※写真をクリックすると、動画の再生が始まります。
診断時:12歳
インタビュー時:48歳(2017年12月)
九州地方在住の女性。夫と娘一人。10歳の頃発症し2年後にクローン病と診断された。その後しばらくは落ち着いていたが看護学校へ入学してから腹痛と下痢が悪化。また出産後育児に追われて自分の栄養管理ができず再度悪化し、小腸を三分の二と大腸を半分切除し人工肛門を造った。その後クローン病はレミケードで安定したが、術後1年ほどで末期の腎不全になり血液透析を開始。毎晩経管栄養補給(鼻から管で栄養剤を胃に流し込むもの)をしながらも現在は医療事務の仕事をし、さらに患者会の活動も活発にするなど、常に前向きに活動している。
語りの内容
―― それで手術をされたということなんですが、その手術はどういうような感じだったんですか。
えー、手術は、ずっと手術を勧められることはあったんですけど、あのー、昔、20年前くらいはあの、なるべく手術をしないように、なるべく腸を切らないようにというふうに先生が言われていたので、えー、ぎりぎりまで手術を我慢するような形で行ってたんですが、いよいよ腸閉塞、腸が細くなって、物が通らなくなる状態になってしまったので、そうなるともう手術しかないのでですね、そこで、手術、いよいよのぎりぎりに手術になったという感じだったんですけれど、あのー、そういう風に無理を重ねてたということがあったので、体の方の栄養状態がですね、とても悪い状態で手術をしなければならなかったので、その後の経過をですね、切った腸がつながるかどうかというのを先生が心配されていて、で、そこであの、2回目の人工肛門を開けて、まずは腸を休めましょうということで、腸もたくさん取ったんですけれど、その時の手術で2回目の人工肛門を造ることになりました。
―― Q:その時には大腸も一緒に切ったんですか。
最初は小腸だけの炎症だったんですけども、やはり繰り返すことによって大腸の方にも炎症が及んでしまって、大腸にも狭窄部分ができてしまったので、それと小腸と大腸の癒着がありまして、その間に、腸と腸の間に瘻孔があったということで、結局は大腸の半分も取らざるを得なかったということで、小腸のストーマを開けることになりました。
インタビュー14
- 腸が狭くなったところを食べ物が通って出るまで、夜も眠れなくてくつろぐことができない状態だった
- 下痢をしてトイレの回数が多いと、そこがただれて強い痛みを感じることがあった。おなかの痛みは絶食をしてエレンタールだけになるとほとんどなくなる
- 自分がやりたいことを言葉に出すことが重要で、ことあるごとにみんなにそれを言うべき。そうするとそれを誰かが聞き留めて思いもかけない人から応援してもらうことがある
- 主治医がきっかけで自分の意思を言葉にしてみると、叶っていくことがわかった。それからやりたいことを口に出すようになった
- 主治医は、まず始めに私に何がしたいかということを聞いてくれて、それに向かっていくためにはどんな治療をしたらいいかを考えてくれた
- 出産を控えている時に初めて患者会に行ったら、先輩ママさんたちがたくさんいて色んなアドバイスをもらい、とても吹っ切れて力になった。その後役員になって活動している
- 結婚する時、相手の両親は反対していたけれど、実際の私を見て日にちを重ねると、自分の親のようにとても仲良くなって、結婚したのが私でよかったと言ってもらった
- 調子が悪い時にはどうしても助けてもらわないといけないので調子のいい時には自分ができることは一生懸命やるようにしていた。そして同僚は自分を尊重して、認めて、応援してくれた
- 小学校の時にステロイドの影響で、おにぎりみたいな顔になって初めて学校に行った時、恥ずかしくてなかなか教室に入れなかった
- お弁当の時間に自分はエレンタールだけしか飲んでいなかったが、それを友達に説明するのは難しかった
- 出産するまではトラブルもなく順調だったが、出産後育児の忙しさで自分の体調管理ができなくなり、徐々に悪くなっていった
- 人工肛門は貼り換えのタイミングが難しくて、大体朝やるが30分くらいかかることもある。またトイレで出す回数も結構あるので大変
- なるべく腸を切らないという主治医の方針もあってぎりぎりまで我慢したが、ついに腸閉塞を起こして切らざるを得なくなった。その際、腸を休めるために小腸ストーマを造った
- 12歳の子どもにとって1か月の絶食はとてもきつかった。食べ物の名前を思い浮かべては画用紙に書いたり、食べ物の絵を書いたりしていた
- 12歳で診断を受けたが大人は難病だとわかるとかわいそうな目で見るので悔しい思いをしたこともあった。祖母は自分の家から難病患者が出たことを近所の人に隠そうとしていた