わたしが結構、彼の思いと、ちょっと、こう、かけ離れすぎたところがあったのかなという。彼は、もうちょっと不安で、そこから抜け出したいって思うんだけど、わたしは不安ではなくって、「病気だけど楽しくいこうよ、楽しくいこうよ」っていう、そういう部分だけをね、ちょっとこう、考えすぎてたので。そこがちょっとこう、ね。温度差じゃないけど、差が出てきてて。本人はつらいのに、笑えないですよね。それをわたしが、「何で、笑顔がないの」とかね、何かそういうことばっかり、最初の方は言ってたような気がするので。
何か、うーん、ま、わたし自身も、大きな大病した時に、意外とまあ、自分自身では、その病気に対して、こう、気持ち的には明るく持てた部分があったのでね。それに、何か、彼を合わせようと。「わたしだってあれだけの大病して、そうやって、こう、気持ちよくあれして、豊かにして、こう何か、病気と闘ってきたんだから、あなたもできるでしょ」っていうね、そういう何か感じでね、何か、してしまったところがあるかなとは思うんですけど。うん。
投稿者「dipex-j」のアーカイブ
うーん、だから、これ、1人で1人を見るとかね、うーん。……それこそね、ついつい…手が出て足が出るんじゃないでしょうかね?ええ。やっぱり、あの、聞こえなかったりするもんだから、「お母さん、ここ、こっちよ、こっちよ」ってこう手を触って「こっちよ、こっち、こっち、手」って、自分にすれば手触っているつもりなんだけど、これが、ちょっと力が入りますと叩いていることになりますもんね。「痛いわ」って言われたことも多々あります、ええ。それで、やっぱり、パンツなんかも、早く上げないと、あの、また漏れてくるし、風邪引くでしょう。だから、早く早くってやっていると、ついつい、ねえ。うーん、お尻もぺんぺんと、一個で、ぺんでやめればいいのにぺんぺんとなったりね。そういうのが、やっぱりね、ひどくなると思う。うーん、だから、1人じゃできないです。はい。
あの、こたえたなっていうのはね、あの、やっぱり、自分が、例えば、母に対して、ちょっと、荒っぽい介護をしたんでしょうね。こう、トイレ行って、こう、パンツをあげてあげるときに、こう優しくあげないで、ぱっぱっぱっぱっとあげて、ま、ようするに雑にしたっていうことですかね。そのときに、あ、ちょっと、母と言い合いになったんですよ。で、わたしもいつもなら流すんですけど、そのときは、もう流せなくて、もう、本気で、言い、言い合いしたんです。ていうのは、「子どもだから、みるのが当たり前だ」って母に言われたんです。「えー、そんなこと思っていたの?」って。うん、「だって、子どもだってね、必ずね、あの、親の介護するとは限らないのよ」って。「こんなに頑張っているのにそんなこと言うの?」っていうような感じでね。あの、「それ、当たり前だ」って言われたときがね、やっぱり、きつかったですよね。それで、「ひとりで大きくなったような顔をして」とかね。
まあ、あの、だから、母もストレスたまっていたんでしょうね。うーん、あの、デイサービス行ったりショート行ったりして、あの、ストレスたまっている。で、普段介護してもらっているときにはね、頻繁に「ありがとう、ありがとう」って言うんですよ。ですから、あの、感謝の気持ちがあっているんだけれども、あまりにも、こう、荒っぽくされたのが引き金になって爆発したんでしょうね。だもんだから、売り言葉に買い言葉みたいになっちゃってね。わたしもね、「そういうお母さんはね、自分の親の面倒みたの」って「みたわね」って「うそ八百、全然みてないじゃん」っていう感じで。
父のときもやっぱりねえ、そういうような会話で、ま、それぞれ1回ずつだったんですけど。まあ、本音トークといいますかね、まあ、「当たり前だ」て言われると、親は、子どもにね――ま、今度、自分が、介護される側になったときですよね――子どもにあんまり負担かけたくないなって、今、思っているわけなんですけど。んなもんだから、「親がそんなに100%子どもに甘えていいの?」っていうようなね、気持ちがぱあっと出たんですよね。うーん、で、ほんとは言っちゃいけなかったんだけど、そのあとですね。もう、「そんなこと言った覚えないわ」っていう感じで一生懸命やっている。もう、口から出たことは仕方ないから、うーん、一生懸命やって、ま、ご破算にしてもらうっていうことですかね。ま、それぐらいかな、うーん、あの、辛かったのはね。はい。
