけど、もう本当に1日で人生が変わってしまったので、すごい幸せだった妊婦生活から、急にこう何か地獄に落とされたような。うん。
NICU見に行ったときに、もうすごいたくさん管がつながれていて、目も開けないし、見たこともないような赤ちゃんの状況っていうので、どうだったかな、受け入れられなくて。
もう本当だったらね、かわいいって思うはずだったんだろうなって、自分でも思ってたんですけど、会ったときにも何か、かわいいと思えなくて。うん。
で、そういうことを思ってしまう自分も、何で、ショックというか、自分にショックというか、もう母親失格だなっていう。
そうですね、会ったときは、もう、もうただ、ただ、自分を責める気持ちと後悔しかなかったです。はい。

医療的ケア児の家族の語り

切迫早産で入院中、別病院に搬送しようというタイミングで足が出てきてしまい、まだ23~24週で突然のことにパニックになった

息子が生まれたときは、2週間前から切迫早産で入院していて、その3日ぐらい前からほんとに危ない状況で、いつ、どこ(別の病院)に搬送されるか分かりませんという感じで。
その当日も、もう足が出てきてしまって、このまま搬送されますっていう状態だったのに、ほんとに出てきてしまって、あれよあれよとその病院で生まれちゃいました。

――3日前からというのは、足が出てきちゃう3日ぐらい前から、ちょっと怪しいというか、兆候が見られたっていうことですか。

そうですね。張りが結構強くなっていて、もうほんと、先生たちの間では、もういつ生まれるか分からないっていう感じで、ずっと「いつ搬送になるか分かりません」って言われてました。

――妊娠の経過っていうのは、いわゆる普通の順調っていう状態だったんですか。

そうですね。入院する直前までは普通に働いていて、来週、再来週ぐらいから旅行に行こうねっていう話をしていて、検診のときに、頸管長(けいかんちょう)が短くなってるから即入院って言われて入院しました。

――それは、妊娠何週ぐらいの?

22~23~24週です。

――ご自身の中で、どういうふうに思ったかとか覚えておられますか。

いや、突然のこと過ぎて、もうパニックになっていて、ちょっとあんまり覚えてないです、そのときの状況は。

――入院ていうか、手術みたいな状態だったんですか。

手術ではなく、えーと、ほんとは帝王切開だと思うんですけど、小さい子たちは。
(でも)出てきちゃったので、そのまま普通に産みました。

医療的ケア児の家族の語り

高血圧のため妊娠6カ月で入院中肝数値が上がり27週で出産。子どもは心血管手術、気管切開を経て1年後に呼吸器をつけて退院した

婦人科から産科に変わったときに、高血圧が分かって。そこから…妊娠4カ月目ぐらいに、もう入院したほうがいいってなって。でも、仕事とかもしてたんで、ちょっと時間置いて…妊娠6カ月で入院して。
入院してから、今度肝数値がすごい上がって。7カ月目、27週でもう出しましょうってなって…そうですね、27週とゼロ日で出産っていう形になりました。
生まれたときが816グラムで、ドクターに言われるとおり、「ここが足りないから挿管します」「点滴します」、で、未熟児で生まれた子によくある心臓の血管の手術、(動脈管)開存症(の手術)をして。
で、気管切開をして、呼吸器が常に必要になりっていう形で、NICUには1年間いました。
で、私がすごく希望して、1歳の誕生日に、退院させてもらったんですけど、結構病院側は反対で。
まだ13年前って、そこまで呼吸器をつけて帰る子自体もいなかったっていうのもあるし、注入が1日6回、4時間おきだったんで、「もうお母さん、絶対無理です」って言われてたんですけど。
何だろう、毎日NICUに通うのとかを考えたり、やっぱり家に帰ったほうが…笑顔も見れるとか、そういうのを聞いたりもしてたんで、もう連れて帰ろうと思って、連れて帰りましたね。
帰る前に、結構病院のほうが手を尽くしてくれて、1週間1回の訪看さんと、2週間に1回の往診の先生も来てもらえるようになって。ただ、後悔はしました(笑)。
4時間に1回の注入で、結構寝るときがなくって。今思えばすごいハードだったなって思います(笑)。

