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診断時:31歳
インタビュー時:40歳(2018年10月)
東海地方在住。右乳がんで乳房温存術後、放射線療法とホルモン療法を行ったが、2013年局所再発し、乳房切除術と乳房再建術を行った。その時、遺伝子検査を受け、遺伝性乳がん卵巣がん症候群とわかった。2016年肝臓に多発転移が見つかる。現在は薬物治療と緩和治療を並行しながら、若年性のがん患者が集う場を運営。乳がん診断前より慢性の痛みを患っている。両親と3人暮らし。
語りの内容
40歳以上だと末期がんと診断されると、介護保険が使えるんですけど、20代~39歳だとそういう制度が全くなくて、人生の最後を自宅で過ごしたいと思っても介護保険がないために、それを諦め、経済的な理由で諦めざるを得ない人がいるっていうのを知っていたのと。あと、まあ、兵庫県でそういう、年代の20代から39歳の人に介護保険同等の、その助成をしてくれるサービスがあるっていう、できたっていうのを何年か前に新聞か、ネットのニュースで見たときに、これはその兵庫県だけでなくて自分の住む町や国としてやってほしいなっていうのを、強く思って。もし自分が、例えば、またがんが再発したり何かそういうことがあったときにはそういう働き掛け、国なりこう市町村なりに働き掛けをしたいと思っていたので、そう思っていたところで、まあ、自分がステージⅣのがんとなったときに、今そのときがきたんだなと思って、まずはその日本中のいろんな地区、地域のその、まあ、若年者ターミナルケア支援事業っていうんですけど、その制度をやっているところを探して一つ一つ、あのメールで、メールだったり電話で問い合わせをして、その制度はどういうものか教えてもらったり、どういういきさつでできたか教えてもらって…。
で、いざ、いろいろ情報を集めた後で、こう市議の方を紹介してもらえたので、市議会議員の人に直接、まあ、その資料を持って行って、この20代から39歳で、人生の最後を在宅で迎えたい人の支援を、支援策を何とかしてほしいっていうのを訴えて。そうしたら、その議員さんがすぐ動いてくださって、あの今年の4月から、若年者在宅ターミナルケア支援事業という制度ができました。
―――実際、その事業が立ち上がって、ご自身もそれを活用することができたんでしょうか。
そうですね。本当にぎりぎりだったんですけど、私もその抗がん剤の副作用で手足のしびれがひどくて、家の階段を上ったり下りたりするのもしんどくなったときに、家の外の階段に手すりを付けるっていうのを、その制度を使って、付けてもらいました。
インタビュー54
- 体調不良で検査をしたら、たまたま転移が見つかった。遺伝性と診断されていてがんとは切っても切れない関係にあると思っていたので、ついにそのときがきたと感じた
- 趣味ややりたいことができなくなってしまうことが不安。そこまで治療を頑張る意味があるのか考えてしまう。治療あっての生活ではなくて生活あっての治療だと思う
- 子どもの頃からがん家系というイメージで育ってきて、遺伝子検査で遺伝性だとわかったとき、ショックより生まれ持ったものだから仕方ないと納得した
- 両親は結果をそのまま受け入れたようだった。今、がんではない姉は自分が検査を受けて遺伝性だとわかっても不安になるので、遺伝子検査は受けないと言った
- 父方からの遺伝だったので、父とは話せずにいたが、取材をきっかけに父の気持ちを知ることができた。自分が父を責めることなくきてくれたのがよかったと話していた
- 婚活中に遺伝性のがんであることがわかり、自分は結婚して子どもを設けてよいのか悩んだ。今は結婚よりも人生そのものや趣味に興味があり楽しんでいる
- 放射線療法後の再建手術だったので、術式で悩んだ。患者会や講演会に行き、情報をたくさん得ることができたが、情報を得すぎて混乱してしまった
- 遺伝子検査の結果を聞いた後、遺伝カウンセリングは受けずにきた。自分で残っている乳房の予防的切除、卵巣の予防的切除はしないことに決めて、定期的に検診を受けてきた
- 若年者ターミナルケア支援事業が他県で始まったことを知り、自分の地域でも導入できるよう日本中の情報を1人で集めて働きかけた。制度導入後、手すりをつけることができた
- 早い段階から緩和ケアを受けることが推奨されていて、局所再発がわかったときに診察を受け始めた。月一回受診し、心身両面のケアをしてもらっている