「慢性の痛み」とは、怪我や病気のために生じた痛み(時には原因不明なこともあります)が、通常怪我や病気が治るのに要する時間を超えて持続する痛みのことを指します。誰しも怪我や病気が治れば痛みは治まると期待しますが、その期待が裏切られたとき、強いストレスを感じ、絶望してしまう人も少なくありません。しかし、その後も痛みと付き合ううちに、多くの人が次第に「治らない」「一生続く」ということと何とか折り合いをつけて、日々を送るようになったことを語っていました。ここでは、そうした「痛みの慢性化」について、皆さんがどのように感じているかをご紹介します。
絶望や不安と向き合う
このように、最初は痛みをなくそうと様々な治療を試みたものの、なかなかよくならなくて、次第に「痛みと共存」せざるを得ないと考えるようになっていくというのが、今回のインタビューに協力してくれた方々の多くがたどった道でした。それでも痛みが非常に強い場合は、命を絶ちたいと思うほど追い詰められたと語る人もいました。
このように家族(特に子ども)に対する責任感から死にたくなるほどの痛みを耐えている人がいる一方、年齢の若い方では、これから先の人生の長さを考えて非常に辛い気持ちになることもあります。次に紹介する20代の女性は、上の男性と同じく怪我の傷が治っても痛みだけが残る「複合性局所疼痛症候群(CRPS)」になってしまったのですが、長い将来を考えると不安になると話しています。
変化の過程と転機になったこと
当初は不安や絶望感に駆られていた人でも、何かのきっかけで、痛みのある人生を受け止めることができるようになることがあります。
また、それまで無理だと思っていたことができたり、目標を達成できたりしたことで、病気と共存していく自信がついたという人もいます。次の女性は子育てをしながら自分でも無理かもしれないと思っていた博士号を取れたことが大きな節目になったと話しています。また、好きだった音楽を諦めていた別の女性は、楽器が弾けなくても歌うことはできることに気づき、残された力を生かしていこうと考える契機になったと話していました。
「諦める」のか「受け入れる」のか
「痛みの慢性化を受け止める」と言っても、その受け止め方は人によってさまざまです。痛みからの解放は叶わないこととして「諦めた」という人もいれば、あえて「諦め」たのではなく「受け入れ」たのだと話す人たちもいました。
また、病気を受け入れることはまだできないけれど、「手ごわい隣人」として付き合っていく」と話す人や、神仏に与えられた「試練」と思って受け入れるしかないと話す人もいました。
「痛みのある自分」を受け入れる
痛みが出ることによって、「本来の自分」らしい生活や人生を続けることが難しくなります。そんなとき多くの人が痛みと折り合いをつける上で、「痛みのある自分」を受け入れることが必要になったことを話していました。痛みに選ばれてしまったことに、どんな意味があるのか日々自問自答している人もいました。
2018年3月公開
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