医療的ケア児の家族の語り

仮死状態で生まれて高度医療が必要となり、こどもだけが転院搬送となった。自分としては漠然とした状況のみなんとか把握できた

妊娠経過は全く異常がなくて、ただ、骨盤位っていう、いわゆる逆子だったので、今は逆子のお子さんって基本的に帝王切開で出産することになっているので、それだけですね。何も特にこう、おなかの子に影響は指摘されなくて、予定帝王切開という形のみでした。

――お子さんに疾患があるんじゃないかなっていうのは、どういうタイミングで。

生まれた病院で帝王切開をした後に、新生児仮死という状態になって蘇生が必要だったんですね。新生児が呼吸がちょっと不安定っていうのは、ままあることだったんですけれど。
それ以外にも、やっぱり呼吸の停止を繰り返したり、取り上げた産婦人科の先生や呼吸を見た小児科の先生方が、ちょっと重い病気がありそうだということで、いわゆる、NICUの整っている病院に新生児搬送されました。
私は帝王切開していた術後の体でしたので、転院先にも空きがなくて、帝王切開手術をした病院でそのまま寝てるだけだったんですけれど、その日のうちに、NICUに一緒に同伴した、主人と私の両親が、新生児科の先生から話を聞いて。
「分からないけれど大きな病気がありそうだ。で、予後も分からないけれど、まだとにかく何も分かりません。ただ、何かありそうです」っていうことのみ伝えられたという状態でした。
なので、生後0~1日目から普通の子ではないのかもしれないっていう、漠然としたことだけが分かるという状態でした。

医療的ケア児の家族の語り

予定帝王切開で生まれた子どもは呼吸をせず、NICUに運ばれていった。37週で生まれて体重もあり、何とかなると思っていた

帝王切開だったんですけれども、主人も立ち会いの帝王切開をしようとしていて、予定日まで何の問題もなく過ごし、さあ赤ちゃん生まれる、明日。もう誕生日、決まってますから、明日生まれると思ってこう前日もう、うれしくて眠れなくてですね。
なんかどきどきしながらこう誕生日を待って、朝、主治医の先生と写真なんか撮っちゃったりとかしてですね。楽しくこう出産を迎えていたんですけれども。
「赤ちゃん出てきましたよ」というふうに、先生のお声で、やっと会えると思っていたんですけれども、途端にですね、皆さん、周りの麻酔科の先生とか、ナースの皆さんとかの空気がガラッと変わりまして、子どもの泣き声がしなかったんですよね。
多分、先生、私からは見えないので、蘇生をされていたんだと思うんですけれども、そこで数秒だったのかな。だいぶ長く感じたんですが、子どもの声が疑問形というか「ほえー?」っていう疑問形でですね、聞こえてきて。
「ああ、生まれた、よかった、よかった」と、安堵(あんど)したのを覚えていたんですが、その後、やはり皆さんがかなりバタバタされていて「NICUにすぐ運んで」という指示で。
今まででしたら赤ちゃんの顔をこう見て、NICUだったり、赤ちゃんの処置っていうのが、上のお兄ちゃんではされていたんですけれども、もうそこでは全く子どもの姿は見えず、ゴロゴロゴロゴロっと運ばれていきまして。
その後、私は少し眠りについて、主人が先生からの説明を受けて。どうやら呼吸が乏しくて出ないらしいと。これから経過観察だからNICUに入ることになったというのを、私が麻酔がさめてからですね、聞きまして。
そこが、「あれ? おかしいな」ということのスタートでした。はい。

――そのときのお母さんの思いですとか、ご夫婦でどんなお話をされたんでしょうか。

そのときは全く情報が(なくて)、呼吸が出ないらしいということと、それから…それぐらいですね。それしか聞いていなかったので、分からなかったので。
体重も小さいわけでもないですし、ほぼ、37週かなんかで出産しておりますので、非常に状態もよくって、「ま、何とかなるでしょう」ということで。
「名前どうしようか」とか、そういうことを考えて、まだそのときはこんなことになるなんてということは、一つも思ってなかったですね。

