診断時:57歳
インタビュー時:58歳(2008年4月)
甲信越地方在住。観光関連会社の役員と市議を兼任して多忙な日々を送っていた2006年末、激しい腰痛で整形外科を受診したところ、MRI検査でがんが疑われ、がんセンターに紹介を受けた。当時PSA値は1,079。病期はD2で、ホルモン療法と転移部への放射線照射を受け、腰痛や全身の倦怠感は軽快し、PSA値も1以下に下がった。その後上昇の兆しが見られたため、飲み薬をやめたところ、再びPSAが下がっている。
プロフィール詳細
K.Mさんは、若い頃からの持病だと思っていた腰痛のため、長年地元の整形外科にかかっていたが、それが2006年夏ごろから這うような激痛となり、同年末に有名整形外科病院を受診したところ、MRI検査の結果、がんセンターの泌尿器科を受診するよう紹介された。がんセンターで検査した際のPSA値は1,079で、生検、骨シンチを受け、病期はD2と診断された。
2007年1月に3週間入院して、その間にホルモン療法(カソデックスと注射)を開始し、くわえて腰骨の転移部への放射線照射を10回受けた。その後PSAの値は1.0未満に下がり、しばらく1~2程度で推移していたが、2007年末に再び6まで上昇。一旦カソデックスを中断して注射のみにしたところ、2008年4月現在は再びPSAが1.0未満に下がっている。
観光関連の会社役員、市議などを兼任して、ストレスの多い忙しい日々を送ってきたことが病気の原因の一つではないかと思っている。治療前は腰痛だけでなく、全身のだるさ、残尿感などがあったが、治療後は腰痛が10分の1くらいに軽減され、すっかり元気になって、趣味のゴルフも楽しめるようになっている。たばこや酒なども以前と同じように楽しんでおり、ほとんど健常者と同じ生活を送っている。
主治医から、なぜ手術ではなくホルモン投与と放射線照射なのかということや、今後の見通しや治療方針についての詳しい説明はなく、こちらからも聞きにくい雰囲気があるため、将来について漠然とした不安はあるが、今特に辛いと思うことはない。一番の生きがいである一人娘には「あと10年は死なないから」と伝えてある。
2007年1月に3週間入院して、その間にホルモン療法(カソデックスと注射)を開始し、くわえて腰骨の転移部への放射線照射を10回受けた。その後PSAの値は1.0未満に下がり、しばらく1~2程度で推移していたが、2007年末に再び6まで上昇。一旦カソデックスを中断して注射のみにしたところ、2008年4月現在は再びPSAが1.0未満に下がっている。
観光関連の会社役員、市議などを兼任して、ストレスの多い忙しい日々を送ってきたことが病気の原因の一つではないかと思っている。治療前は腰痛だけでなく、全身のだるさ、残尿感などがあったが、治療後は腰痛が10分の1くらいに軽減され、すっかり元気になって、趣味のゴルフも楽しめるようになっている。たばこや酒なども以前と同じように楽しんでおり、ほとんど健常者と同じ生活を送っている。
主治医から、なぜ手術ではなくホルモン投与と放射線照射なのかということや、今後の見通しや治療方針についての詳しい説明はなく、こちらからも聞きにくい雰囲気があるため、将来について漠然とした不安はあるが、今特に辛いと思うことはない。一番の生きがいである一人娘には「あと10年は死なないから」と伝えてある。
インタビュー04
- 残尿感があったが、疲れたときに出ていたので、誰でもなるものと考えていた
- 持病だと思っていた腰痛が、2~3年前から激痛になり、意を決して有名な整形外科にかかったら、「整形の分野じゃない」と言われた
- 生検が非常に苦しかった。細胞を採る、その一つ一つが痛かった。腹の中にピストルを撃たれるような感じ
- セカンド・オピニオンを受けてみたいけれど、どこがよいかわからないし二股かけていると感じる。今の先生も悪くないし、どこでも同じだと思う
- リュープリンとカソデックスの投与でいったん下がったPSA値が、再び6まで上がったが、カソデックスを中止したらまた下がった
- ホルモン療法は男性機能をシャットアウトするので、「かわいそうに」と言われるが、もともと淡泊なほうだし、欲することもないから不自由はない
- 診断後すぐ、痛みを取り除く目的で、腰骨に放射線治療を受けた。この放射線治療で根本からがんを取り払えたとは思っていない
- 地元のラジウム含有温泉で湯治をしたり、そこの水を汲んできて調理用の水に使ったりしている。実際に元気でいられるのはそれでかなと思う
- 自分が知らないうちに、妻ががん保険の加入手続きをしていた。ホルモン療法は高額なので入っていて良かったと思う
- 大学生で家を離れている娘には心配をかけないよう、ずっとがんであることを言わなかった。帰省したときに絶対大丈夫だからと前おきしてから話した
- 診断を妻に伝えたら、ひどくショックを受けていた。冷戦中だったので、がんになったのは自分が原因かもと考えたようだ。以後、会話が若干増えた
- 漫然と長生きするより病気と並行して生きることで、設計図が描ける。自分では10年大丈夫と思って後悔のない生き様を描きたい