投稿者「dipex-j」のアーカイブ

認知症の語り

父が真夜中に外に出ていくことが何度か続いておかしいとは思ったが、記憶力や判断力に何の問題もなかったので、認知症になるとは思ってもいなかった

ある日、夜中に、父が、もう夜中の2時ごろに玄関で音がしたので、それで出ていったら、父が、コートも全部、冬だったんですけど、あの、コート着て、外から帰ってきてたとこ(笑)、だったんです。それで「どうしたの」って言ったら、「いや、ちょっと」って言って、ごまかされて。で、おかしいなと思って、でも父は寝ちゃったので、翌朝聞いてみたら、「いや、何だか分からない、現場に行こうと思った」って、仕事の。で、「でも、夜中なのに」って言ったら、それは全然自分は分からなくて、「現場に行こうと思って外に出て行ったんだけど、角まで行って気が付いた」と。あれ?と思って、で、戻ってきた。で、それが1回目ですね。初めて、その、何かあったかなっていう感じ。
で、次のときも、また出てって、で、タクシーを止めようとしてるところだったんですね。それも、私がたまたま、あれ?と思って追っ掛けてって、「どこ行くの?」って言って、で、また「現場に行かなきゃいけない」。それで戻ってきて。で、それがあって、ちょっとおかしいなと思ってたら、父自身も、おかしいなと思って、何だか変だなと、でも、記憶、ほかの記憶力とか判断力、理解力は何も問題ないので、そのときにもう、自分の親が、あの、認知症になる――当時は痴呆って呼んでましたけど――その、痴呆になるっていうことは、全く考えて(ない)、頭の片隅にもなかったですね。全くなかったですね。

認知症の語り

最初に幻視で猫がいると言ってやさしくなでているのをみたときは、まさか動物霊ではないかとお祓いをしてもらった

2009年の終わりくらいに、あの、「ちゅ、ちゅ、ちゅ」ってあやすんですよね、足元で急に。手をこう、手の、目の前に出して「ちゅ、ちゅ、ちゅ」ってやってるから、「どうしたの」って言ったら、「猫が来た」って。で、猫が今、足元にね、まとわりついてるって。で、そのうち、「嫌だ、何言ってんのよ」って、最初は。「猫なんかいないわよ」って。「そう」って言いながら。昔飼ってた猫でも遊びに来たのかなって、あの世から、なんて思ってたんですね、冗談で。そしたら、そのうち「今度、親子で来たよ」って。で、何かこう、足にすりすりしてるって。本当ね、優しくなでてんですよ。まるでそこにいるかのように、もう、なでなでするんです、こうやって。リアルだったんですよね。
でも、まさか動物霊じゃないでしょうか、みたいな。友達にも、そういう災いがあるといけないからっていうことで、一応、お祓いとか、そういったこともするんですけど、いったん落ち着いたかのように見えたら、そのうち動いてる物が虫に見えたり、それからバシバシ体じゅうを叩いてるんですよ、ほくろという、ほくろをね、手足。で、赤く腫れるんですけど、「どうしたの」って聞いたら、あのー、「くわれて痛い」とか言いますよ。「やっつけてる」とか。で、だんだん過激になってきて、そのうちハンガーをこう、ベッドのね、白いシーツの上にほいっとか置くと、「動いてる」と、「蛇に見える」。ハンガー2つ重なって置いたら、今度は「とぐろを巻いている」。どんどん、いわゆる幻視とかですね。指先からこうやって、いつもひもをこう、引っ張るような。で、「何?」って言うと、指の先から、ひものような糸が、光るようなものが出ていて、これが気になってしょうがないから、しょっちゅうこれをやるんです。

