投稿者「dipex-j」のアーカイブ

認知症の語り

夫婦の間でどんな病気でも隠さず伝え合う約束をしていたので、夫と共に診断を受けた。帰宅後、夫から資料を渡され、ショックを受けたが、娘たちと家族で頑張ろうと話し合った

わが家では、主人と2人で、どんな病気でもお互いに知らせるっていうのは、主人と私の中で決まってたんですね。それで告知も、主人と一緒に先生から受けたんです。で、そこの中で、先生が、「ご本人さんが知ってるからやりやすい」って言っていただけたんですね。で、普通、隠しますよね。隠すと、この病気って言わないで何か違う病名をつけるじゃないですか。そうすると、それと違う行動やるから、本人おかしく思いますよね、普通だったらね。でも、うちの場合は本人も知ってる。それと、そういう知識があるっていうことで、一緒に告知を受け、それでそれによって、ずっと、進んできたんですね。
で、うちへ、告知を受けたときに、うちへ帰ったあと、自分の部屋からごそごそ探し物してるんですよ。で、何してるんだろうと思ったら、文献持ってきました。それで「僕の病気はこれだよ」って渡されたんですね。で、私の中でも、アルツハイマー病(アルツハイマー型認知症)っていうのは知ってますよね、名前だけはね。でも、最終的にどのようになっていくかっていうことまでは、はっきりは知りません。それと、まさか自分のうちにその病気が来るとは思ってもいませんでしたので、それを見たときにちょっとショックを受けますよね、やっぱり家族として。
で、その中には、今、原因が分からない。治る、治す薬がない。いずれは人として正常に生きていけるのは何年だろうという、5、6年。まだそのころ6、7年って言ったのかな、ぐらいは人として正常とは言わないけども、いけるでしょう。その後は、もう本当寝たきりの状態が続くでしょう。で、10年も生きれたらいいかなっていうような、文献まだ古いですよね、そのころっていうのは。まだいろんなことが分かってませんので。
で、それで、それを見せられたんですね。で、うちの2人の娘にもそれを見せました。で、言ったこと、子どもたちが言った言葉が「好きでなった病気じゃないんだから、思い出づくりをたくさんしよう」っていうのが、家族の言葉だったんです。で、そこで主人も、「お父さんもがんばるよ」っていうことで、それに向かって、あのー、泣いてわめいていって、治るんだったらできるんですけどね。でも、それでも病気は進んでいきます。だから、それだったら前向きに家族でがんばっていこうっていうのが、うちの家族の考え方だったんです。

認知症の語り

認知症のDNAはあると思うが、それ以上に父が亡くなって母一人となり、さびしい山奥に残したことが病気を進行させたのではないか。母に悪いことをしたと思う

だから、結局、要するに、うちのおばあさんのDNAはあったにしろ、あのー、おやじが死んで、僕なんかすごい反省してるんですけど、そういう山奥で(母が)1人になりましたやん。そこで社会との、その、父親の面倒見て、見なあかんという、すごい義務感があったけど、おやじが死んで、で、当初はまあ、そういう解放されたやろうけど、その後の、結局、誰ともこう、しゃべらんみたいなことが、ものすごい病気を進行させたと思うんで。僕はすごいそこはね、すごい悪いことしたなという、自責の念はあるんですけど。そのときに、やっぱりもっと、こう、どういうんかな、知識があればね。あのー、そのときにそういう知識がなかったから、ああ、あのしっかりしたおばあさんやから、ま、1人でも、普通にやってくやろうみたいな、軽い気持ちでおったんですけど、だからもう、それはものすごい悪いことしたなと思うてます、今は。

