インタビュー時年齢:52 歳 (2021年3月)
感染時期:2020 年10 月
背景:罹患時首都圏在住の男性。会社員。単身赴任中。
せきや微熱のため会社を休み在宅で仕事をしていたが、38度を超す熱が出たため発熱外来を受診した。レントゲンを撮ると既に肺が真っ白だった。最初に紹介された病院では血中酸素濃度が80%を切ることもあり、より高次の病院に転院することになったが、チューブが折れて酸素が吸入できていなかったことが判明。転院先ではICUに入ってレムデシビルの投与を受けたが、気管挿管することはなく、数日後には一般病室に移った。退院後は順調に回復し、後遺症もなく職場復帰している。
プロフィール詳細
2020年10月、軽く咳が出始め、何となく調子が悪い感じがした。風邪薬を買って飲んでいたが、だんだん咳がひどくなり、微熱が出てきたので、仕事を在宅ワークに切り替えた。体調の変化を感じ始めてから4日後、食材を買いに近所のスーパーへ出かけた時、人の流れを見て膝がガクッと落ちるような感覚があった。異変を感じ、近くの発熱外来を検索し、すぐに予約をとった。病院まではそれほど遠くなかったので、歩いて行くことにしたが、体が重く、ヘトヘトでひどく疲れているような感覚があった。
病院で検温すると38度の熱が出ていて、レントゲンを撮ってもらうと、肺が真っ白になっており、ひどい肺炎を起こしていることがわかった。大きな病院で詳しく診てもらうことになり、ふらふらになりながらも自力で紹介病院まで向かった。病院に着いて紹介状を渡すとコロナウイルス感染の可能性があると言われ、入院することになった。その時に芸能人や政治家の訃報などが頭をよぎり、とにかく家族や会社に連絡をしておかなければ、という気持ちになり、急いで電話した。入院時の血中の酸素濃度は86%だった。CTをとり、車椅子に乗せられ酸素吸入をしながら病棟へ上がった。医師からはこれだけひどい肺炎だと相当苦しいだろうと言われたが、これまで歩いて移動してきた道中と比べると非常に楽だった。
ただ、酸素濃度は低く、モニターのアラームがずっと鳴りっぱなしだった。しばらくして、医師たちが慌ただしくなり、「非常にまずい状況で、挿管する可能性がある」と説明を受けた。その後から段々と息苦しさを感じるようになり、一時は血中酸素濃度80%を切ることもあった。かつて自分の息子も心臓の病気で死の淵をさまよったことがあり、その時に鳴っていたアラーム音を思い出した。そこで、そうか、自分もヤマ場なんだ、と実感した。酸素量を増やしても数値が改善しなかったので、翌日には挿管をするためにより専門の病院に移ることになった。転院準備を行っている間に、チューブから酸素が出ていないことに気づいて、看護師さんに伝えると酸素チューブが途中で折れていることがわかった。チューブを直し、酸素の流量を上げたところ血中酸素濃度が80%台後半まで改善し、翌日の転院先へ救急車で向う頃には血中酸素濃度90%台中盤にまで改善をしていた。
転院先の病院ではICUに入り、治療としてレムデシビルの投与を受けた。血中酸素濃度がある程度改善していたので、段階的に酸素吸入量を下げていき、数日で隔離エリアの一般病室に移った。入院中は食事の量が足りず、空腹で過ごす時間がとにかく辛かった。その後は順調に回復し、数日で退院した。退院後も声枯れと頭がぼーっとする感じがあったが、徐々によくなっていった。退院してしばらくはテレワークをして、その後職場に復帰している。
これまでの自分であれば、このようなインタビューはやらなかっただろうが、コロナウイルスに感染し、山を越え、死を身近に感じたことで、心境の変化があった。自分のこういった話が少しでも誰かの役に立てればと思う。そして、医療者や家族、周りの人に対しては感謝しかない。
