インタビュー時年齢:49歳(2019年4月)
障害の内容:視覚障害(全盲)
学校と専攻:大学・社会学部(1991年度入学)、大学院(1995年度入学)
関東地方在住の女性。小学校2年生まで普通学校に通い、その後中3まで盲学校。高校は普通学校に進学した。大学で一人暮らしを始め、盲導犬と一緒に暮らし始めた。大学院の時に、全盲学生で初めて東京都立の一般の高校で初めて教育実習を受けた。自分の母校の高校での実習はとても大変だったが、かけがえのない時間となった。現在は、全国的な当事者ネットワークである「全国障害学生支援センター」の事務局長をしている。
プロフィール詳細
美保(みほ・仮名)さんは、生まれつきの全盲。小3年から中3まで盲学校に通い、高校は普通校に進学した。高校生活をとても楽しんでいたので、本格的な受験勉強は卒業してから始めた。視覚障害があるため英語を学ぶか、もしくは教員になりたいと漠然と思って進学先を探し、点字受験ができる大学を受験して進学した。
美保さんの家は、美保さんが視覚障害だからと親が何かすることは一切なく、高校以降は、「点訳ボランティアとのお付き合いも含めて自分でできないと困るから、手は出さない」という方針だったが、そのおかげで、大学入学時には既にボランティアの方との関係性ができており、依頼もスムーズだった。大学の授業では、まずはしっかり出席して授業を受けて勉強し、どうしても教材が必要な場合は、自分で図書館の対面朗読や点訳を利用した。授業などでは個別に教員と話をして関係性を作り、小まめに質問をして自分のニーズを満たしており、特に日常生活で困ることはなかった。
美保さんは、祖父母と両親、4人きょうだいで育ち、早く家を出たいと思っており、大学2年生から一人暮らしを始めた。母親は最初心配したが、「障害児の母親」としての先輩である祖母(祖母の息子、美保さんの母の兄が全ろうだった)の後押しがあり、最終的には応援してくれた。料理も初めてで、音読ボランティアさんに勉強の資料の朗読の合間に料理本を読んでもらい、主婦の方が多かったこともあり、料理の方法も教えてもらって、とにかくできることをしていった。スープに胡椒をひと瓶分入れてしまったり、手続きをしておらず電気が止められるなど多くの失敗を経験したが、辛いと思ったことは一度もなく、失敗から一つ一つ生活の仕方を身に着けていった。一人暮らしは「自分の城」を持てたことがとても嬉しく、実家にも全く帰らなかった。美保さんはずっと「おばあちゃんっ子」で、祖母は、美保さんの一人暮らしについて自分で美保さんの母親を後押ししたわりには、その後心配して毎日電話をしてきていたのを覚えている。
大学キャンパスがとても広く、白杖をついての移動に体力の限界を感じて、大学3年生頃から盲導犬と一緒に暮らし始めた。それ以来、ずっと盲導犬ユーザー。盲導犬と暮らすことは大変だが、それでも、最初に犬と歩いた時の感動が大きく、一人で歩いていた頃よりも体の負担は大きく減って、自由に行動できるようになった。
美保さんは子どもの頃から、「先生」がいかに子どもにとって大きな影響があるかということを感じていたので、自分も教員になりたいと漠然と思い、大学院の時に母校の高校で実習を行った。授業では、手元に教科書は置かず、生徒に教科書を読んでもらった。また、予め重要なところを書いた模造紙を指導教官と一緒に作成して、それを生徒に貼ってもらい授業を進めた。生徒にはたくさん手伝ってもらったので、その度に「ありがとう」と伝えていたように思う。
教育実習中の授業は3年生に教えていたが、ホームルームのクラスは1年生を担当することになり、本気で合唱祭の指導をしたら、そのクラスが1年生の中で優勝してしまった。実習最終日には、そのクラスの生徒から、全員が美保さんへのメッセージを吹き込んだテープを渡された。当時はまだ制度が整っておらず、目が見えない自分は教職免許が取れるか分からないし、取れても教員に採用されるか分からないことを生徒にも伝えていたが、中には、「先生が教職を取れなくても、先生は自分たちの先生だ」と言ってくれる子もいた。実習中は、通勤から授業準備など何もかも大変で、体力的にも本当にギリギリだったが、その後教壇に立つことはなかったので、一生で一度きりの「先生」は、本当に最高の時間だったと思う。
大学院卒業後に結婚し、仲間とともに、全国的な当事者ネットワークである「全国障害学生支援センター」を立ち上げた。現在は、夫と2人の子ども、犬(盲導犬)と暮らしている。
美保さんの家は、美保さんが視覚障害だからと親が何かすることは一切なく、高校以降は、「点訳ボランティアとのお付き合いも含めて自分でできないと困るから、手は出さない」という方針だったが、そのおかげで、大学入学時には既にボランティアの方との関係性ができており、依頼もスムーズだった。大学の授業では、まずはしっかり出席して授業を受けて勉強し、どうしても教材が必要な場合は、自分で図書館の対面朗読や点訳を利用した。授業などでは個別に教員と話をして関係性を作り、小まめに質問をして自分のニーズを満たしており、特に日常生活で困ることはなかった。
