スザンナ
事故当時:2002年
インタビュー時:2008年

建築家、同性のパートナーと生活している。1子あり。2002年10月のバリ島爆弾テロで弟のダンを失い、他の遺族とともに、バリ島爆弾テロ被害者組織を結成した。

語りの内容

弟は2002年10月12日にバリ島で爆弾テロにより亡くなりました。彼はその5週間前に結婚したばかりでした。バリ島には多くの友人とラグビーの試合のために滞在していたのです。彼の友人も、少なくとも12人が同時に亡くなりました。そこには、シンガポールでのスタッグパーテイー(注:結婚を控えた男性のために男性友人だけで行なわれるパーテイー)に集まった、弟の友人30人くらいが一緒にいたのです。そのうち少なくとも半分の方が同じように犠牲になり死亡しました。彼らは東南アジア各地からの外国人やイギリス人で、みなラグビーの試合のために、バリ島に集まったのです。弟と香港から来た友人たちは食事を終え、他の友人たちより早く勘定を済ませ、サリナイトクラブに行きました。弟は新婚の妻に何か飲みたいものがあるかと聞き、彼女は数人の友人たちとダンスフロアへ、弟は他の男性陣とバーカウンターに向かったのです。そこで爆発が起こりました。
弟は31 歳でした。素晴らしいスポーツマンで、いまだに彼より速く走れる人など見たことがありません。ケンブリッジ大学を卒業し、香港で弁護士をしていました。人生すべて上手くいっていて、キャリアも順調、結婚したばかり、これから楽しい充実した人生が待っていて、家族を築いて、父親になって、何もかも何もかもすべて上手くいっていたのに、彼は殺されてしまいました。私とパートナーはボンベイのタージホテルにいました。皮肉なことに爆弾のことを知ったのは、(翌朝)携帯の電源を入れてからです。たくさんのテキストメッセージに気づきました。バリ島とボンベイは時差が無いので、テロが起こった11時30分にはもう寝ていたんです。
その時、携帯の電源を入れた時に、別の世界に落ちてしまいました。携帯の電源を入れるまではいつもの生活だったのに。メッセージはこう残っていました。「家に電話を、家に電話を。爆弾テロ。バリ島でテロ、ダン、ダンが行方不明。」
急いで家に電話をしましたが、何の新しい情報もなくて。重傷を負った義理の妹は、爆発が起こった1時間以内に病院に運ばれました。病院に運ばれる前に、見知らぬ人から電話を借りて彼女の実家に電話をしてきたんです。彼女はひどい火傷を負い、見知らぬ親切な人が体についた火を消してくれ、彼女の周りでは人が死んでいったと。ひどい爆発があって、ダンが見つからない、一緒にいた友人もぜんぜん見つからない、自分はひどい火傷を負っていると。(情報は)それだけです。彼女は最初にバリ島の病院に運ばれ、その後オーストラリアで手当てを受けました。手短に言うと、私の弟は行方不明で、3週間後に安置所で遺体の身元が確認されるまで、死亡したものと推定されました。
それに……、体調は最悪でした。頻繁にトイレに行かなくてはならず、身体的ショックにおそわれて。新しい情報はないかと、両親にしょっちゅう電話をしたのですが、もちろん新しい知らせは無い。情報が無いということは、最悪の結果ということ。一縷の希望と絶望の間で揺れて苦しみました。

私は: です。

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