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インタビュー時:57歳(2016年10月)
疼痛期間:12年
診断名:胸椎・頚椎・腰椎後縦靱帯骨化症
北海道在住の女性。夫と2人暮らし。40代半ばに強烈な腰痛が出るようになり、検査の結果、後縦靱帯骨化症の診断を受けた。腰椎の手術を4回受けた。現在も常に腰から両足にかけて、足の指先の痛みがあるが、鎮痛剤は効果がないため飲んでいない。患者会の運営に携わったことや、難病患者団体で相談活動に参加したことが、自分の生き方を変えることにつながった。さらに行政や国へ当事者として、障害者政策などの要望を伝えていく役割を見出だした。
語りの内容
入院して検査が続いて、「まあ、ご主人…ご主人、来れますか」と、先生が話をしたいっていうところで。また私も、「何で、旦那…旦那を呼ばないといけないんですか」みたいなことで、またそこで文句言いました。で、えーと、「家族の方にもご説明しないとだめなんです」と。だけど、「自分のことだから、自分が知ればいいじゃないですか」っていうところで、またまた私のちょっとわがまま的なことが始まって、「でも、呼んでください」って言われたので、まあ、主人も夕方来て、えー、話を聞いたんですね。
聞いたときに、うーん、まあ、「これは大変な病気です」から始まりました。大変な病気っていうの、大変という意味はね、今考えれば、がんだとか、まあ命に関わるところの部分で考えてしまうけど、でもここは整形外科だからそういうことはないだろうというところで、大変な病気って何かしらと思いながらも聞いていました。そうしたら、もう重症のレベルで、えー、まあ難病ですということが、で。あの当時は難病っていうこと、難病の字もわからないまま、難病ですと言って、そのときたぶん先生がね、病名をたぶん私に伝えたと思うんですけど、私は、そこは今でも聞き取ってないんですね。で、「ここでは、ここの病院では、この大きな手術はできません」と。「なので、ね、某大学病院2つがあるけれども、そちらでないとできません」ていう宣告をされました。私がそこで言ったのは、「先生、私にね、大学病院の選択を自分でするっていうのは、とてもね、無理な話だし、わかりません」と。という、たぶん回答をしたと思うんですね。そのときには、「それでは、まあ某大学病院の紹介状を書くので、すぐに行ってください」っていう程度の説明だったのでね。で、なぜここでできないのかっていうところもわからない。それと、うーん。大変な病気っていうところもわからない。それから私はこのまま家に帰れると思ってたところが帰れないというところで、たぶんね、そのころはね…、涙はまだなかったのかなって今考えたらね。そこを何ともまだ、たぶんすごい、たぶん、いろんなところが、えー、何1つ受け止めてなかったと思うんですね。
インタビュー33
- 発症してしばらくは何かするたびに「痛い」と口にしていたが、最近はあまり言わなくなった。痛みがある自分を否定しない生き方をするよう考えを変えた(音声のみ)
- 痛み止めを飲んでも効かず、副作用が出るだけなので飲んでいない。痛みのため不眠とうつ状態になるため、睡眠導入剤と精神安定剤を飲んでいる
- 医師から夫を呼ぶよう言われ、「難病です、後縦靭帯骨化症です」と伝えられたはずだが、病名を聞いた記憶が今でもない。涙もなかったのは、まだ大変な病気と受け止めてなかった
- 治らない難病だということを理解していなかった頃は、TV通販で売られている漢方薬をはじめ、痛みに効くと言われるものは何でも飲んでいたが、お金が続かなかった