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インタビュー時:74才(2015年8月)
関係:慢性の痛みを持つ42歳の女性(本人インタビュー19)の母
首都圏在住。次女が子どもを産んで1年ほど経った2003年頃から、全身の痛みを訴えるようになった。様々な病院を受診したが改善せず、そのうち薬剤がどんどん増え、寝たきりのような状態となった。その間、孫を自宅に引き取り育てながら、家族一丸となって娘を支えた。薬剤に依存していたが、民間療法を試み、減薬したところ、痛みが治まっていった。現在は睡眠薬と2種類の薬の内服のみで痛みはコントロールでき、家事や仕事もできるようになった。
語りの内容
―― 娘さんに対して、その、接するに当たって、お母さまとして、どんなことをこう、気遣ってでもないですけれども、何かされていることっていうのは、何かあったりしますか。
はい。それはですね、もう全面的に、私の指導はしない、意見は言わない。全て、彼女の、言葉を全部、「そうね、そうね」って、「そんなにつらいの?」って、「じゃあ、あの、今、どういうふうにしてるの」っていうのを受け入れましたね。もう全面的にもうね。あの、この人に何か言ってもだめだと思ったんです。かえって、逆なでしちゃうみたいな。「私がこんなに苦しんでるのにわかってくれないの!」っていうのが、もう見え見えでしたので。せめて、私にぐらい弱みを見せてもいいじゃんって。うん。
それで、婿さんも半信半疑ですし、周囲の人はみんな半信半疑で。ですから、主人と私とではもう、「本人がそう言うなら、もうその本人の言うように動こうじゃないか」ということを、そこで腹を決めたんです。ええ。ですから、今でも行っても、こっちの話は報告程度で、ほとんど彼女の、「今週はこういうことあったの。こういうことあったのよ」って言って(いるのを)、いい話もつらい話も全部聞いてくるんですね。 ですけど、もう私も年を取ってますので、何かそういうものが記憶の海馬に入らなくなってくるんですよ(笑)。ですから、人間の体って大したもんですよね。つらい話も忘れるようになってきたんです、最近。ですから、いくらね、いろんな話を聞かされても、もうしようがないじゃんって。もうあれだけね、10年間ね、やってきたら、もうあれ以上つらいことはないと思って。ええ。もう何でも、もう。
それまでは私も結構気が強いほうで、あの、教育的指導みたいなね、ばりばりね、もう意見も言っちゃう人だったんですけども。私の最も悪いところかな、なんて思ったりして、もう反省材料で。私が何か言っても解決できないものなら、もう医学者に任せるなり、第三者に任せるしかない。あとは生活のフォローをしてやればいいと。うん。いうふうに、もう早い時期にもう決めちゃったので。あとはもう何も、迷うことはなかったですね。うん。たまにね、お姉ちゃん(長女)に愚痴を聞いてもらったりはしてましたけども。で、主人と話しても、あの、もう主人も答えようがないですから、もう2人で、「もうしようがないわね」って、「もう少し頑張ろうね」って言うだけで、毎日をね。
家族インタビュー04
- 娘の訴えに周囲は半信半疑だったが、自分と夫だけは指導的なことを言わないで、彼女の言葉を全部受け入れ、生活のフォローをしようと覚悟を決めた
- 体調がよくなるまで孫を預かることにしたが、本人まで預かってしまうと上げ膳据え膳で起き上がれなくなってしまう。自立を促す意味で娘は自宅で過ごさせるようにした
- 娘が痛みで動けず、寝たきりでご飯の支度もできなくなり、子どもの世話もできないだろうということで、孫を預かって3歳になるまで、丸2年は面倒をみていた
- 上の娘が見つけてくれたペインクリニックや親戚が教えてくれたカイロプラクティックに通い、知り合いの紹介の漢方医にもかかったが、光が見えることはなかった
- 町の精神科で娘に出されていた薬はかなり強い薬だということを新聞記事で知り、転院先の病院では談判してやめてもらった
- 自分の子どもと離れて暮らし、娘に代わって家事をやってくれた婿さんはよくぞ耐えてくれた。娘を丸ごと受け止めてくれたことを感謝している
- 長女は次女の子を預かることをいとわず、長女の子は次女が寝ていれば遊んでもらいたいのを我慢した。家族の中にあ・うんの呼吸で助け合う協力体制が出来上がっていた