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インタビュー時:30歳(2016年7月)
疼痛期間:15年以上
診断名:不明。
関西地方在住の男性。15歳のころ、まず手のしびれが、次に足の痛みが現れ、耐え難いものに変わった。現在は、両手の激しいしびれ、背中の激痛、太ももの灼熱痛がある。鍼治療、各種内科、外科にかかり、後縦靭帯骨化症、脳脊髄液減少症、線維筋痛症、など様々な疾患が疑われたが、どれも最終的には否定され確たる病名はなく、いかなる投薬・手術によっても改善はしなかった。大学に進学したが授業が受けられないことが続き退学。接客業や工場勤務などを経て、現在は不動産関係の仕事に従事している。
語りの内容
例えば面接とかで自分の病気のことを言うと、まず100%落とされます。なので、まあ面接のときとかは、もう病気のことは一切言わずに、えー、面接を受けます。
今まで――あ、これまでさまざまな仕事をしてきました。まあ立ち仕事から、まあ、座ってする仕事、いろいろしてきたんですけれども。うーん……、一番最初にした仕事は接客業でした。で、やはりですね、この仕事のときも、えっと、お客さまとこう、まあ集中して対話しないといけないので、そういったときにやっぱりこう、痛みがこう、わっとこう出てきて、あの、すごくつらかったんですけれども、もう、もうひたすら我慢するしかないので、えー、我慢しながらやっていました。その次が、これも、まあ接客業なんですが、そのときもまあ同じような状況ですね。で……、その次は、工場勤務をしておりました。そこでは、えっと、前職よりかは、まあ…、まあ体力的にもマシな仕事内容だったので、まあ痛みはすごく感じていたんですけれども、まあ1人でやる作業が多かったので、まあ周りにあまり気を遣わなくていいというところもあったせいか、まあ、痛みの感じ方は、今までやってきた仕事と同じだったんですが、精神的に少し、まあ楽でした。
でその次の仕事も、まあ違う会社の工場勤務なんですが、そこはすごくハードなところで。…まあ知り合いの方が上司ということもあって、その、自分の病気のことを知ってくださっていたんですね。で、まあ一部始終、自分の病気のことを話して、で、まあ理解を得た上で働かせていただきました。
現在は、えっと、また違う仕事をしておりまして、えー、建物の、まあ不備がないかとか、えー、まあ検査とかする建物管理の仕事をしています。…まあここでの仕事は1人でやる作業が多いので、えーと、まあこれも、まあ体の痛みは一緒なんですけれども、あまり周りにこう迷惑だったり、気を遣わないでいいっていう部分では精神的に楽です。
インタビュー26
- いろんな薬や治療を試しても効果がない難治性の慢性疼痛患者は、病名ではなく痛みの症状として一つにまとまって、原因や治療の研究を進めるよう訴えていくことが必要だ
- 10年間に70にも上る医療機関でさまざまな検査を受けたが、原因も病名も明らかにならなかった。現代医学で解明するのは難しいと言われた
- 接客業や工場勤務など様々な仕事をしてきた。痛みは変わらないが、今の仕事は一人でやる作業が多く、周りに気を遣わないでいいところが精神的に楽である
- 治ると思っていた痛みが改善せず笑う気力もなくなり友人関係も希薄になった。治らないとい う現状は誰も想像もできないだろうと考え、誰にも話せず人と距離をおくようになった
- 自分の病気を社会に認知してもらうために地元や海外で署名活動をした。その活動を通して自分が思っている以上に話を聞いてくれる人やサポートしてくれる人がいることを知った
- 病名に振り回されてドクターショッピングに陥り、ひどい対応をされたこともあった。多額のお金を投資しても治らなかったので、他の疼痛患者に病院を紹介する気にはなれない