診断時:42歳
インタビュー時:45歳(2008年1月)
東海地方在住。2005年に乳がんと診断され、右乳房切除術とリンパ節郭清術、術後抗がん剤治療、放射線療法を受けた。会社員。治療中、治療後はしばらく休職。夫と大学生の子どもと暮らしていたが、治療中に夫と別居した。
プロフィール詳細
TTさん(仮名)が胸にしこりを感じたのは、2005年42歳のときだった。大丈夫だろうと思ってしばらく放っておいたが、半年くらい経って、妹に話すと検査を受けるよう勧められた。そこで、会社の定期健康診断の機会を利用し、マンモグラフィ検査を受けたところ、悪性である可能性が告げられた。細胞診の結果は、乳がんと診断された。予想外の診断を受け、何の知識もなかったので、動揺したが、インターネットや本から情報を得て、疑問は主治医に聞き、何とか治療を選択することができた。他の病気で診てもらっていた医師から、乳腺外科の主治医のよい評判を聞き、セカンドオピニオンは受けなかった。そして、家から近くてなじみのある総合病院の乳腺外科で、2005年7月に右乳房切除術とリンパ節郭清術を受けた。術後は抗がん剤治療と放射線療法を受けた。現在3ヶ月に一度の検診を受けながら経過観察中である。
治療中の副作用でつらかったのは吐き気、食欲不振、脱毛であった。精神的にもつらかったが、病院ではかつらなどの実質的なサポートも、メンタルサポートも、十分に受けることができなかったと感じている。
治療中、治療後に支えとなったのは友人であった。また、患者会への参加体験はないが、外来で知り合った乳がん患者同士で交流があり、一緒にかつらを買いに行ったりした。
フルタイムで仕事をしていたので、治療中、治療後はしばらく休職し、2006年5月仕事に復帰した。同じ会社だが、他部署に異動し、ゆっくり体を慣らしながら仕事を続けることができている。診断時、夫と大学生の子どもがいたが、治療中に自分から申し出て夫と別居し、その後離婚した。
現在は体によいものをできるだけ摂るよう、毎日笑うよう心がけて生活している。病気になって、家族のことやこれまでの生き方を見つめなおす機会が得られた。病気だからこそ、もっと違ういい生き方ができるとポジティブな気持ちで過ごしている。
治療後は会社内や友人・知人に対して、乳がんの啓蒙に取り組んでおり、今回、自分の体験を役立てたいと「がん患者の語りデータベースプロジェクト」への参加を希望した。
治療中の副作用でつらかったのは吐き気、食欲不振、脱毛であった。精神的にもつらかったが、病院ではかつらなどの実質的なサポートも、メンタルサポートも、十分に受けることができなかったと感じている。
治療中、治療後に支えとなったのは友人であった。また、患者会への参加体験はないが、外来で知り合った乳がん患者同士で交流があり、一緒にかつらを買いに行ったりした。
フルタイムで仕事をしていたので、治療中、治療後はしばらく休職し、2006年5月仕事に復帰した。同じ会社だが、他部署に異動し、ゆっくり体を慣らしながら仕事を続けることができている。診断時、夫と大学生の子どもがいたが、治療中に自分から申し出て夫と別居し、その後離婚した。
現在は体によいものをできるだけ摂るよう、毎日笑うよう心がけて生活している。病気になって、家族のことやこれまでの生き方を見つめなおす機会が得られた。病気だからこそ、もっと違ういい生き方ができるとポジティブな気持ちで過ごしている。
治療後は会社内や友人・知人に対して、乳がんの啓蒙に取り組んでおり、今回、自分の体験を役立てたいと「がん患者の語りデータベースプロジェクト」への参加を希望した。
インタビュー01
- 会社の婦人科検診の機会にマンモグラフィで異常が見つかった
- 医師より病理診断の結果を一人で聞いた。リンパ節に転移があったことや今後の治療について一旦は受け止めたが、一人になると「何で?私が」と思った
- 近くでマンモグラフィのある病院が3つくらいしかなく、その中からなじみのある病院を選んだ
- もう乳房がないということはわかっていたが、術後2日間は胸を見ることができなかった
- 頭髪も睫毛や眉毛も抜けてしまい、人に会いたくなかったが、友人が一緒にバンダナをつけて出かけようと誘ってくれたので、出かけることができた
- 1~2ヶ月で復帰するつもりで乳がんだと上司に伝えたが、術後の病理診断でリンパ節転移がわかったので、復帰を求められてもすぐには無理だということを改めて会社に伝えた
- 当初の予定より長引いて10ヶ月休職したが、復帰後1ヶ月半は半日勤務で徐々に慣らして、所属もストレスの少ない部署に替えてもらえたので、とてもありがたかった
- 夫もどう接したらいいかわからず葛藤していたと思うが、何か声をかけてほしかった。お互いの気持ちがすれ違い、別居することになった