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診断時:46歳
インタビュー時:49歳(2008年6月)
九州地方在住。2004年、右乳がんと診断され、術前化学療法、乳房切除術+リンパ節郭清、術後別の抗がん剤による化学療法を行った。現在、ホルモン療法中。 自分の両親と夫、小学生の子ども2人の6人家族。仕事は団体職員としてフルタイムで続けている。
語りの内容
子どもがまだ小さくて、当時下の子がいくつだったのかな? 1年生、いや、どうでしったっけ? えーと2年生、かな。2年生の終わりぐらいだったんですね。それまで一緒にお風呂とかへ入ってたのに、もう入れなくなるなっていうのはありましたね。まあ自分で、「お母さんのおっぱいもうなくなったから、ほらこんなふうになくなったのよ」って言って見せることができて、「一緒にお風呂に入ろう」っていうようなことができればですね、自分がそういふうにすることができたらいいんでしょうけど、やっぱり子どもにショックを与えたくないし、どう思うかなっていうので、それっきり、一緒にお風呂に入ることもなくなったので、あの本当はね、もう少しスキンシップをする時間が下の子とはあったほうが良かった、欲しかったなっていうふうに思いますね。お兄ちゃんのほうはあのー、年が4つ離れていてお兄ちゃんはもう6年生になっていたので、でもその頃まで一緒にお風呂とか入っていたんですよね。で、子どもたちにも、一緒にお風呂に入っているときに私言ったんですよ。逆に私のほうから子どもに告知するような感じでですね。「手術して胸をね、切り取らないといけないから」とか言ったら、「へー」とかって言って。ことの重大さがわかってないから、「えー、それ乳がん?」とか普通に言うんですよね。「うん、まあそう」とか言うと、「ふーん」とか言ってるんですね。で、その前にあの、カツラになってても、乳がんだからカツラになっているということが結びついていなくて、子どもたちの中では。今でもなんか思い出したように、「あのときお母さんはカツラにしたっちゃもんね」…したっちゃもんねってこちらのほうでは言うんですけど、「あのときはカツラだったもんね」、みたいなことを言うんですよね。「病気だからカツラだった」、じゃなくて、「あのとき坊主にしたもんね」って感じなんですよね、子どもとしては。いやあ、坊主にしたわけではないんだけどって思って(笑)。何故そういう坊主になったのかっていうのが理解できてなかったんですよね。まあそれは良かったのかなと思いますけど。結果的に「お母さんが病気で髪の毛が抜けて、ぼくのお母さんどうなっちゃうんだろう」とかっていうふうに、変に心配しながら学校に通うよりかは、能天気になんか何も気にしてないっていうほうがですね、助かったかなって思うんですよね。
インタビュー18
- 年老いた両親に心配かけたくなかったし、がんという宣告を下されるのが怖かった(音声のみ)
- 乳房切除後、初めは風呂場の鏡に映る自分の姿をまともに見られなかった (音声のみ)
- 抗がん剤で髪が抜け、かつらで仕事に行っていた。同じ課の人たちにはかつらや病気のことを話していたが、周囲は気を遣ったり、心配したりしているだろうと思った(音声のみ)
- 髪が生えてきたときは嬉しかった。術前と術後に抗がん剤治療をしたので、1年半くらいかつらを使っていて、外すタイミングに迷った(音声のみ)
- 「からだにいいらしいから」と知人がくれたノニという健康食品を、その気持ちがありがたいので飲んでいるが、一番の基本は医師が出す薬だと思っている(音声のみ)
- 何を食べると乳がんになりやすいといった話も聞かないし、ストレスが一番いけないと言われるが、何がストレスになるのかわからないので、予防は難しいと思う(音声のみ)
- 治療開始が決まった段階で上司に話をし、仕事をしながら術前抗がん剤治療を受けた。休職期間に入るまでに間があったので引き継ぎがうまくいった(音声のみ)
- 乳房切除後、今でも鏡で自分の傷を見るのは嫌で、治療でいろいろなからだの変化が生じた自分を人間じゃないみたいだ、人造人間になったみたいだと思ったこともあった(音声のみ)
- 同居していたにもかかわらず、両親が悲しむことを思うと、病気のことをいつ言おうかと思い悩んだ(音声のみ)
- 主治医に説明を聞きに行くとき、夫が酒臭い状態で、先生に悪いなと思ったが、後で考えるとお酒で気を紛らわしていたのかもしれない(音声のみ)
- 手術を機会に下の子と入浴しなくなったが、もう少しスキンシップしたかった。小学生高学年の上の子には「乳がん」と言ったが、重大なこととは思っていなかったようだ(音声のみ)