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インタビュー時年齢:41 歳 (2021年7月)
感染時期:2020年12月
背景:首都圏在住で新聞社に勤務。感染当時は記者職。同じくメディア関係で働く妻(41)と息子(3)の3人暮らし。
両親(重い基礎疾患持ち)と姉家族が近隣に、妻の両親が関西在住。感染判明直後、妻も陽性、息子が陰性で、療養場所をどうするかで戸惑った。感染者が激増、保健所との連絡がつながりにくかった。協議を重ね、妻子は病院、自分はホテル療養となった。いったんは治まったせきが入所後に再燃。息苦しさ、下半身の痛みが出始めたときは不安でたまらなかったが、指定の療養期間が終わる頃には回復し、家族一緒に大晦日を迎えることができた。
語りの内容
一方で、妻のほうはですね、もちろんLINEとかでやり取りをしてたんですけど、病院に入って、妻のほうは実は私以上に軽症で、最初の晩に38度の熱が出た以外は、そこから下がってほとんど…。妻のほうも味覚と嗅覚はすぐ無くなって、ただそれ以外はもう熱もすぐ下がって、自分の身体で感じる症状はあんまりないという状況でしたけど、病院で子どもと2人っきりというのが相当ストレスで、しかも妻の場合は、子どもにうつしちゃったらどうしようというのが非常に気になっていて。病院で、個室。病院の個室に入らせていただくのはありがたいんですけど、狭い個室で2人っきりで子どもといる。ずーっとマスクをして、子どもが「遊んで遊んで」と言っても、なるべく近くに行かないようにしながら遊んで。しかも、私の療養施設のほうはWi-Fiがバンバン飛んでましたけど、病院のほうはそうではなかったらしく、しょうがないのでスマホで動画を見せたら、すぐ月のデータ通信量の上限に達してしまって、どうしようみたいな状況で。悲鳴のような…しかも病院の個室なんですけど、電話は禁止ということになっているらしく。なのでLINEとかでやり取りをしていて、そういう悲鳴のようなLINEが届きつつ、こちらは環境としては非常に快適なので、申し訳ないなと思いながら過ごしてました。
でまあ、一応その(療養施設の退所)時点で私は、ちょっとだけせきは残ってる感じでしたけど、もちろんマスクはしてまして、一応もう外に出ていい、感染力がないという認定だったので、その日の午後に車で子どもを迎えに行って。妻が入院してる病院に子どもを車で迎えに行って、子どもを引き取ってきました。それで妻もようやく1人で過ごせるようになって、ああ、よかったなあという感じでした。子どもは最初は「病院楽しいね」とか、よく分かってなくて言ってたらしいんですけど、それなりに…3日も4日も同じところにいるので、ストレスが溜まってたみたいで、食事をあんまり食べないとか言われてたので、帰ってその日の夕食は全部好きなものをあげたりしてですね。そこからはもう、基本的には子どもと2人で妻が退院を迎える…3日後ぐらいだったと思うんですけど、その日まで子どもと2人で過ごしてました。
インタビュー12
- 妻も自分も後遺症の発症を不安に思っていたが、それらしいものが何も出なかったのはすごく幸運だった。後遺症が残っていたら気楽に感染のことを周りにも話せなかったと思う
- 両親は重い基礎疾患を持っていて、同居の姉一家にも感染を広げる恐れがあった。保健所から子どもの預け先候補として提案されたが、相当ハードルが高いと伝えた
- 入院中、妻は子どもと2人きりの環境に相当のストレスを抱えていた。自分の療養期間が明け、ホテルを出ててすぐ、息子を迎えに行った
- 自分と妻どちらが療養施設に行き、どちらが子どもと一緒に入院するのか決断を迫られた。これから悪化する可能性のある妻が入院、自分は療養施設に行くことになった
- 入所した夜にせき、息苦しさ、身体の痛みが急に出はじめ「ここから悪くなるのか」と怖くなった。頼れるのはパルスオキシメーターと体温計だけで、繰り返し測定した
- 発症してからずっと自室にこもっていたものの、自分から家族にうつることは想像しておらず、子どもの世話をしていた妻が発熱したときにはショックで、申し訳ない気持ちだった
- もし職場で感染者が出たら、個人的に自分を責める人はいないと思ったが、これまで通りに接してもらえるのだろうかと考え嫌な気持ちになってしまった
- 「本当に気を付けていた自分がなぜ?」という思いはあるが、その一方で誰からうつったかはっきりわかっていたら、その人に複雑な感情を持たずにいられるかどうか自信はない