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診断時:44歳
インタビュー時:49歳(2008年7月)
首都圏在住。2003年春、左乳がんで、左乳房部分切除術(1/4)+腋窩リンパ節郭清、術後は放射線療法、化学療法、ホルモン療法を行った。5年目の現在もホルモン療法中。 夫と姑と3人暮らしで子どもはいない。発症当時は指圧治療院に勤務。一旦退職後、現在は栄養士としてパート勤務をしている。
語りの内容
よく、がん友達としゃべるんですけど、「やっぱり普段は忘れているけれども、いつ再発するかどうかっていうことはいっつも頭にあるよね。でも、その不安は家族にはなかなか言えないよね」って、やっぱり変な心配掛けるじゃないですか。「本人は絶対まだ再発じゃないっていうのが分かっているからいいけれども、家族は不安になるよね。本当に、話す相手がいて良かったね」ってお互いによく言うんですけれど。
ただ、しゃべらない。私は本当に最初のうち心配掛けたくないっていうことで、最初の反応がすごい落ち込んでいたので、あんまり言えないなあって思ってたので、よっぽどのことじゃないと言わなかったんですよね。そうしたときに、逆にその知り合いの人が、まあ、要するにがん患者の家族の方としゃべってたときに、「でもね」って、「実はいっつもちょっとしたことでも、小出しに言っててもらったほうが家族は楽なんだよ」って言われたので。「え、何で?」って言ったときに、「全然平気だと思ってたのにね、突然、再発だよとか、すごい頭が痛いんだとか、症状の重たくなってから言われると家族はびっくりするから、できれば小出しに何か最近ね、目がかすむとか、ちょっと腰が痛いんだけどとか、起きづらいんだけどとか、だるいんだけどっていうことをね、ちょこちょこ言ってもらったほうが、家族としては、ん?って気にできるから、できるだけ、自分で、いつもと違うと思うことは言ったほうがいいよ」と言われてからは、本当に言うようになりました。
やっぱりそうすると、家族も、ああ、今ちょっと調子悪いんだなとか、そういうのが分かってくれて、寝ててもあんまり気にしないでいてくれるみたいで。そういうところって、ああ、まあ患者じゃなく家族からの話も聞けたっていうことはすごい私は良かったなあって思いましたね。
インタビュー23
- 以前は検診を受けていたが、忙しくてしばらく行っていなかった
- いくつかの選択肢から近さだけを理由に病院を選んでしまい、夫が心配したが、結果は医師との相性もよく、恵まれたと思っている
- あとで後悔したくなかったので、治療についてやるだけのことはやってみようと思った
- 本当は10日間で退院できるはずだったが、元気なのにドレーンから出るリンパ液の量が減らないので退院が延びた
- 腕の付け根や傷口の周辺に突っ張り感があったが、数ヶ月したら慣れた。ただ、5年経った今も気圧の関係で傷口が重たく痛むときがある
- ただのリハビリではつまらないと思ったので、フラメンコを習い始めたり、わざと高いところに食器を置いたりして工夫をした
- 術後しばらくの間、温かいものを飲むと手術した側だけに温かさが伝わるということがあったが、ネットで調べたら同じような経験をしている人がいた
- 体力が落ちて治療できなくなると思い、抗がん剤治療中は食べられるときに食べられるものを少しずつでも食べるようにし、できるだけカロリーの摂れるものを選ぶようにした
- 便秘で痔になりつらかった。抗がん剤の副作用とは知らず、先生に言わなかったが、下剤を処方してもらえばよかった
- 肺などの臓器に放射線が当たらないよう、照射位置をきめるのに、手術した側の腕を上げた状態で身動きできずに40~50分かかった
- ホルモン療法開始後2週間目くらいから、頭痛や関節痛や手のむくみなどいろんな症状が出たが、次第に副作用は減っていった
- ホルモン療法の副作用で、体がザワザワする感じで落着かなくなって、人に突っ掛かりそうな気分になった
- 夫がいろいろ調べてくれて、免疫力を高めるのは「笑い」だということで、一生懸命笑わせようとするので、おかげで自分からも冗談を言うようになった
- 高額療養費の手続きを自分でしなければいけないと聞き、どこに行けばいいかもわからなかったので、病院の相談室で聞いて社会保険事務所に行った
- 自分の両親には、耳が遠いこともあり、電話でがんになったことだけ伝えて、無事1年過ぎて手紙を書いた
- 再発の不安は家族に心配をかけるので言えないと思っていたが、小出しに言ってもらった方が楽だという家族の人の話を聞けてよかった
- 自分ががんになった意味を考えると、無駄にしたくないと思い、抗がん剤治療中も帽子でクラス会に出かけ、「乳がんのことは私に聞いて」と誰にでも病気のことを話した