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診断時:48歳
インタビュー時:51歳(2009年3月)
首都圏在住。2005年6月に左乳がんと診断され、8月に皮膚温存乳房切除術、リンパ節郭清、広背筋皮弁による同時乳房再建術を受けた。乳がんと分かって、手術は同時再建と決めて、病院を転院した。術後抗がん剤治療後、ホルモン療法を開始。1年後に乳頭形成術を受けた。 夫と2人暮らし。フルタイムで仕事をしていたが、術後3年半ほどで退職した。
語りの内容
ただ、そのお医者さんに言われたのが、私の場合は、その中心部の浅い部分にできていて、ちょうど山の頂上の近くにできているんで、部分的にくり抜く、温存で部分的にくり抜けばいいっていうふうに言っても、砂場に山を作って、高い部分をくり抜いたら形が崩れちゃうっていうようなことを例えられたんですが、「とにかく、形は、大きく崩れます」っていうふうにはっきり言われました。で、「形を崩さずにおくのは無理です」っていう言い方をされて、で、私はとにかく、その形が崩れるっていうのは、もう絶対に嫌だっていうことしか頭になくて。もうその当時は、それ以外は何も頭になくて。それで、その形を崩したくないっていうことだけを思っていたので、いろいろと調べて、あの、全摘するんだったら、同時再建、乳房再建っていうのがあるので、それも、その、二期的再建ではなくて、手術と同時に再建をするっていう方法で、胸はとにかく、形は残すということで先生にお願いしました。
そしたら、そこの病院では、そのときに、その当時は、その同時再建はやってなかったんですね。で、そこの病院では、全摘なら全摘手術をして、2~3年経って、安全だって確認した…してから、形成外科の先生を紹介して再建するっていうこともありますよっていうような病院で、同時再建ということは、やってなかったので、同時再建をやってくださる病院を紹介していただいて、で、転院しました。転院先で、検査とか何かをして、手術に臨んだ形になります。
インタビュー47
- 母親が乳がんだったので、40歳になる前から検診を受けていたが、結局ソーセージのような塊りに自分で気づいた。検診10ヶ月後だった(音声のみ)
- 検診を受けてはいたが、人任せだったと思う。検診は重要だが、それで安心せず、自分で触って調べたり、おかしいと思ったら相談するなどしてほしい(音声のみ)
- 胸を失いたくない一心で、ラジオ波や超音波でがんを焼き切る方法などを調べたが、まだ実験段階であり、お金もかかるので、やはり手術しかないということだった(音声のみ)
- 中心部の浅い部分にできていたので、くり抜くとどうしても形は崩れてしまう。それなら手術と同時に再建する方法を取りたいと思い、病院を紹介してもらった(音声のみ)
- 再建には人工物でなくて自分の組織を使いたかった。ヘルニアのリスクや腹筋が一部なくなること、背中の方が傷が見えにくい等の理由で背中の組織を使うことにした(音声のみ)
- 広背筋皮弁法で同時再建したので、手術時間は9時間かかった。乳頭、乳輪はなかったが、上から見た左胸の感じは前とそんなに変わらなかった(音声のみ)
- 広背筋皮弁法による再建術のあと、ウエスト辺りに痺れるような違和感を感じた。最初は椅子に座れず、腰回りの筋肉をいろいろ使っていることに改めて気づいた(音声のみ)
- 同時再建術の1年後に乳頭形成術を受けた。いろいろな選択肢がある中、これ以上、別の場所を傷つけて痛いのが嫌で、今ある皮膚を縫い縮めて乳頭を作った(音声のみ)
- 乳頭形成術を受けて、3ヶ月してから、入れ墨で乳頭・乳輪に色を付けた。個人輸入の形で染料と針をアメリカから取り寄せた(音声のみ)
- 広背筋皮弁法で再建した。触ると腰の後ろ側が少しえぐれているような気がする。多少、体の左右のバランスが悪かったり、背中の傷がひきつれた感じもある(音声のみ)
- 広背筋皮弁法による同時再建術と乳頭・乳輪形成術を受けた。乳頭・乳輪に色を入れる染料と針、入れ墨を入れる手術代金以外のすべてに健康保険が利いた(音声のみ)
- タキソテールで手足の指やかかとが赤く腫れあがって、触るとぴりっと痛いのが1-2日続き、そのうち白くなり、因幡の白ウサギのように皮が剥けた(音声のみ)
- 職場の上司に病気を伝えると、戦力にならないと言われてしまった。職場異動となり、人間関係に悩んでうつ状態となって、結局退職することにした(音声のみ)