認知症の語り

夫はよく夜中に寝言を言って暴れていた。企業戦士でストレスがたまっていているからだろうと思っていたが、レム睡眠障害(※)と思えばつじつまが合う

もっとさかのぼると、例えば、旅行先行っては、夜中に暴れてというか、本人は正義の味方で、バタバタっと何か夢心地に誰かをやっつけてるんですね。「危ない!」とか言って、みんなを守ってやっつけてるらしく、起きたら、手が血で、シーツが、赤く染まってるってことがあって。男性チーム、女性チームでお部屋が分かれるんですけど、同室の仲間たちも「どうしたんだ」って。で、本人は冗談でね、「いやー、よく夜中、寝言で暴れるんだね」って、「もうお前とは寝ないよ」って冗談で言われるくらいだったんですけど、それって、レム睡眠障害の1つの事例だったんだなって、後々になって(わかった)。まだレビーのレの字も分からないころにそういうことがありました。
かと思うと、「危ない!」と夜中に叫んで、「どうしたの?」ってびっくりして、主人のとこに手をちょっと差し出した瞬間に、ガバッとくわれて。「私だから」って言うんだけど離さない、かみついて。もうすんごい力ですよ。で、本人は、やっぱり暴漢が来たからやっつけてるって。「危ないから、危ないから」って、「来ちゃ駄目、来ちゃ駄目」って、もう叫びながら、またかむわけですよ。「それ、私の手だから」って言って、やっとの思いで外したときにはもう、食い込んで、いまだにその後がついてるんですね。ここんところにですけど。そういうことも起きたり、これもまたレム睡眠障害だったんだなって。夢と現実の違いが分からず、たいがいが何かが襲ってくるのをやっつけてるっていう、正義の味方。何かスーパーマンとかウルトラマン的な、そんな状態でいましたね。
だから、大きな声、夜中あげてることはその後も頻繁だったんですよ。したら、単に、その当時は、ああ、寝言も激しく言う人なんだなとか。ストレスためてるんだなとか、当時、企業戦士として、コマーシャルが「24時間、戦えますか」っていうコマーシャルが、あの、団塊の世代のね、社会、その、世の中をこう、支える、1つの企業に、終身雇用で支えて勤めるっていうのが主流だった時代の中で主人も育っているので、そんな中で戦いまくっていたので、企業戦士として、昼。あ、夜も、そのストレスできっと、発散してるんだろうくらいに思ってたんですけど、でも、ひもといていくと、ああ、7年前のあれも、10年前のあれも、やっぱりレム睡眠障害だったんだなって。後んなってから、つじつまが合いました。

認知症の語り

好きな食べ物を子どものようにねだる夫に対して、冗談半分で「前頭葉が委縮しているんじゃないの?」と言ったが、検査を受けたら本当にそうだった(テキストのみ)

むしろ、食べ物に何でも、ポン酢をかけて食べるとか。わがままな行動が多くなってきたので、その、「どうしても、お肉をもう一切れくれ」、食事のときに「お肉をちょうだいよ、ちょうだいよ、ちょうだいよ」と。で、娘が、もうほんとに嫌になって、「もう、わたしのあげるから静かにしてよ」っていうようなこともあって。それを、もうお箸でぐあっと、こう、突き刺して食べるような、ほんと子どもみたいなところが出てきて。あのー、わたしが冗談半分に「パパ、もしかしてそれ、前頭葉が委縮しているんじゃないの」と。そういう前頭葉が委縮すると、あ、抑制がきかないというのは、何か、何か知識としてあったもんですから。冗談で言っていたぐらいだったんですけども。それが、ま、結果的には検査を受けてみたら委縮していたというので、そうだったんだなということがありました。ええ、はい。

―― それは、いつぐらいのことでしょうか。

そうですね、診断を受ける前、1年ぐらい前ですかね。

認知症の語り

父がつけていた日記に、頭の中にもう1人違う人がいる気がすると書かれていた。昭和世代の人なので不安を表に出すことはできなかったのだろう

たまたま、父の日記がこう、開いた状態で、手帳なんですけど、開いた状態でたまたま置いてあったのが見えてしまって、見てたら、自分が脳梗塞で倒れてから、うすうす、やっぱり本人が一番早く気づいてるみたいなんですよね、「おれ、おかしい」っていうのに。で、今日は、「娘と自分の妻がお見舞いに来た」っていうのも書いてあるんですけど、書いてある同じ日のところに、「大学時代の後輩が来たんだけれども、自分の病室に置いてある花を持っていってしまった」みたいなことも書いてあるんですよ。でも、実際、来てないんですね、そういう後輩の方は。
で、それとかので、だんだん父も、意識が正常のときっていうんですか、正常のときに見て、あ、何かおかしい、何かおかしいって、やっぱり気づいてたらしくて。で、それこそ、車で事故起こしてしまった、駐車場で事故起こしたときだとか、あとは本当に幻覚が見えてきてしまってるときとかに関しては、日記のほうにやっぱり、たぶん「何か、おれの頭の中にもう1人、違う人がいる気がする」っていうところは、やっぱり書いてたんですね。で、ああ、書いてたんだと思って、あの頑固な父なので、不安な気持ちとか言ってくれればいいんですけど、不安さとか、そういうのはやっぱり全然出せない。もう昭和の、堅い人なので、出さずにいたので、自分で、そう書くことで、そこの中で解決しようとしてたみたいなんですけど。

