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診断時:50歳(2007年5月)
インタビュー時:58歳(2015年5月)

首都圏在住。先天性のろう者で、夫と娘の3人暮らし。自分でしこりを発見したが、父の看病で忙しく、1年以上経ってから病院に行って左乳がんと診断された。術前抗がん剤治療、乳房切除術、放射線療法、抗がん剤の内服治療を受けた。外来受診等は手話通訳派遣制度を使った。

語りの内容

手術が終わったあと、1ヶ月後に退院しました。そのあと、手術の結果、病理の結果的に放射線療法が必要だというふうに言われました。それから、抗がん剤を飲む、服用するというふうに言われました。うーん、どうして放射線なのか、全部取ったのに放射線なのかしら、って、一応聞いたんですね、お医者さんに。で、やっぱりリンパですね。一応、レベル(※)が、レベルが3つあるんですけど、3までだったので、でも、やはり、もしかしたら鎖骨のほうにいってるかもしれない。それを止めるために、やっぱり放射線は必要だというんですね。また、胸の胸壁のところまで、もしかしたらいっているかもしれないということで、そこも放射線で集中的に治療したほうがいいというようなお医者さんの話だったので、その時に、まあ、ちょっと、うーん、迷ったんですね。どうしようかなって思ったんですけど、やはり、うーん、その時に、家族のことを考えて、やらなければならないというふうに思って放射線治療を受けることにしました。

25回ですね。数は25回通って、あと、鎖骨のところ、5回、合わせて30回(※映像の50回は言い間違え)ですね、全部で。通いました。毎日、毎日です。その時は、放射線室の看護師さんと技術者の人たち、前もってろう者が来るっていうっていうふうにはわかってたということなので、筆談で。で、「何回目です」とか、なんか書いたりとか、「時間が何分です」まあ、短いですけれども、細かく、こうこう流れを説明して書いてくれました。で、それを見て理解することができました。資料もきちんと準備してくださいましたし、その間は通訳はいりませんでした。毎日、同じことの繰り返しですから、通訳は頼まなくても自分一人で行くことができました。

「耳が聞こえません」って身振りと、まあ、これは「これ」、なんて簡単な手話、「痛くない?」とか「疲れた?」とか「大丈夫?」みたいな手話、簡単な手話。毎日会ってるとね、向うも覚えてくれて、簡単な手話で話すこともできました。毎日通うのは大変だったんですけど、そこで、簡単な手話でも、会話することがすごく嬉しかったですね。頑張ろう、手話覚えてくれたんだ、頑張ろう、という気持ちで通いました。

で、終わったあと、「お疲れさまでした」って言うと、思わず、終わったあと泣いちゃったんですよね。ほんとに。「もう二度と来ないで」なんて、「来ちゃだめよ」なんて言われたんですね。「なんで。寂しいよ」なんて言ったら、「もう元気なんだから、また悪くなって戻るよりは、転移なんかして来ないで」って言われて。「会わないほうがいいっていうことなのね。でも、やっぱり寂しかったけれども、頑張ります。遊びに来てもいい?」って言ったら「ううん、それもだめ。それもだめよ。来ちゃだめよ」って。「もう終わり。これは終わりなんだから」って。「これから前を向いて、ここじゃなくて、病気のことじゃなくて前を向いて生きてってください」って言われて、もう、それで、本当に頑張ろうというふうに思いました。

私は: です。

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