美保さんは、祖父母と両親、4人きょうだいで育ち、早く家を出たいと思っており、大学2年生から一人暮らしを始めた。母親は最初心配したが、「障害児の母親」としての先輩である祖母(祖母の息子、美保さんの母の兄が全ろうだった)の後押しがあり、最終的には応援してくれた。料理も初めてで、音読ボランティアさんに勉強の資料の朗読の合間に料理本を読んでもらい、主婦の方が多かったこともあり、料理の方法も教えてもらって、とにかくできることをしていった。スープに胡椒をひと瓶分入れてしまったり、手続きをしておらず電気が止められるなど多くの失敗を経験したが、辛いと思ったことは一度もなく、失敗から一つ一つ生活の仕方を身に着けていった。一人暮らしは「自分の城」を持てたことがとても嬉しく、実家にも全く帰らなかった。美保さんはずっと「おばあちゃんっ子」で、祖母は、美保さんの一人暮らしについて自分で美保さんの母親を後押ししたわりには、その後心配して毎日電話をしてきていたのを覚えている。
大学キャンパスがとても広く、白杖をついての移動に体力の限界を感じて、大学3年生頃から盲導犬と一緒に暮らし始めた。それ以来、ずっと盲導犬ユーザー。盲導犬と暮らすことは大変だが、それでも、最初に犬と歩いた時の感動が大きく、一人で歩いていた頃よりも体の負担は大きく減って、自由に行動できるようになった。
美保さんは子どもの頃から、「先生」がいかに子どもにとって大きな影響があるかということを感じていたので、自分も教員になりたいと漠然と思い、大学院の時に母校の高校で実習を行った。授業では、手元に教科書は置かず、生徒に教科書を読んでもらった。また、予め重要なところを書いた模造紙を指導教官と一緒に作成して、それを生徒に貼ってもらい授業を進めた。生徒にはたくさん手伝ってもらったので、その度に「ありがとう」と伝えていたように思う。
教育実習中の授業は3年生に教えていたが、ホームルームのクラスは1年生を担当することになり、本気で合唱祭の指導をしたら、そのクラスが1年生の中で優勝してしまった。実習最終日には、そのクラスの生徒から、全員が美保さんへのメッセージを吹き込んだテープを渡された。当時はまだ制度が整っておらず、目が見えない自分は教職免許が取れるか分からないし、取れても教員に採用されるか分からないことを生徒にも伝えていたが、中には、「先生が教職を取れなくても、先生は自分たちの先生だ」と言ってくれる子もいた。実習中は、通勤から授業準備など何もかも大変で、体力的にも本当にギリギリだったが、その後教壇に立つことはなかったので、一生で一度きりの「先生」は、本当に最高の時間だったと思う。
大学院卒業後に結婚し、仲間とともに、全国的な当事者ネットワークである「全国障害学生支援センター」を立ち上げた。現在は、夫と2人の子ども、犬(盲導犬)と暮らしている。
インタビュー15
- 20年以上前の当時は、点字受験を認めているところしか受験せず、時間も“点字受験イコール1.5倍の時間延長”とほぼ決まっていたので、事前に大学側と交渉することはなかった
- 点字受験が可能かどうか1件1件電話で問い合わせて、受験できるところを受けた
- 自分の進学先はもともと既に視覚障害の方が在学されていて、自分の入学に際しても、大学側は四苦八苦しなかった
- 母校で行った教育実習では、ひとクラスを受け持って、合唱の指導も行った。最終日に生徒全員がメッセージを吹き込んだカセットテープをくれた
- 盲導犬の話を含めて自分の経験を語ったことがあり、これを聞いた人からの講師としての講演依頼をきっかけとして、いろいろな学校で有償で話をしたり授業をしたりするようになった
- 大学時代の友達の話から、障害のない人が、障害のある人に接することは大きな学びになることだと思った。だから、障害のある学生は堂々とキャンパスにいたらいいと思う
- 学校を動かすといった大がかりなことよりも、直接教員のところに行って質問をし、個別でやりとりをする方が心地よかったので、自分はそんなやりとりを続けていた
- 親の方針で高校生からボランティアとのやりとりは自分でやっていたので、大学でも困らなかった。ボランティアの人とは子どもや孫ほど年が離れており、大切にしてもらった
- 当時大学の教科書を読んでもらうのに地域の対面朗読のサービスを使っていたが、その最後の時間で、料理本のレシピや一人暮らし先に届く私信などを読んでもらっていた
- 大学で一人暮らしを始めたが、最初は電話や暖房器具もなくてそれを揃えるところから始めた。スープを作ろうと思ってコショウを一瓶分いれてしまったこともあった