診断時:39歳
インタビュー時:45歳(2008年8月)
首都圏在住。2001年秋、乳房全体が岩のように硬くなっていることに気づいて、受診。右乳がんの診断を受け、術前化学療法の後、乳房切除術+リンパ節郭清術、続けてホルモン療法を開始。2004年1月に肝臓と皮膚に転移し、抗がん剤治療を開始。発症当時は家族と同居していたが、再発後、1人暮らしを始めた。仕事は術前までダンスの仕事と派遣で事務をしていた。
プロフィール詳細
10代からダンスをしていたMSさん(仮名)は、それまで特に胸のしこりに気づいたことはなかった。2001年秋、乳房全体が岩のように硬くなっていることに気づき、まさか乳がんとは思わなかったが、動くと痛みを感じるようになったため、大学病院の乳腺科に受診した。検査の結果、右乳がんであることがわかり、その場で手術を勧められた。すぐに気持ちの整理ができず、帰宅し母親に相談したところ、がんの専門病院に行くよう勧められた。そして、専門病院に受診すると、先に抗がん剤の治療をしてから手術をするよう提案されたので、乳房温存への希望を持って、術前化学療法に臨むことにした。
術前化学療法(アドリアマイシンとタキテソール3クール、ウィークリータキソール12クール)を行ったところ、腫瘍が触診でわからない状態になったため、温存ができなくなり、全摘して状態を確認しなければならなかった。自分としてはやるだけのことはやったのだからと納得して、乳房切除術+リンパ節郭清を受けた。結果は胸筋近くまでがんが飛び散った状態でリンパ節にも転移があった。何より、ダンスは自分にとって生きることそのものであったため、リンパ節を取って腕が上がりにくくなり踊れなくなることがとても辛かった。
その後は術前に開始したホルモン剤のアリミデックス内服を継続し、徐々に社会復帰をしていった。2004年1月に腫瘍マーカーが上昇し、肝転移と同側の皮膚転移が見つかったため、ホルモン療法として新たにリュープリン注射を追加。一時病状が落ち着いたが、2006年に入って再度腫瘍マーカーが上昇し、ホルモン薬をヒスロン内服に変えて経過をみた。2007年秋になって、徐々に上昇していった腫瘍マーカーと肝転移の増大に、とうとう抗がん剤に切り替える時期がきた。脱毛しない薬を希望し、ゼローダ内服が開始になった。副作用でひどい下痢が続き、何とか数ヶ月耐えたが、2008年3月に腫瘍マーカーが再上昇し、体力も低下していたため、一時休薬することにした。乳がんになってはじめての休薬期間は開放感を味わった。その間に受けた人間ドックで胃に転移が見つかった。次はナベルビンで治療を再開した。再発時、「生きたいように生きられるようお手伝いします」と主治医が言ってくれたように、体調やダンスの代わりに始めた三線ライブを優先するため、時に休薬して調整しながら、治療を続け、2008年8月現在に至っている。
発症当時は家族と同居していたが、再発後、一人暮らしを始めた。仕事は派遣社員で、通院のため平日に休まなくてはならず、就職先の選択や仕事上の調整が難しかった。働いていることは経済的な意味だけでなく、どこかで誰かの役に立っていると自分の励みにもなるので、なるべく仕事を続けたいと思う。病気自体は嫌なことだが、病気を通して成長できるし、楽器を奏でる楽しみや新たな人との出会いがあって人生の見方も広がった。病気は人生の一部だと思って生きていくことが大切だと思っている。
術前化学療法(アドリアマイシンとタキテソール3クール、ウィークリータキソール12クール)を行ったところ、腫瘍が触診でわからない状態になったため、温存ができなくなり、全摘して状態を確認しなければならなかった。自分としてはやるだけのことはやったのだからと納得して、乳房切除術+リンパ節郭清を受けた。結果は胸筋近くまでがんが飛び散った状態でリンパ節にも転移があった。何より、ダンスは自分にとって生きることそのものであったため、リンパ節を取って腕が上がりにくくなり踊れなくなることがとても辛かった。
