診断時:32歳
インタビュー時:34歳(2008年7月)
東北地方在住。2005年秋、左乳がんが見つかり、乳房温存術+リンパ節郭清、術後抗がん剤、放射線療法、ホルモン療法を受けた。1年後に転移。骨転移にゾメタの点滴治療を開始、肝転移にラジオ波治療を行った。その後、抗がん剤治療も開始したが、自分の意思で抗がん剤を中止した。一人暮らしで看護師をしている。
プロフィール詳細
HEさん(仮名)は東北地方在住の34歳の女性で看護師をしている。若いころから乳腺線維症で乳がん検診を受けていた。しかし、2005年30歳になったばかりのとき、左乳房に痛みを感じ、受診。そのときは、痛みだけでしこりがなく、経過観察となった。半年後、しこりを発見し、受診。最初の病院では、良性という診断だったが、徐々にしこりが大きくなって坐薬を使うほどの痛みを感じ、乳房にえくぼができるようになったので、かかりつけの病院に受診した。そして再度、生検をしたところ、左乳がんと診断された。
検査結果を聞きに行った日は友人に付き添いを頼んだが、がんであると聞いて、ハンマーで頭を殴られたようなショックを受けた。それから1週間は泣いて過ごし、夜も眠れず、自分でうつになったと判断し、精神科に助けを求めた。がん体験のある精神科認定看護師*1の言葉かけに慰められ、抗うつ剤を処方された後は徐々に落ち着いていった。
手術は2005年の暮れで、乳房温存術+リンパ節郭清を受けた。リンパ節に転移があり、核異型度3であったため、術後抗がん剤を勧められた。看護師として患者さんに勧める側だったのが、自分がやる側になったら、恐怖を感じてやりたくなかった。しかし、同時期に入院手術を受けた乳がんの友達と励ましあって、受けることにし、FEC療法6クールを終了した。その後は放射線療法を5週間受けて、仕事に復帰し、徐々に以前の生活に戻っていった。
手術後、1年目の骨シンチで左足に骨転移と思われる異常が見つかった。また、骨の再検査を受けている過程で、たまたま肝転移が見つかった。骨転移に対してはゾメタの点滴を受けることになり、肝臓に4ヶ所あった腫瘍はラジオ波治療で焼き固めることにした。脱毛などの副作用が嫌でもう抗がん剤治療はしたくなかったが、複数の医師から勧められ、タキソールとゼローダを開始することになった。再発の治療を開始した後は、点滴をやるための血管確保が難しかったため、静脈ポートを挿入したが、拒絶反応が起きて入れ替えをしたり、入れ替え後に敗血症を起こして入院したり、やっと回復したところにタコにあたって食中毒を起こすなど、体力を消耗するような出来事が続いた。その頃より、過換気やパニック発作を起こすようになり、抗うつ剤の量も増えていった。
今後治療を継続していくかどうか、自問自答したところ、抗がん剤をやって具合が悪くなり戦う意欲も萎えてしまうより、自己治癒力を信じたいと思った。そして、医師はもう少し抗がん剤を継続するよう勧めたが、6クール終了したところで、抗がん剤治療をやめて経過観察することにし、ホルモン治療に切り替え、現在に至る。
診断を受けた当初より、付き合っている彼がいて、治療中の支えであった。脱毛したり、手術を受けても女性として扱ってくれたことがうれしかった。近く結婚を予定している。
*1精神科認定看護師とは「社団法人日本精神科看護技術協会の精神科認定看護師制度による資格」です。
検査結果を聞きに行った日は友人に付き添いを頼んだが、がんであると聞いて、ハンマーで頭を殴られたようなショックを受けた。それから1週間は泣いて過ごし、夜も眠れず、自分でうつになったと判断し、精神科に助けを求めた。がん体験のある精神科認定看護師*1の言葉かけに慰められ、抗うつ剤を処方された後は徐々に落ち着いていった。