認知症の語り

義母は娘を突然亡くした後、ちょっとうつっぽくなっていたので、どこから異変が始まったのかわからない。医師からは「老人性うつ」とも言われていた(テキストのみ)

―― どのような形で最初、お母さまの、異変に気づかれましたか。

えっとね、もう何か、うつ、うつっぽかったんですよ。きっかけは、あのー、主人の姉が39歳のときに亡くなったんですよ。肝炎にかかって、それで急に亡くなったんです、劇症肝炎になってしまって。それが、姉が39歳のときで。それからちょっと、うつっぽかったんですよね。あのー、それで神経科とかにかかってて、それでずーっと来たので、その異変ていうのが、どこから異変ていうのか分からなくて。何か、すごく神経質な人だったので。例えばもう、1つどこか悪いとなると、病院をあちこち行くような感じの人なんですよ。それでまあ、神経科とかも1人で行ってたので。ちょっと気がつくのが遅かったんだけど、その延長線かなっていうのは、今思うとあります。
それでまあ、私も知り合いの方とかと話してて、そこのお姑さんも、あの、認知症にかかってて、いい先生っていうのをちょっと紹介していただいたので、そこに行くようになってから、何か「老人性うつから来るものだ」って言われてたので、その先生は「認知症」っていう言葉は使ってなかったですね。

認知症の語り

妻がべろが痛いと言い出したのは10年前で、その頃がどうも始まりかなという感じがする。それからもの忘れが始まって診断に至った

えーっと、もう…10年ぐらい前ですね、前からね、あの、べろ、べろが痛いということからね、もう大変で、もうどこ行ったらいいか分からんで、まず主治医から、それから向こう行ったり、こっち行ったりして。それで…赤十字、日赤、そこの病院行って、ある科、全部回って調べてもらってやったけれども、このべろの痛いのが、それも毎日、朝から痛いんじゃなくて。そうですね、時間的にいうと、最近の、うーん、時間でいうと3時ころ。また、うーん、夜寝るときぐらいかな、最近はまた、朝痛いっていうこともあるんですけど、それが痛いっていうのは、「どこが痛いんだ」って言うけども、べろ出して、あのー、「べろ全体が痛い」ということでね。まあ、ビリビリするっていうのかな、そんなことで、えー、始まったのが、そもそものどうも始まりかなという感じがして。
以来、ずっとそういう状況が続いてきて、15、16年ごろから、まあアルツハイマーと、もの忘れというような状況で、もの忘れが始まってきたんですよ。だから、なかなか状況が分からなくてね。おまえ、最近もの忘れが、うん、あるなという感じでずっと来て。それで16年かな、16年に先生と出会って、あ、あのー、あれですよ、うーん、「じゃあ、僕んとこへ来たらどうか」と、こういうことで、あの、病院へ行って、以来ずっと、先生のお世話になってるんですよ。

認知症の語り

急に父のもの忘れが増え、睡眠時間が長くなったように感じていたが、ある日帰宅するとベッドのそばで転倒して、血まみれになっていた(音声のみ)