例えばね、同じ介護していても、あの、隣のおじさん隣のおばさん、うん、そういう人がだんだんだんだん悪くなっていく場合には、ああ、教科書に書いてある通りだな、本に書いてある通りに悪くなっていくんだなって、こう客観的に見れますよね。ですけれども、こと、自分の親になりますとね、感情がそこへ入ってしまって、いやあ、大変です。うーん、それで、よくなってもらいたい、元気になってもらいたいっていう期待感もあるし、あんなにしっかりしていた親がさ、「何でこうなるの?」って。「昨日できたことが何で今日できないの?」って。「昨日まで錠剤飲み込めていたのに、今日は錠剤飲み込めない。どうして水と一緒にのどへ行けないの?」って。「昨日、分かったトイレの位置がどうして分からないの?」って。「毎日通ってるところじゃない?」とかね、いろいろね、あの、自分自身も葛藤がある。
それで、あの、自分がこれから行く通るであろう道を見せてもらっているわけですから。自分も切ないんですよ。こうなっていくのかって。だから、元気になってもらいたい。よくなってもらいたいっていう期待感があるもんですから。こう、強く言いすぎるところがあるんです。ええ。声が大きくなったり、「そうじゃないよ、こうだよ」って。あの、母なんか補聴器両方しているんですよね。それで、寝るときは落とすもんですから、片側の補聴器はずして左だけの補聴器なんですね。で、それもあるんだから、しゃべるときの声が大きくなるし、ゆっくりは話しするようにはしているんですけれども、あ、会話が、やっぱりどうしてもとんちんかんになったりして。もう、ねえ、感情が入るから切ない。
―― デイサービスとショートステイを利用されていて、それ以外にご自宅にヘルパーさんが来たりということでしょうか?
それが、母が落ち着くまでは、ずっと使っていたんですね。あと、わたしが会社員のときは、使っていましたね、夜とかも遅かったりしたので。でも、わたしがフリーになって家にいることがばれ、ばれてはないんですが。そしたら、何か、今、そんなことはないっておっしゃる専門家の方もいるんですけど。何か、ケアマネの方に、「家族が、ずっと一緒にいるからヘルパーは使いづらくなります」とか言われて(笑)。ヘルパーなくなっちゃいました。「ずうっと家にいるわけじゃありません。取材に出たりとかするんですけど」と言っても、「今、娘さん、結構ずっといるじゃないですか」とか言われて、「えー」という感じでした。なので、今、フリーになって5年目ぐらいなんです。5、6年前ぐらいから、それまでは、週に3日、夜だけ来ていたのかな、ヘルパーさんが来てくれたんです。でも、そのときはデイサービスを使っていなかったんですね。作業所みたいなところに行っていたので。それは、また別の、介護保険じゃないほう(障害福祉サービス)だったので。だから、単位もいっぱい余っていたので、ヘルパーさんが来れたりもしたんですけど。で、ヘルパーさんをやめる代わりに、その作業所も行けなくなるなら、デイに行ったらどうですかっていうふうに、何か、こう、いろんなものが一気に切り替わった。
徐々に徐々にそういうサービスを使うようにしながら、私も、やっぱやりたかった仕事とかがあったので、20代をずっと、このままじゃ、お父さん看ていたら終わってしまう。せっかくこうやりたい仕事ができる会社に入ったのに、ずっとこの状態で、家のこともあったし、言えないし。あー、もう、やりたかったことが目の前にあっても、その一歩手前ぐらいの仕事しかやらせてもらえないし、やりたいって言えない状態が1年ぐらい続いていたので。何か、これじゃ、せっかく転職したのに意味がないなとか思って、少しずつそのサービス、介護サービスを…母親に、「いいよ、いいよ」とか言いながら、刷りこませて、ショートを利用させたりとかするようにもっていきました。
ちょうど母親のがんが発覚するほんとに2カ月ぐらい前に、転職を私もしていて、転職したとたん母の病気が分かり、で、新しい会社に入ったばっかりで、さらに母も病気になって、父もえらいことになっていたんだっていうので、もう、ちょっと、自分も大変なことになってしまっていて。会社のほうには、入社して早々なんですけど、こう、事情を話して、ちょっと融通が効くように、いきなり入って2カ月ぐらいなんですけど、融通が効くような働き方にしてもらいながら、何とか続けていたんですけど。それでも、やっぱり、いろんな事情で、ちょこちょこ会社に行って席着いてお茶を入れて始めようって思ったら電話がかかってきて、母親の病院に行かなきゃいけなかったりとか、父のために帰んなきゃいけなかったりとかあって。でも、ま、すごく理解のある会社だったので。あと、ほかにも、会社の中にそういう病気のご両親がいる先輩とかがいて、すごくサポートしてくれたので、何とか、何とか続けられたんですけど。実際は、そうとう大変でしたね。
