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インタビュー時:34歳(2012年7月)
関係:長女(実父を介護)
診断時:実父64歳、長女27歳
1997年父が56歳で脳梗塞となり、退職。 一人娘である長女と両親の3人暮らしで、19歳から生活と介護を支えてきた。しかし、2005年に父がアルツハイマー型認知症と診断され、状態が悪化。母も体調を崩し、長女は介護離職した。経済的にも追い詰められてうつ状態となり、一時は死を考えた。今は週1回のデイサービス、1~2カ月に1回のショートステイを利用しながら在宅介護中。
語りの内容
父が例えば、ま、徘徊してしまうときとかにも、門、家の自宅に門があるんですけれど、その門の鍵もちょっと違うのに変えてみたりとか。あと出る前に、こう、踏むとピコピコ音がするマットとかを、区のほうで貸してもらえるっていう話だったので、最初それを置いてはいたんですけど、そこ、またいで行っちゃうんですよね、父が。だから、それを2枚借りて、またいでも踏んじゃうような位置にそれをもう1枚置くようにしたりとか。あとはGPSの機械も、かばんとか、ポッケに、ベルトのところに付けてても、それは外して持ってっちゃうので、そのとき父は必ず出かけるときに帽子をかぶって出ていくっていうのが、もう、癖というか、そういうスタイルになってたので、その帽子の中にGPSの機械を入れ込んで、入れておくとかして。
インタビュー家族30
- 父がつけていた日記に、頭の中にもう1人違う人がいる気がすると書かれていた。昭和世代の人なので不安を表に出すことはできなかったのだろう
- 母は父の健康管理について自責の念を抱いていたので、認知症かもしれないと思ってもそれを認めたがらず、専門医にかかるよう勧めても中々行こうとしなかった
- 近くの脳神経外科で長谷川式の検査を受けることになったが、防衛本能からか父は「そんなくだらない質問をするな」と怒り出し、部屋を出てしまった
- 父が家じゅうに虫がいると言ったり、見えない敵に杖で殴りかかったりするのを見て、脳神経外科を受診する決心がつき、アルツハイマー型認知症と診断された
- 厳格だった父は娘の前ではいいところを見せようとしてかえって混乱するので、父の視界に入らないようにして見守りタイミングよく手伝うようにしていた
- いつも「三角食べ」をしていた父がごはんだけ先に食べてしまったり、おやつのバナナをひと山全部食べてしまったりするのは、何かおかしいと思っていた
- 踏むと音が出るセンサーマットを区から貸してもらって、二重に置いてまたぎ越せないようにした。GPSも外してしまうので、必ずかぶる帽子の中に仕込んでおいた
- まともに父と会話できた時の話をメモしておき、数日後でも調子がよい時にその話をすると話がつながっていくのに気づいた
- 「あなたがお父さんのことを忘れないように私もあなたを忘れない、いつでも電話して」という友人の言葉がとても響いた。自分も同じ立場の人にはその言葉を伝えている
- 私がうつ状態になっていることに気づいてくれた人が、脳梗塞の父にしているリハビリについて話す場を作ってくれた。それがすごく助かった
- 出会いは家族会やインターネットと色々だが、同じ問題に直面してる家族介護者同士、共感しあっておのおのが心のバランスを取っているように思う
- アルツハイマーという診断を伝えようとすると、父は「自分も家族も分からなくなる病気なら自分で死ぬ」と首をくくろうとした。「私たちは忘れない」と話すと落ち着いた
- 父を在宅で看るために介護離職したが、両親は年金を前倒しでもらっていたので2人で12万円しかないところに、保険適用分を超えた介護費用が10万円を超え、生活できなくなった
- 母も倒れてしまったので、父も母も看ることになった。父の徘徊が頻繁になり、ケアマネージャーも娘が看ることを前提に話すので、介護離職せざるを得なかった
- 父が倒れて、内定をもらっていた百貨店への就職をあきらめ、手っ取り早く稼げる仕事に就いた。不動産業はノルマが厳しいが収入がいいので選んだ
- 認知症の父は元気で当分お迎えは来ないと思いつめ、ガス栓をひねった。犬が吠えたので我に返って慌てて止め、母と共に一晩わあわあ泣いて新たな覚悟ができた
- 唾液が気管に入ってむせたら、口から泡を吹き、もうダメだと思ったが、少しして深い呼吸をし、血の気が戻ったように感じた。救急車を呼んだらてんかん発作だと言われた
- そろそろ胃ろうを考える時期にきている。長生きはしてもらいたいが、旅立つときは自然に送ってあげたい。調整は難しいだろうが、できれば家族3人揃ったところで見送りたい
- 離職するまではバランスが取れていたが、1年ぐらいすると外と接触がなくなり孤立感を感じて眠れなくなった。昼夜逆転して食欲もなくなり、手を洗いたくてしょうがなくなった