ドロシー
事件当時:61歳
インタビュー時:65歳
事件当時、公務員(現在は引退)。既婚、2子あり(1人が死亡)。2005年、廃棄物•リサイクル工場で働いていた息子のマークが、労災事故で死亡。ショックと怒り。カウンセリング、催眠療法、および友人達の支援をうけた。
語りの内容
息子は、(工場では)労働衛生安全管理が全く行き届いておらず、マネージャーからは安全性に問題がある作業を強いられていると言っていました。2005年4月11日は、実は私の誕生日でもあったのです。誕生日を祝ったのはあの日が最後。あの日、息子は、他に仕事を見つけたから、辞職届を出すんだと電話で話していました。それが最後で、もう二度とあの子と話すことが出来なくなりました。
4月12日、会社のマネージャーは廃棄物処理用の噴霧器4000個を受け取り、梱包機に積載し、それらの噴霧器を梱包するようにマークに指示しました。それにはブタンガスが充満されていました。当時、マークは建物内にただひとり。ものすごい爆発が起こり、火の塊が屋根の一部も窓も吹き飛ばしました。非常口は内側から鍵がかかっていて、その中で火に包まれてしまいました。マークは助けを求め叫びましたが、消火ホースも、消火用毛布も設置されていなく、現場の作業員は火災訓練など一度も受けたことがない。消火器がどこにあるのかさえも知らないような状態でした。消火器をどうにか見つけ出しても、中は空だったのです。つまりあの子は焼け死ぬような状態にとり残されたのです。
お気の毒なことでしたね。
火災が起きた時にも、救急車が着いた時にも、マークはまだ生きていました。実際自分で救急車に乗り込んだのです。最初に連絡を受けたのは嫁からでした。電話があり、「今すぐに着て。爆発があったの。マークは病院にいるけど、もう望みがないの。」と。すぐに夫と私は旅行かばんを車に投げ込み、5時間もかかって病院に着いた時には、もう真夜中でした。2階の集中治療室に連れて行かれました。若くて、とても感じのいい先生が、この先生だけが唯一私たちに親切にしてくれたのですけど、状況を説明してくれました。本当はマークを火傷の病棟に移動させるはずでしたが、救命できる可能性が全くないので、このまま生命維持装置をつけて、私たちが着くまであの子を穏やかに寝かせておこうということにしたそうです。それから私たちは病室に入りましたが、あの子は全く見分けがつかないほどまでに焼けただれていました。
ほんとに黒焦げで。面会が許されたのですが、いいえ、と言うより告別が許されました。息子に別れを告げていた時、隣の部屋からは台所の流しでカチャカチャと音が聞こえていました。真夜中に、誰かがひどく音を立ててお皿を洗っていたのです。なんだか鮮明に頭をよぎりました。私たちの息子の臨終の時に、いったい誰がお皿を洗おうだなんて。
私たちが病室を出た後、生命維持装置がはずされました。病室を出た私たちを例の女性が廊下で待っていて、布巾を手に言うのです。「これでようやく帰れるわね。誰か車に乗っていく?」後で知ったのですが、彼女が警察の家族連絡担当官だったのです。この時初めて家族連絡担当官という人たちと面識を交わしました。息子が死んだ時に遺憾とか残念とかの言葉も一切なく、ただ「これで家に帰れるわ。」と言うのです。そういう人たちなんだと思いました。
お皿を洗って、その人は何をしてたんでしょうか?
さあ、コーヒーか何か入れてたんでしょ。とにかくあの人は私たちが来るのを待っていたのです。その場には、私たち家族がいました。息子の親友もいました。彼は息子の結婚式の付添人だったのですが、奥さんと一緒に来ていて、マークの妻を支えてくれてました。
インタビュー28
- ドロシーは、廃棄物再生工場での大爆発により亡くなった息子のマークについて何が起きたのかを語った。事故を知った家族はマークに別れを告げるために病院へ向かった。
- ドロシーは息子が労働災害で死亡してからというもの、司法制度と政治家たちに幻滅していた。怒りを押し殺し続け、ときには生きる意義を見失うこともあった。
- ドロシーは、トラウマ的な死別で大切な人を亡くしたことのない人たちとのつきあいは難しいと感じている。まるで自分が「平行する別世界」にでも居るような感じだと語る。
- ドロシーの息子は業務上の事故で亡くなった。ドロシーは、自分と同じような場合、家族には良い弁護士と支援が必要であり、公正な裁定を得ることが必ずしも容易でない場合があると語っ