認知症の語り

早期に治療すればよくなると思っていたので、認知症と闘うことばかり考えていたが、今の医療では治すことが難しいとわかり、闘うより受け入れようと気持ちを変えた

気づいたときは、もう早く病院に行こうと。早期発見で、もう治したいっていう気持ちがすごく強かったので、治したいと思った瞬間に、早く病院に行って、病院でいい手当や、いい改善…、悪化をしないような処方をしてくれれば、良くなるというふうに思っていました。うん。で、そうですね、そこが一番強くて。何か認知症になったっていうことに関しても、まったく抵抗がなくて、あの、闘ってました、認知症と、最初。何とかしたいと。
例えば、がんだったら、それなりのまあ、お医者さんだったりとかによっては、治る可能性があるところもあるじゃないですか。だから、そういうのも含めて、そのー、やれることを早くやりたいと。悪化させたくないと。病気を…あのー、撲滅するじゃないですけど、病気に勝つっていう思いがすごく強かったので、受け入れないとか受け入れるとか、そういうことはまったくなかったですね。まあ、受け入れるんですね。受け入れた。受け入れたけど、闘うっていうイメージでしたね…うん。
ただ、今となってはいろいろ、こう、調べてみると、やはりなかなか難しい部分も、今の医療では難しい部分もあるので…うん。そういった意味では、まあ、何とか悪化させたくないなという思い、闘うよりも受け入れるっていうような感じで、あのー、気持ちを変えてきたっていうところですかね。

認知症の語り

若年性アルツハイマー型認知症と夫の病名がついて、病気自体はすんなり受け入れられたが、病気によって変化する家庭の雰囲気や夫婦関係などがなかなか受け入れ難かった

私、病気自体は、もうすんなりと受け入れられたんですね。その病気自体は別に隠すものでも何でもないし、変な病気でもないし、病気自体はまったく、私、もう、すぐ受け入れられて、あ、うん、全然気にならなかったんですけど。ただ、そのことによって家庭の雰囲気とか夫婦の関係とかがね、こう、暗くなったり、こう、こう沈んでしまうね(笑)、そういった部分がね、受け入れられなかったっていうかは。だから、それは本当は、彼の病気を十分、分からな、分かってなかったからだと思うんですけども、あのー、病気自体は受け入れられて、受け入れることはできたんだけども、それに伴うこう生活の部分がね。
うん、何ですかね、何か…。私はもう病気であっても、こう、楽しく、こう、何かね、日々を過ごしたいっていうのがあるんだけど、本人にとったら、そんな病気なのに楽しいなんてことは、多分ですね、あの、無理だったんでしょうけども、うーん。何か、その部分が受け入れられない部分だったというか、何かこう、病気であっても、何かこう、生活自体は豊かに、こう、過ごして、そのことによって、こう、自分たちの思いとか考えとか、人生をぺちゃんこにしたくないっていうのがね、何かあったので。たとえ病気であっても、こう、豊かに、楽しく、いろんな人と今までのようにね、あのー、人生を豊かに、過ごしていきたいなっていう部分が、うん、あったので。そうですね。さっき言ったように、病気っていえば受け入れられたんだけど、それに伴う、こう、日々のね、生活のなんかこう、そういった部分が最初はなかなか、うーん。

認知症の語り

当時は情報も乏しかったので、妻が50歳で診断を受けたときは非常にびっくりしたし、どうしようかと思った。いろいろ調べてもよくわからないし、仕事も手につかなかった

(妻が診断されたのは)50歳の時ですね、はい。

―― ですよね。そんなふうに診断を受けて、どんな、どのように感じられましたか。

ええとね、びっくりしました。非常にびっくりしたということと、7年、7、8年前ですので、まだあんまり、まだ、あの、特に若年性アルツハイマー病に関しての情報もまだ乏しいころで、なかなか…よく分からない部分もまだあったと思うんですけども。(受け入れるのが)難しい…難しく、すごくやっぱりショックで、いろいろ先生とも、これからどうするかという、まあ、治療方針とか、「リハビリをやってく中でそれじゃあ、ちょっと様子を見てこうか」ということで、話し合いましたけれども。
びっくり、まあもちろん、びっくり以上にやっぱりどうしようかと。どうしていいか、どうやったら、(少しでもよくなるのか)私、もうそういうふうに、だから、ま、ネットで調べてたころなんで、もうあと6、7年しか生きられないってなったら、どうしようかと思って。もう……びっくりという以上、びっくりじゃないんですね、やっぱりもうね。「どうしようか」ってところを毎日考え。…毎日、ほんとに、仕事も手につかない状態で。なに、どうしたら、進行を少しでも止められるのかな、とかばっかり考えているころで……。そればっかり毎日、毎日毎日(考えていて)やっぱり仕事、もちろん仕事もほとんど、まあもちろん会社には行ってましたけども、仕事は手につかないし、どう、ほんとにいろんなこと調べても、なかなかよく分からないし。ただ、出てくるのは、やっぱ6、7年とか、7、8年っていうばっかりで、そういう、もう寿命年数ひっくり返したような情報ばっかりで…焦って。まあ焦ったっていうのかな、焦りました、ほんとに。