えーと、いつごろかっていうのは、はっきりしないんですけど。えー、から、あの…平成の、あ、平成じゃないや、2010年ぐらいから、えー、だんだんと、こう、もの忘れっていうか、「あれ、変なこと言うな」なんていうのは気づいたんですけど。えー…で、それから…そうですね、10年…だいたい、睡眠時間がだんだん長くなってきたようなのを覚えてますね。ええ。それで、秋口から、あのー、免許証だとか、「あれ、どこ行っちゃったんだ」、「どこ行っちゃったかな」とか、探す時間が長くなって。そうですね、秋口あたりから急激に、急激にっていうか、こう、分かるようになりましたね。だから、1日こう、電話した所に、また同じ人に電話をするとか、あったから、ええ。変だなと思って。
で、10月ぐらいに…転んでけがをして、あのー、近くの病院に、ええ。行って、何針か縫ってもらったんですけど。そのときは、うーん、それだけで…えー、ほとんど普通の、またその後も普通の生活してたんですね。それから…12月の18日に、えー、ちょっと忘年会だったんですけど、帰ってきたら、あの、廊下に倒れてて、ベッドに行く、自分のこの、いつも寝てるベッドの5メートルぐらい手前で倒れてて、ええ。えー、そこであれですね、そのときにガラス2枚か3枚ぐらい割っちゃって、ええ。出血も、血だらけっていうか、周り中がもう血だらけで、ええ。えー…で、救急車呼んだんですけど、もうほと、あの、しゃべるのはしゃべれなかったですね、そのときは、ええ。 

認知症の語り

自分が旅行に出かけているうちに、母が弟に電話をして、自分が家のお金を全部持って逃げたと言ったことが、決定的な大事件だった

決定的なことが起きたのは、わたしがあの、ビワのお灸をしに、ちょっと九州の方まで行ってたときのことなんですけども、あの、母のことが心配で家に電話しましたら、弟が出たんですね。で、珍しいんですよね、弟が家に戻っているっていうことが。で、「どうしたの」って言ったら、「おまえこそ何してるんだ」って言ってね。それでね、「あの、有り金、うちのね、有り金を持って、おまえが逃げたことになってるぞ」って言われ、言われたんで(笑)。それで、「ええっ?!」ていうことで、「こう、こう、こうで今、九州に来てるんだよ」って言ったら、「そうか」っていうことになったんですけども。
弟もね、初めて、何か母から電話があって、「お金がない」って。あのー、わたしが持って逃げたっていうので、あの、慌てて来てたんですよね。で、その時に弟が母から聞いたことは、あの、孫もね、その時一緒にいたんですけども、あのー、朝起きてみると、そのー、孫がね、たんすの前にいてお金がなくなってたとかね、そういうことを言って。弟、信じてたんですよね、それをね。で、そのころはもう、うちの息子も、あのー、母がご飯もあんまり作らなくなってたんで、っていうか、いっつも同じものを作って食べてて、あれは栄養失調になってしまうっていうことだったんで、一緒に住んでもらってたんですけどもね。(息子が)自分で帰りに買い物をして、ご飯作ってるんだよって聞いてたのに、その、母が作っててね、そのー、何ていうの、食事代も出さないって、言ってたんですよね。
で、そういうことが、で、弟はね、にわかには信じられなくて。もう何かわたしと息子がね、あの、わたしの息子がね、ひどいやつだと思ってたんだけど、で、新聞の記事をね、2回続けて見たんだそうですよ。で、そういうことが書いてあって。一緒にいる人のことをね、すごく悪く言って、なんだけど、それは本人の、あの、病気がそうさせてるっていうの見て、そうなのかっていうことで、やっと納得したっていうのが、あのー、一番のその、大事件ていうか。私にとっては大事件だ(笑)。はい。

認知症の語り

父が亡くなって一人暮らしをしている母を訪ねたとき、いつもと様子が違う感じを受けたが、1年ぐらいは気のせいかと思ってそのままにしていた

3、4年ぐらい前、父親が亡くなって2年ぐらいたったころですね。あの、6年ですから、3、4年前。しっかりした母親やったんですよ。ところが、何か様子がどうも。もう、だから1人やったんですね、父親亡くなって。もうまったくの独居で、1人で暮らしてるときに、訪ねていったときに、どうもいつもと様子が違う感じを受けたんですね。
それで、あのー、それでも1年間ぐらいは、ま、気のせいかな、今日は体調が悪いのかなとか思ってたりして。でもちょっと、これ、ちょっとおかしいなと思って、3年ぐらい前にわたしの住まいの近所の、一応認知症の、あのー、専門医があるんで、あの、町の、個人の病院なんですけど、母を連れて行ったんですよ。で、そこで、もう問診の段階で認知症っていう感じで言われまして。ただ、確定診をするために、あのー、血流の検査を受けに行きました。で、検査結果がもう、アルツハイマー性の認知症っていうふうにそこで診断されました、はい。