その後は術前に開始したホルモン剤のアリミデックス内服を継続し、徐々に社会復帰をしていった。2004年1月に腫瘍マーカーが上昇し、肝転移と同側の皮膚転移が見つかったため、ホルモン療法として新たにリュープリン注射を追加。一時病状が落ち着いたが、2006年に入って再度腫瘍マーカーが上昇し、ホルモン薬をヒスロン内服に変えて経過をみた。2007年秋になって、徐々に上昇していった腫瘍マーカーと肝転移の増大に、とうとう抗がん剤に切り替える時期がきた。脱毛しない薬を希望し、ゼローダ内服が開始になった。副作用でひどい下痢が続き、何とか数ヶ月耐えたが、2008年3月に腫瘍マーカーが再上昇し、体力も低下していたため、一時休薬することにした。乳がんになってはじめての休薬期間は開放感を味わった。その間に受けた人間ドックで胃に転移が見つかった。次はナベルビンで治療を再開した。再発時、「生きたいように生きられるようお手伝いします」と主治医が言ってくれたように、体調やダンスの代わりに始めた三線ライブを優先するため、時に休薬して調整しながら、治療を続け、2008年8月現在に至っている。
発症当時は家族と同居していたが、再発後、一人暮らしを始めた。仕事は派遣社員で、通院のため平日に休まなくてはならず、就職先の選択や仕事上の調整が難しかった。働いていることは経済的な意味だけでなく、どこかで誰かの役に立っていると自分の励みにもなるので、なるべく仕事を続けたいと思う。病気自体は嫌なことだが、病気を通して成長できるし、楽器を奏でる楽しみや新たな人との出会いがあって人生の見方も広がった。病気は人生の一部だと思って生きていくことが大切だと思っている。
インタビュー28
- 10代から大好きなダンスの仕事をしてきた。踊れなくなってしまったら、明日からどうやって生きていけばいいんだろう?と病気で失うもののショックが大きかった(音声のみ)
- 腫瘍が大きいので温存は難しいと言われたが、術前抗がん剤治療に期待をかけたいと思った。自分一人で考えて誰にも相談せずに決めた(音声のみ)
- 最初の病院で、告知後すぐに「いつ切る?」と言われ、そのままそこで治療を受ける気にならず、家族に相談し、専門病院へ行った (音声のみ)
- 腫瘍マーカーが上昇し、腹部エコーで肝転移と、同時期に皮膚転移も見つかって、リュープリン注射が始まった (音声のみ)
- 「治ることは難しいが、生きたいように生きられるようお手伝いします」という告知で、これから先の人生を考えようと思えた。そして自分から余命について聞いた (音声のみ)
- 術前抗がん剤は何回で終わるという目標があったが、再発治療はずっと抜けたままになるのが嫌で、脱毛しない抗がん剤を選択した(音声のみ)
- 再発治療では脱毛しない抗がん剤を選んだが、自分の場合はその薬で下痢がひどかった。飲み薬だったので、点滴と違って副作用出現が予測できず、仕事中の突然の下痢に苦しんだ(音声のみ)
- やりたいことを優先して、副作用の強い抗がん剤は一時休薬して、三線ライブを行うことができた(音声のみ)
- 再再発の化学療法でも、飲み薬の間は派遣で月~金のフルタイムの仕事をしていたが、点滴の薬になると平日に休みを取らないといけないので、いったん仕事を辞めた(音声のみ)
- 保険で診断一時金が出たので、1年間働かないで治療に専念でき、気持ちを切り替えて新しい人生を考えることができた(音声のみ)
- 自分の体力を考えて仕事の量を減らしたりすると、治療費の負担もあって赤字になってしまう。検査結果ぐらいはメールで知らせるか、土曜診療にしてほしい(音声のみ)
- 再発したとき、母親に病状をわかってほしくて、診察に連れていった。自分から母親に話すと元気そうに見えて理解が難しかったようだが、医師から聞いて納得したと思う(音声のみ)