入りたかった百貨店も、内定もらえたしっていうので、もう、かなりのんきに構えてたんですけど。どうしても百貨店業界とかだと、そこだと専門学校だったので、専門学校卒だと、額面でたぶん12、13万とかになってしまうので。だから、やりがいで選ぶっていう仕事だったんで、あの、そのとき、まさか父が倒れると思わなかったので、もうお給料安くても、自分がやりたいと思ってた仕事したいなって思って、で、一応、両親にも話をしたら、「あ、いんじゃないの」っていうことだったんで、「あ、じゃあ、そうするね」っていう話をしていて。もう結構、卒業間近のときですね、父が倒れたのが。
で、それだったので、母とも、さあ、どうしようっていう話をしてたんですけど、ま、でも、私が1回、そのせっかく、そこの会社に入れるって決まったんだったら、「行けば」とは言ってくれてたんですけど、それで、いずれやめなきゃいけないって分かってる、中途半端な状態で新入社員として入るのは、先方に失礼なので、ああ、じゃあ、もう、こういう理由なんでっていうので内定辞退して。で、それで、ま、単純に、何だったら稼げるだろうって考えて。最初トラックとか、いろいろ考えてたんですけど、まあ、ま、やっぱり免許取ってて、すごい運転好きだったので、ああ、でも大型取るのに時間かかるねっていう話で、もう今すぐに行って、うまくいけば来月から成果が出るものって何だろうと思ったら、もともと、その、百貨店でアルバイトしてたという、要は、接客が好きなんですよね、たぶん。人と話したりとか、そういうのは好きなはずなので、じゃあ、営業ってみようって思って、で、今、思えば営業力って、特に不動産業とかってノルマが本当に厳しいので、誰も、割とやりたがらないらしいんですけど、まあ世間知らずが、そこは効を奏したらしくって。で、行ってっていう感じでしたね。だから、そこでまあ、母にしてみても、父にしてみても、あのー、「どこそこの百貨店へ入るんだよ、うちの娘が」っていう話は周りにしてたのに、何かいきなし、何だかよく分かんない不動産屋に入っちゃったっていう話になってしまって(笑)、あれっていうふうにも、両親も思ってたみたいですけど。
母が倒れてしまったので、あの、私が今度、父も看なきゃいけないし、母も看なきゃいけないし、あと仕事もしなきゃいけないし、というような状態になってしまって。で、そういうときに非常に困ったなと思ったのが、あのー、1人っ子で、かつ娘だと、ケアマネージャーさんたちとかも、結構、「あ、お嬢さんが面倒みるわよね。女の子だもん、みるわよね」っていう大前提のお話されてくるんですね。で、そうすると、こちらも非常に板挟みの状態になってしまっていて、で、ただ、ま、父のほうはアルツハイマーの症状はどんどん悪化してきて、そのころはもう、しょっちゅう徘徊してしまう。もう警察にも3回お世話になっていて、GPS(人工衛星からの信号を利用して、対象者がどこにいるかを特定できる装置)も付けてても、GPSだけ取り除いて自分で出てっちゃうだったりとか、いろいろあった時期だったので、もうこれはしょうがないと思って。今度は私が、あの、介護離職をそのときすることになったんですよ。
余裕がなかったですね。何かこう、あまり自分がどうだったんだろうかって覚えてないぐらい、余裕がなかった、もうすごく…いろんなことが起こって、いろんなことがというか、その、父がいなくなったとか、だから、あのー、父親中心だったと思います。それが一番ですかね。なので、仕事をしてて、週末、介護をしてて大変だったって言っていただいたんですけれども、仕事が気分転換になるような感じですね。
帰ると、もう父中心になったりとか、働いてても電話がかかってきたりとかっていうことがありましたので、自分の生活っていうよりも、父中心になってしまってましたから。そこから離れられる、その、仕事っていうのは気分転換になってたと思います。と、その夫に対しても、迷惑かけてるっていう意識もありますし(笑)、ですね。
―― そうですね。
そうですね。なので、仕事で働いている時間帯は、同じような流れの中、ここはちょっといったんラインを引けますし、自分も客観的になれますし、ご家族の話聞きながらも、あ、そういうことなのかなって気持ちの整理もつけたので。なので、悪いほうばっかりでもなかったですけど、仕事が気分転換という感じだったので。