認知症の語り

夫が若年性認知症と聞き、まさかと思った。食事もとれず、うつっぽくなった。3カ月くらい辛い時期が続き、1年くらいかかったが、いろんな出会いがあり、落ち着いた(音声のみ)

診断の告知というのが、うちの場合は、本人と会社の方と私といる前で、いきなり言われたんですよ、市立病院からは。で、あの、普通だったら、ま、「ご家族だけにしますか」とか、「本人はどうしますか」とか、聞いてから告知するんですけど、いきなり、もう3人の目の前で、ぱって「若年性アルツハイマーですね」って言われたんで、みんな、準備がない状況で(笑)。で、若年性アルツハイマーっていうこと自体も、そんなに、自分たちまさかって思うようなところがあって、知らなかったので、でも、うすうす認知症だなっていうのは分っていて。帰ってからいろんな、あの、ネットで見たり、書籍で、調べたり、友達とかに聞いたりとかして。それはもう治らない病気で、ま、そのころね、テレビも多かったんですよ、それに関する、えーと、いろんな番組特集でやられていたりとかしてたので、で、どうしてもテレビとか見ていると、とても、すごい大変なとこしか映らないじゃないですか。だから、ああなるんだろうなと思うと、もう、何かほんとにどうしていいか分らなくて、で、まさかっていう感じ。
で、自分、あの、主人の将来のこともそうですけど、子どもたちのことも考えたり、あと、ま、自分もどうしたらいいんだろうっていうところになって、毎日、ほんと、すごい後ろ向きな感じで、うつのように、ほんと、何でしょう、ご飯も食べれないし、何か吐きそうになっちゃったりとかして、ほんとに、おとうさん、あ、主人に対しても、毎日、めそめそしていたんです、私。うーん、それが、やっぱり、1カ月ぐらいありましたかね、うん。

―― どのくらいの期間がそこには必要、人それぞれかと思うんですけど。

やっぱり1年ぐらいですかねー。あの、特に一番、自分としてつらかったのは、告知されてから、私、3カ月はすごいつらかったですね。でも、いろんな出会いがあって、乗り越えられて今すごく割りと普通のペースになったのは、1年ぐらい前だと思うので、1年ぐらいは、やっぱりいろいろばたばたしていましたね、うーん。…逆にあれかもしれないです、こもらないほうがいいかもしれないです、家に。そういうことがあっても、…ほんとに前向きに外に出て行っていろんなところに参加してみると、そこで開けてくることいっぱいあるなって思います。うち、割とオープンなので。

認知症の語り

両親は二人ともよく体を動かしていたので、身体的な病気になることはあっても認知症には絶対ならないと思っていた

それで、まあ、2人とも、あの、認知症っていう病名をもらったんですけれども、2人とも、すごく働き者だったんですよ。で、母はね、朝早くから1人で玄関の鍵を開けて、そこら辺一周して、まだ、私たちが寝ているときにね、うーん、あの、そうやって体操したり運動したりしていたし。父は、畑仕事してたんですよね。ですから、、ま、からだ、身体的な病気はね、もらうことはあるだろうけれども、脳に関する病気ですね、それがねえ、あの、もらうとは夢にも思わなかったです。ええ、あれだけ、子どもたちがいないから緊張して生活していますでしょう。で、もともと、からだも動かしていたから、絶対に、うちの両親はね、認知症にはならないんだわって思っていたんですよね。

認知症の語り

以前は情より知という感じの人だったが、今は何かにつけ「愛しているよ」と言う。二人のなれ初めや子供の名前を誰がつけたかなど聞いて、原点に返っているようだ(テキストのみ)