医療的ケア児の家族の語り

高齢妊娠で羊水検査を勧められ、命の選択のためではなく万全の態勢で子どもを迎えるためと言われて受け、ダウン症が分かった

わが子の経過に気付いたときっていうのは、妊娠中からでした。といいますのは、わが子はダウン症候群で、私が高齢の妊娠だったものですから、羊水検査を勧められました。
でも、どんな状態でも産みたいから、羊水検査をするだけで流産のリスクがありますから、はじめ医師に断ったんです。
ですが、医師から命の選択のためじゃなくて、状態があらかじめ分かってれば、おなかのなかで育ててるのか、外に出しとくのか、それが分かるために羊水検査を(やる)。
できる時期ってのが限られてるから、今ならできるから、万全の態勢を取るためにやっときたいんですよって言われて、それで羊水検査を実施したら、ダウン症っていう結果が出ました。
その前の年に、18トリソミーの子を妊娠したけど、おなかの中で亡くなっちゃってたので、21(トリソミー=ダウン症のこと)の状態のほうが強いのかなと思って、本当に生まれてきてほしいって思いました。
それで、もう事前に21トリソミーって分かっていたので…、もう万全の態勢を取るために、ダウン症外来っていう外来があるんですけど、そこに自費で、妊娠中カウンセリングを受けに行きました。

医療的ケア児の家族の語り

18週で羊水検査を受け迅速検査の結果は陰性だったが、正式な結果で陽性が出たときには中絶できる時期を過ぎていた (音声のみ)

妊娠18週ぐらいで、胎児に異常があるかもしれないっていうことを指摘されて、羊水検査に進んでっていう形で、異常が分かりました。

――それは、誰からお聞きになったんですか。

医師ですね。病院の検診に、妊婦健診に行ったときの医師が、少し子どもがちっさいということで…、なんか先天的な異常があるんではないだろうかっていう疑いがあるということでした。

迅速検査*の結果は3日ぐらいで出るって言われて、それがいわゆる、染色体異常のダウン症とか、トリソミーの迅速検査の結果で。
いろんな染色体異常あるけど、その3つ(ダウン症・13トリソミー・18トリソミー)に該当しなければ何とかなるだろう的な、産婦人科医の意見だったので。
その3日の検査結果で、考えてみましょうって言われて、3日後に返ってきた検査結果は、全部陰性だったんですね。
中絶とかそういうことをする週が迫ってたので、医師も結構焦っていて、フルバンドの検査結果が返ってくる頃には、もう中絶はできない段階に入ってるっていう話で。
この3つが大丈夫なんだったら、まあ、大丈夫じゃないか。中絶まではしなくてもいいんじゃないかと思うみたいなことを言われて。
脳も少し小脳が小さいとか言われてたんですけど、まあ、小脳小さいぐらいやったら、何とかなるよみたいな、そんなことを言われた気がします。
で、1カ月後ぐらいに、フルバンドの検査結果が返ってきたときに、異常があって、そのときにはもうおろせない段階に入ってたので…、医師にとっても驚きっていうか、こんなことになるんかみたいな。
こちらとしても、その3つじゃなかったら大丈夫じゃないかって言われてたところもあったので、まさか……そんな結果になるなんてっていうところで、まあ、葛藤はありましたけど、もう産むしかないし。
そういう運命だったんだろうなっていうふうに受け入れて、出産まで過ごしてた気がします。
特に私は妊娠期間中に切迫早産になるとか、そんなこともそんなになく、元気に過ごせてたので、もうほんとに出産までは、普通の妊婦さんと変わらず過ごすっていう感じでしたね。
*羊水検査は結果が出るまでに2-3週間かかりますが、21番、18番、13番染色体などに限定して調べる迅速審査は1週間以内に結果がわかります。但し、診断を確定できる検査ではなく、あくまでも参考データとなります。