病院で検温すると38度の熱が出ていて、レントゲンを撮ってもらうと、肺が真っ白になっており、ひどい肺炎を起こしていることがわかった。大きな病院で詳しく診てもらうことになり、ふらふらになりながらも自力で紹介病院まで向かった。病院に着いて紹介状を渡すとコロナウイルス感染の可能性があると言われ、入院することになった。その時に芸能人や政治家の訃報などが頭をよぎり、とにかく家族や会社に連絡をしておかなければ、という気持ちになり、急いで電話した。入院時の血中の酸素濃度は86%だった。CTをとり、車椅子に乗せられ酸素吸入をしながら病棟へ上がった。医師からはこれだけひどい肺炎だと相当苦しいだろうと言われたが、これまで歩いて移動してきた道中と比べると非常に楽だった。
ただ、酸素濃度は低く、モニターのアラームがずっと鳴りっぱなしだった。しばらくして、医師たちが慌ただしくなり、「非常にまずい状況で、挿管する可能性がある」と説明を受けた。その後から段々と息苦しさを感じるようになり、一時は血中酸素濃度80%を切ることもあった。かつて自分の息子も心臓の病気で死の淵をさまよったことがあり、その時に鳴っていたアラーム音を思い出した。そこで、そうか、自分もヤマ場なんだ、と実感した。酸素量を増やしても数値が改善しなかったので、翌日には挿管をするためにより専門の病院に移ることになった。転院準備を行っている間に、チューブから酸素が出ていないことに気づいて、看護師さんに伝えると酸素チューブが途中で折れていることがわかった。チューブを直し、酸素の流量を上げたところ血中酸素濃度が80%台後半まで改善し、翌日の転院先へ救急車で向う頃には血中酸素濃度90%台中盤にまで改善をしていた。
転院先の病院ではICUに入り、治療としてレムデシビルの投与を受けた。血中酸素濃度がある程度改善していたので、段階的に酸素吸入量を下げていき、数日で隔離エリアの一般病室に移った。入院中は食事の量が足りず、空腹で過ごす時間がとにかく辛かった。その後は順調に回復し、数日で退院した。退院後も声枯れと頭がぼーっとする感じがあったが、徐々によくなっていった。退院してしばらくはテレワークをして、その後職場に復帰している。
これまでの自分であれば、このようなインタビューはやらなかっただろうが、コロナウイルスに感染し、山を越え、死を身近に感じたことで、心境の変化があった。自分のこういった話が少しでも誰かの役に立てればと思う。そして、医療者や家族、周りの人に対しては感謝しかない。
インタビュー10
- 寒い屋外で仕事をした数日後、軽くせきが出始めた。味覚障害もなかったので風邪薬を飲んでやり過ごしていたが、37.2度の熱が出たので会社を休んだ(音声のみ)
- 初期症状は風邪より軽い感じで、無症状に近い。気づかずに撒き散らすのは無症状の若者たちだと思っていたが、自分も無症状世代だったことに驚いた(音声のみ)
- コロナは夜の街で感染するものというイメージが強かった。今のように飛沫のシミュレーションなどはなかったから、昼間だったら大丈夫という意識があった(音声のみ)
- 部下8名が濃厚接触者と判断されPCR検査を受けた。初診料の自己負担分は自分に負担させてほしいと伝えたが、「明日は我が身なので」と遠慮された(音声のみ)
- 今夜がヤマと言われてもさほど苦しくなくて、人はこんなにあっさり死ぬものかと思った。ヤマを越えたときには周囲に対して「感謝しかない」という心境になった(音声のみ)
- 入院時の血中酸素濃度は86%ほどで、ひどい肺炎と言われた。ヤマ場と言われたときは、考え事をすると酸素を使うと思ったので、極力頭を使わないようにした(音声のみ)
- インフルに比べれば発熱は大したことはなく、2日ほどで下がったが、とにかくへとへとで、歩くのもやっとなほどのものすごい倦怠感に襲われた(音声のみ)
- 社内で感染事例があり、陽性と分かる前から出勤停止で様子を見るというルーティンができていた。復帰後も会社の配慮が手厚くあって、ありがたかった(音声のみ)