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診断時:62歳
インタビュー時:65歳(2008年6月)
中国地方在住。2005年に自分でしこりを発見。自宅近くの総合病院に受診し、左乳がんと診断された。術前化学療法を行い、病期が2期から1期になり、乳房温存術+センチネルリンパ節生検を受けた。 夫と2人暮らしの主婦。息子2人は自立して遠方に住んでいる。
語りの内容
私は告知を受けた段階で、主人と二人で取り決めをしたことがあるんです。乳がんになったものの、私、息子が二人いるんですけども、関東のほうに、離れた所に所帯を持ってまして、年に2回ぐらいしかこの田舎には帰ってこないんで、私が乳がんになったって言ったら、すごいショックを受けると思ったんですね。それで、私でも、乳がんに対する知識は、ほとんど皆無といっていいほどないものですから、「がん」っていうとやっぱり「死」、もう駄目なんだっていうふうなことも感じてましたんで。息子たちにそういうこと言うことによって、息子たちがどんなに心配するだろうと思ったもんですから、主人と、息子たちには話さないでおこうと。私は多分、死なないと思ったんですね。先生のご説明や先生のお話を聞いたときに、この先生、信頼できそうだとやっぱ思ったものですから。でも、人間は、一度は死にますよね。100%死亡率ですよね(笑)。ですけども、そんなにこの手術で死ぬことはないとは思ったんですね。だから、息子たちには言わないでおこうと。
8月でしたので、息子たちが東京からお盆に帰ってくることになったんですね。「帰ってこなければいいのにな…」(笑)と正直思ったんですね。この毛のない頭と、慣れないウィッグをしている私の姿を見て、まあ多少、副作用もありましたので、吐いたりもしてたんで、多少、体調の悪い日もあったりして。抗がん剤治療して2~3日すると体調がちょっとしんどくなったりしてたんですね。で、それもまあ、慣れてくるとサイクルが分かるもんですから、日常生活にはさほど支障はなかったんですけど。でも、息子たちや孫が帰ってきたときに、ばあちゃんがしんどそうにしてたらちょっと困るなって思って、帰る日がちょうど抗がん剤の治療日と重ならなければいいなぁと祈るような気持ちで計算をしておりましたら、ちょうど外れてたので、ほっといたしましてね。
で、帰ってきたときにはウィッグを付けて。息子が言いました。「どうしたの、母さん、その頭は」「ええじゃろ? だんだん毛が薄うなってなあ」ということでね、大笑いしながら。孫がそのかつらを取ったり付けたりして遊んでいましたけれども、まあ、とにかく知れなくって、息子たちはお盆に帰省をして、また東京に戻っていきました。
インタビュー13
- サラリーマンの妻時代は検診を受けていたが、異常がなく安心していた (音声のみ)
- 診断がつく前に、体験者から話を聞く機会があり、がんになった以上は前向きに治療しようと思ったが、医師から渡された乳がんのパンフレットはすぐには見られなかった(音声のみ)
- 医師がよく説明してくれるが、聞き忘れるときもある。それを看護師が丁寧に補ってくれるので、安心。この病院を選んでよかったと思う(音声のみ)
- 術後は吐き気もなく、翌日には患部の痛みもなく、触れてみると何がしかふくらみも残っていて、ほっとした。その後も順調に快復して術後5日目には退院できた(音声のみ)
- 術前抗がん剤の治療中、しこりが熱くなるような反応を感じることがあった。「小さくなーれ」としこりに話しかけていた(音声のみ)
- 抗がん剤の副作用で雪焼けをしたように皮膚が赤黒くなってしまったので、ファンデーションの色を濃い目に変えた(音声のみ)
- 抗がん剤の副作用でだるくて家事が進まないことがストレスだったが、ある時考え方を変えて、できないことは甘えてしまおうと思ったら、気が楽になった(音声のみ)
- 抗がん剤をして3週間目ではらはらと脱毛が始まった。夫が「あんたはまた生えるじゃん」と和ませてくれ、泣いたり笑ったりしながら過ごした(音声のみ)
- 傷についてはタブーのような気がして話題にしないが、抗がん剤で髪が抜けたときのことや闘病の様子を詠んだ短歌で、夫の自分への思いを知ることができた(音声のみ)
- 息子たちがショックを受けると思い、病気のことは言わず、夫と2人で闘病することにした。抗がん剤治療中に息子が里帰りしたときも明るく振る舞い、気付かれなかった(音声のみ)
- 近親者にも、近所の人たちにも病気のことは言っていなかったので、グラウンドゴルフも都合が悪いと休んでばかりはいられず、術後2週間で復帰した(音声のみ)