基本的には、結構理屈っぽかったり、筋を通さないと気がすまなかったり、そうですね。情よりも知のほうみたいな感じだったと思いますね。……あ、今は、しょっちゅう何かにつけて「愛しているよ」って言うんですね。でも、わたしが無理やりつかまえて、シャワーをお風呂場でわぁーっとかけていると、「ああー」って反抗しながら「ママ愛してるよ」とか言うんで、「ちょっと待って」って。最近は、ちょっと、その大あばれを封じるためにふっとね「わたしを愛している?」って聞くと「愛している」って言うんで、びしょ濡れのままで。「あ、じゃ、いいわ」っていう感じで(笑)。何か、今朝も笑いながら、ご機嫌よくて「愛しているよ」って「ママは僕のこと愛しているの?」って言うから、「いやあ、どうかしら」とかね、「どうにかこうにか」とかね、いろんなね、「しょうがないし」とかいろんなこと言ってて。「え、それはどういうことだ」とかいろいろおろおろしたりしていますけども(笑)。すごく、何か、そういうことを簡単に口にするようになったんですね。何か、人をほめたいのかなあって、うーん。

―― それは、今まではなかったんですか。
そんなことなかった。愛なんて言葉、全然言わなかったですね。それとか、「普通、夫婦は、愛情があるもんだよね」とか言うんですね、今、今でも。「で、僕らは、誰の紹介で知り合ったんだっけ」とかいろいろ言うんですね。だから、すごく、「愛し合っているから夫婦になったんだよね」とか。ほんとに何か単純になってきている。ストレートっていうんでしょうかね。絆というのか。「子どもたちもかわいいしね」とか「2人ともかわいいね」「長女と長男の名前は、誰がつけたんだっけ」とか、ほんとに原点にかえっているような。

認知症の語り

夫は不安はあるとは思うが、心配したりおびえたりすることはなく暮らしている。昔は言わなかったが、今は「結婚して良かった」と言ってくれることもある(音声のみ)

―― うん、奥さまから見て、穏やかで。ま、もちろん時々いろんな不安はあるかもしれないけれども。

はい。

―― 全体的に毎日こう、おびえているとか、心配とか、そういうことではなく?

そういうことは、はい。あの、あんまり心配とかね、おびえるっていうことは、一切ございませんね。それはありがたいことだと、私も思ってます。ですから、そういう意味で、あ、夫と、あの、一緒…結婚してよかったというふうに感謝もしてますし。夫のほうもそういうふうに、たまに私に言ってもらいましたから。あ、うん。それは昔は言いませんでしたけどね。最近、そんなふうにね、あの、良かったってね、言ってくれるときがありますから、まあ。

認知症の語り

妻の下の世話をしているときに頭をなでてくれるのはありがとうの意味だろう。妻は言葉には出せないが、自分が介護で愛を注いでいることはわかってくれていると思う

―― ご自分はそうやって一生懸命、愛情を注げてるっていうふうに思ってらっしゃって、それで奥さまのほうはそれに対して、受けてくれてるっていうふうに思うのは、やっぱり何かこう、注いだ分だけ、やっぱりこう、良くなったりとか、反応があったりとか、そういうことが感じられる?

そうですね。やっぱり、その、まあ、顔、表情の変化も確かなんですけどね。私がいないとね、やっぱ不安に入ってるときも結構あるんですわ。だから、ま、自分で勝手に思ってることかも分からへんけども、まあ、私がこう、移動するたびに、こう、追っかけようとする。家内が、自分が立てないにもかかわらず、私がこう、部屋から出ようとするときはこういうふうな形になって、やっぱり自分も一緒に行こうっていう、そういう仕草が見えるのが特にかわいいですね。うーん。
で、下の世話したときは、頭、こう、なでるようにね。こう、私、下の世話するとき、こう、かがんででるから、頭なでるようにこう、こう、動かない左手はあれですけど、右手でこう、頭なでてくれたり、こうするときがあるんですわ。で。

―― 奥さまがなでて。

そう、そう。家内が頭をなでてくれる。それが、ものすごくうれしいてね。「ありがとう」っていうことになるんやろうなと。言葉では出せないけど、体でこう、手で示してくれてるのかなとか。そういうのが、ま、自分が今、家内に介護を愛で注いでいる分、家内、愛で受けてくれてるんのかな。が、こう、分かってきてんのかなと思ってますね、今。