手術は2005年の暮れで、乳房温存術+リンパ節郭清を受けた。リンパ節に転移があり、核異型度3であったため、術後抗がん剤を勧められた。看護師として患者さんに勧める側だったのが、自分がやる側になったら、恐怖を感じてやりたくなかった。しかし、同時期に入院手術を受けた乳がんの友達と励ましあって、受けることにし、FEC療法6クールを終了した。その後は放射線療法を5週間受けて、仕事に復帰し、徐々に以前の生活に戻っていった。
手術後、1年目の骨シンチで左足に骨転移と思われる異常が見つかった。また、骨の再検査を受けている過程で、たまたま肝転移が見つかった。骨転移に対してはゾメタの点滴を受けることになり、肝臓に4ヶ所あった腫瘍はラジオ波治療で焼き固めることにした。脱毛などの副作用が嫌でもう抗がん剤治療はしたくなかったが、複数の医師から勧められ、タキソールとゼローダを開始することになった。再発の治療を開始した後は、点滴をやるための血管確保が難しかったため、静脈ポートを挿入したが、拒絶反応が起きて入れ替えをしたり、入れ替え後に敗血症を起こして入院したり、やっと回復したところにタコにあたって食中毒を起こすなど、体力を消耗するような出来事が続いた。その頃より、過換気やパニック発作を起こすようになり、抗うつ剤の量も増えていった。
今後治療を継続していくかどうか、自問自答したところ、抗がん剤をやって具合が悪くなり戦う意欲も萎えてしまうより、自己治癒力を信じたいと思った。そして、医師はもう少し抗がん剤を継続するよう勧めたが、6クール終了したところで、抗がん剤治療をやめて経過観察することにし、ホルモン治療に切り替え、現在に至る。
診断を受けた当初より、付き合っている彼がいて、治療中の支えであった。脱毛したり、手術を受けても女性として扱ってくれたことがうれしかった。近く結婚を予定している。
*1精神科認定看護師とは「社団法人日本精神科看護技術協会の精神科認定看護師制度による資格」です。
インタビュー19
- クリニックは受診しやすいし、待たされないし、親身になってくれるところがいい。ただ、再発後は検査結果がすぐに出ないということもあり、他の病院に移ることにした
- 手術直後は血圧計、点滴などいろいろなものがついているので身動きが取れないのがつらく、地獄の一夜とはこのことかと思った
- 術後間もなくは腕が30度くらいしか上がらなかったが、リハビリをして2週間ほどで耳につくまで上がるようになった
- 途中でつらくてやめたいと思ったが、最後の抗がん剤が終わって退院した日、桜が咲いている中、お蕎麦を食べに行けた。生きている幸せを感じて感動した
- 毎日車を運転して放射線治療を受けに通うのが苦痛で、副作用のやけどや胸につけられた照射位置の印(マーキング)も気になり、うつっぽくなった時期があった
- CTで肝臓に影があり、MRI検査を受けたところ、悪性の可能性があると言われ、なぜ肝転移・・・と泣き崩れてしまった。母や友人の励ましで生きる希望が湧いて落ち着いた
- つらい思いをして抗がん剤治療をしているのと、やりたいことをやって過ごすのと、同じ時間でも全然違うと気づいて、この先どうするか考えた(次のクリップに続く)
- 副作用で気持ちが萎えて、闘う意欲がなくなるのは嫌なので、抗がん剤治療を一旦止める決意をした
- 左足に骨転移が見つかり、骨折したかと思うほど痛みがあり、放射線治療を行ったところ、治療が始まって3日ほどで痛みが楽になった
- 8ヶ月の休職後、看護の仕事に復帰して、半日勤務から始めたが、2ヶ月後には3交代勤務に就いていた。体力的にきつかったが、仕事に出ると「できません」とは言えなかった
- 自分としては髪の毛が抜けてしまい、女としてすごく嫌だったが、彼は変わらず女性として扱ってくれた
- 胸の傷や脱毛や外見の変化はあるが、なるべく女性らしい格好をしてきた。彼も女性として扱い、性行為時も変わらず普通に接してくれた