パット
事故当時:61歳
インタビュー時:62歳
訪問保健師(現在は引退)、離婚し、2子あり(1人は死亡)。 息子のマシューは、2007年に、バイク運転中に右折してきた車にはねられて死亡。検死官の評決では“事故”とされた。ショックを受けたが、家族、友人およびCruse Bereavement Careと呼ばれるチャリティー組織に支えられた。
語りの内容
今思い返すと、彼に会いにいったことは正しい決断でしたか。
もちろんです。彼に会うことができなかったら私はどうなっていたか分かりません。良かったと思います。私たちは彼に会わなければならなかったんです。会わなければいけなかった、でも私は自分についてしか言えませんが、これが息子を見る最後の機会だ、ということを実感することができませんでした。その時、もう少しはっきり考えられれば良かったな、と思います。そして、部屋から出た後、検死官の方とお話しました。そして、戻って息子を自分で見に行っても良いかその時聞きました。ようやく息子に触れたい、と思ったのです。
自由に音を立てて自分の思いを表現したい。そう思いましたが、のどがつまり、何の音も出てきませんでした。のどを開くことも、声を出すことも全くできない、そんな状態だったのです。声が出ない・・・。話すこともできず、表現したいことも出てきませんでした。何となく、こうしたいという願望はあったので、検死官の方にもう一度戻って息子に会っても良いか聞くと、気前良く会わせて下さいました。私の元主人は顔をしかめていました。行ってほしくなかったのでしょうね。私は彼に言いました。「あのね、私は・・・。」彼は私に「お前、取り乱すなよ。」と子どもにでも言いそうな表情を向けました。「あのね、私、ばかな真似はしないわ。ただ、あの子と一緒にもう一度居たいだけなの。」私はそう言いました。そして、また部屋へ戻りました。でもやっぱりルールだったのでしょうか。検死官の方は再び私と一緒に部屋へ戻りました。そして、小さなガラスのスクリーンの向こう側でずっと私のことを監視していました。だから、私は一度も自分の息子、マシューと二人きりになることは許されませんでした。それは今も後悔していますし、なぜ母親が実の子と二人きりになりたくてもなれないのか、理解できません。なぜ、私は実の息子を洗って、服を着させ、面倒を見てあげたりと、この世界に助けを必要として入ってきたときと同じように彼に接することが許されなかったのか理解できません。私はそうしたかったのです。多くの人は同じように思わないかもしれないし、できなかったかもしれない。でも、私にはできたんです。皆さんは私にとても優しくしてくださってとても感謝でした。でも、なぜ、団体、州、政府、もしくは警官たちが私の息子を私から引き離して、彼らが一番息子にとって良いと思うことをしたのか、分かりませんでした。そして、突然私は外部者となり、息子のために何も出来ませんでした。彼は誰か他の人の所有物であり、彼に会いに行くことさえも許可なしにはできなくなってしまいました。そして、彼に会いに行く時も監視されなければいけませんでした。
息子さんと二人きりになりたいと、お尋ねになられたのですか。
いいえ。声が出なかったんです。全くと言っていいほど、声が出なかったんです。
本当は、検死官の方を尊敬していますし、悪口は言いたくありません。彼女もきっと融通を利かせて下さったでしょうし、 頼んだらできる限りのことはしてくれたとは思います。でも、もっと理解を示してほしかったですね。特に子どもを産み、自分の中に宿し、愛し、一生世話をしてきた母親への理解にもっと努めてほしいですね。死の時点でその子どもがどんなに大人であったとしても、母親は子どもの面倒を見てあげたいものです。私の場合、看護婦という職を持ち、他の人々の死後のお手伝いをさせていただいていました。それなのに、私自身の息子が死んだ時にはなんの手伝いをすることも許されませんでした。突然、息子の死は事件となり、オペレーションとなってしまいました。コード名も付けられ、他人のために用いられる対象となり、私は何を知るにも聞いたり、彼に近づくこともできない存在となってしまったのです。このような時、私はもっと理解力、柔軟性、そして個人の資格、技能、その場に応じた要望、願いなどを把握する努力をして下さることをお願いしたいです。私にとって、このように何もできない状況に置かれたことはとても悲痛な経験でした。
インタビュー05
- パットは息子マシューの事故死を、自宅に訪れた2人の警察官から伝えられた。精神的に打ちのめされ、呆然としてほとんど言葉がでなかった
- パットは、遺体安置所で息子と2人きりになりたかったけれど、検死官が付き添っていたために、それも叶わず、息子を洗ってやることも着替えをさせることもできなかったことに納得でき
- パットは、英国の社会には嘆きの儀式がないことを残念に思っている。パットは、玄関のドアを黒い布で蔽い、泣き叫び、怒りを表したかったが、それは英国社会では受け入れられないだろうと感じた。
- パットは亡くなった息子マシューの思い出に、素敵な木製ベンチを湖の近くに置き、命日や誕生日など、折あるごとに、そこを訪れた。
- パットはマシューを亡くした後しばらくはショックで涙を流すことさえできなかったが、それは外傷死後にみられる典型的な反応であることをのちに知った。パットは経験豊かなカウンセラ
- パットは、泣くことが人には必要なのであり、そうすることによって感情を解き放つことができるのだと指摘している。最初は泣けなかったが、最近は毎日泣いている。