診断時:60歳
インタビュー時:61歳(2008年8月)
診断時は首都圏で妻と二人暮らし。定期健診で精密検査となり07年7月に診断を受けた。ホルモン療法が唯一の治療と言われ様々な心労が重なりうつ状態に。定年後、再雇用制度で継続勤務予定だったが病気を理由に更新を拒否された。故郷九州に戻り信頼できる医師と出会い諦めていた放射線治療が可能と言われ08年2月から併用治療を受けた。将来転移再燃の不安はあるが現在は安定。知人の和尚さんとの対話に多くを学ぶ日々である。
プロフィール詳細
B.Jさんは診断を受けた当時、首都圏で公的機関の職員をしていた。大学を出て約40年、行け行けどんどんの姿勢で精力的に仕事に取り組み、2007年の春60歳の定年を迎えた。年金支給が始まる64歳までは再雇用、という職場の制度だったので、あと4年仕事を続けるつもりだった。ところが定期健康診断でPSA検査を4、5年ぶりに受けてみたところ、20を超えていて「おおごとだ」と総合病院を受診することになった。「がんかも」「いや、なんかの間違いじゃなかろうか」と思い悩みながら精密検査を受け、7月にがんと診断されてしまった。
治療法はホルモン療法しかないといわれた。薬だけでいいのか?と不安だった。父親を胃がんで亡くし、職場の人が前立腺がんで亡くなったのを耳にしていたこともあり、がんイコール死というイメージが強く頭にあった。また、慣れない新しい配属先の仕事もさばかなくてはならないし、病院にも通院しなければならないし、と完全にパニック状態だった。上司に相談したが、「あなただけ特別というわけにはいかない」との返答だった。そのうちにだんだん落ち込みが強くなった。「何とか、やらないかん」と奮い立たせようとしても「もう駄目だ」と、地獄に引きずり込まれるようで、自分はこんなに弱い人間だったのかと思った。目の前に死を突き付けられ、でも死にたくない、なんとか助かりたい、の繰り返しだった。しかし、当時かかっていた医療者には、こういう相談はとても出来そうな雰囲気はなかった。
そんなとき、友人に故郷である九州でのセカンドオピニオンを勧められた。その医師とはざっくばらんに話ができると感じた。「薬は効いてますよ」との説明に、そのうち効かなくなる、もう救いがないと嘆くと「医学はどんどん発達している。例え5年で効かなくなっても、また新しいのが出てきて5年、足して10年、それをもう一回繰り返せば15年。そうすれば平均寿命ですよ」と話してくれた。その言葉が一番の救いだった。
2007年の秋、九州に転勤となった。PSA値は順調に改善し、翌年2月には「根治も目指せるかも」と放射線治療を受けることができた。しかし、その直後の職場の契約は、病気を理由に更新を拒否され、経済的に強い不安を抱えることになった。その後PSA値は現在まで0.001と安定しており、医師には「大丈夫」と言われている。
今、精神的に大きな支えになっているのは、友人を通じて知り合った和尚さんとの対話である。和尚さんの教えを聞き、少しずつだが元の自分に戻ってきているようにも思う。周りへの感謝の気持ちを忘れずに、はしゃぎすぎるとバチがあたるから、と自分を戒めつつ、まだまだやりたいこともたくさんあるし「もっともっと生きたい」と希望を持ちながら、日々を過ごしている。
治療法はホルモン療法しかないといわれた。薬だけでいいのか?と不安だった。父親を胃がんで亡くし、職場の人が前立腺がんで亡くなったのを耳にしていたこともあり、がんイコール死というイメージが強く頭にあった。また、慣れない新しい配属先の仕事もさばかなくてはならないし、病院にも通院しなければならないし、と完全にパニック状態だった。上司に相談したが、「あなただけ特別というわけにはいかない」との返答だった。そのうちにだんだん落ち込みが強くなった。「何とか、やらないかん」と奮い立たせようとしても「もう駄目だ」と、地獄に引きずり込まれるようで、自分はこんなに弱い人間だったのかと思った。目の前に死を突き付けられ、でも死にたくない、なんとか助かりたい、の繰り返しだった。しかし、当時かかっていた医療者には、こういう相談はとても出来そうな雰囲気はなかった。
そんなとき、友人に故郷である九州でのセカンドオピニオンを勧められた。その医師とはざっくばらんに話ができると感じた。「薬は効いてますよ」との説明に、そのうち効かなくなる、もう救いがないと嘆くと「医学はどんどん発達している。例え5年で効かなくなっても、また新しいのが出てきて5年、足して10年、それをもう一回繰り返せば15年。そうすれば平均寿命ですよ」と話してくれた。その言葉が一番の救いだった。
2007年の秋、九州に転勤となった。PSA値は順調に改善し、翌年2月には「根治も目指せるかも」と放射線治療を受けることができた。しかし、その直後の職場の契約は、病気を理由に更新を拒否され、経済的に強い不安を抱えることになった。その後PSA値は現在まで0.001と安定しており、医師には「大丈夫」と言われている。
今、精神的に大きな支えになっているのは、友人を通じて知り合った和尚さんとの対話である。和尚さんの教えを聞き、少しずつだが元の自分に戻ってきているようにも思う。周りへの感謝の気持ちを忘れずに、はしゃぎすぎるとバチがあたるから、と自分を戒めつつ、まだまだやりたいこともたくさんあるし「もっともっと生きたい」と希望を持ちながら、日々を過ごしている。
インタビュー22
- 診断を受ける約2年前から、下腹がしぶる感じがあったり、お酒を飲んだ後、尿意を我慢できなくなることもあった
- 生検後の夜の痛みがひどかった。尿道カテーテルの挿入部がずきずき痛み、抜いた後も血尿が出たり、1週間ほど排尿痛がひどかった
- 閉所恐怖症なので、MRI検査の時に発狂するかもと思った。担当技師が、つらかったらボタンを押すよう笑顔で言ってくれ、安心して受けられた
- 診断を受け、地獄に引きずり込まれるようだった。がんなら死ぬ、でも死にたくない、その繰り返しでパニック状態だった
- 最初は服薬、それから注射の2本立てで、しばらくしのぐことになったが、父親が胃がんで外科手術を受けていて、薬だけで効くのか心配だった
- ホルモン療法は効かなくなると本で読み落ち込んだが、5年で効かなくなっても別の薬でまた5年と繰り返していけば平均寿命だといわれて救われた
- 最初の病院ではホルモン療法しかないと言われていた。放射線治療を受けられて、5年生存率が5割以上に上がったと希望が持てるようになった
- 診断後、気落ちのため全く仕事にならず雇用継続を断られてしまった。65歳前の年金受給を希望したが「身体が動くなら支給対象にならない」と言われてしまった
- 考えても解決するわけではないが、病気が長引くことで、今後お金をどう工面したらいのか、経済的な不安を感じる
- 治療への不安と通院、新しい仕事が重なりパニック状態に。上司に相談したものの、特別扱いという訳にはいかず、段々うつ状態になってしまった
- 診断を受けて落ち込む自分に妻は発破をかけたが、「がんばれ」と言われるときつかった。自分の落ち込みがうつってしまい、妻も参ってしまった
- 和尚様に「死にたくない」と訴えた。「今は底。頭の中でこねくり回さず、気持ちを預けて信じることで光が見える」とヒントをもらい、少しずつ元に戻ってきた