医療的ケア児の家族の語り

定期検診で異常が見つかりその日に帝王切開となった。生まれてすぐ医師は元気と言って顔を見せてくれたが、泣き声もあげなかった

34週の定期の妊婦健診のときに、エコーしたときに、ちょっといつもよりか時間が長いなーと思ってたら、どんどん病棟のほうまで、「そっちの機械のほうがよく分かりやすいから」と言われて案内されて行きました。
そのうちに先生から、「このままだったら、おなかの中で赤ちゃんが亡くなってしまうかもしれないから、今、これから手術をして、帝王切開で出してあげたほうがいい」ってことで、ほんとに思ってもなく、急に出産となりました。
でも、私はその日もすごい軽い気持ちだったので、いつもずっとつわりがひどかったので、その日はちょうど旦那と妊婦健診行っていました。
「朝も食べてないけん、検診が終わったらうどん食べて帰ろうなー」とすごい軽い感じで思ってたのに、「食べてないんだったらちょうどいいけん、そのまま手術行こう」みたいな感じで、オペ室のほうに連れて行かれました。

そこから、私は手術室入って、帝王切開して30分ぐらいもたたんうちに、次女は出てきたんですけど、先生は一瞬見せてくれて「元気やからね」って言ったけど、明らかにやっぱり泣き声はなく。
やっぱり長女のときとは違う感じで、「元気やからねー」と、もう連れてかれたら私はそれ以来会えず。
旦那とおばあちゃんは後から来て長女と下でおるときに、NICU室に行くところの入り口で、ちょっとすれ違ったみたいで、次女にアンビューバッグで呼吸をしながら、補助しながら行ってるのを見たってことで。

――そのときは、ああ、生まれたけど、はてなっていう…。

そうですね、やっぱり元気なのかは、すごく不安でしたね。「元気だよ」って言われたけど、やっぱり泣き声ひとつなかったので、いや、違うだろうなっていう違和感はすごくありました。

急に帝王切開することになったときに、やっぱり心臓に問題があるということを言われて、いざ、帝王切開して生んだ後は、心臓のほうよりも呼吸のほうの異常がすごくあって。
今、呼吸器が必要やし、肺のほうが膨らんでないから、しばらく治療が必要かなということを言われました。

医療的ケア児の家族の語り

20週ぐらいにエコーで心臓の異常が見つかったが、生まれてみないと詳細はわからないと聞いて頭が真っ白になった

最初に分かったのは(妊娠)20週ぐらいで、詳細に分かったのは多分(妊娠)25週とか(妊娠)26週ぐらいだったと思います。
病名としては、両大血管右室起始症、単心室症。左心室がない、右心室のみという単心室症になります。
最初に病院で分かったときは、胎児エコーだったので詳細が分からない。私のおなかを通して赤ちゃんの状態を見るので、完全には見えないんですね。
その状態でただ明らかに、心臓の部屋が1個足りないということが分かると。
血管の配置もちょっと通常とは違うだろうということが分かった、胎児エコーの段階で分かったので、多分、手術が必要でしょうと。
ただ、生まれてみないことには、詳細な手術の計画とかは立てられないので、今の時点ではちょっと詳細は分かりませんいうことでした。最初聞いたときは、ちょっと、頭が真っ白で、どうしようって。

ただ、実際、生まれてくるまでは、ほんと、どう転ぶか分からない。最悪の場合、染色体異常の可能性もあると。この疾患の子は、短命な赤ちゃんの、染色体異常の可能性があるんで、染色体検査をされますかというような質問もありました。
ただ、「今の段階で、染色体異常が分かったとしても、週数的に赤ちゃんをおろすことはできません。今ここで異常が判明したら、延命措置をするかしないかという判断が早期にできます。それを選ばれますか」というのは、病院のほうから言われました。
ただ、染色体検査自体にかなりリスクがあるという説明があったので、お母さんの体に多少傷が残りますっていう話もあったので。
それはしないという判断を私たちはして、生まれてくるのを待ちましょうということになりました。