診断時:53歳
インタビュー時:57歳(2015年12月16日)
夫と子供の3人暮らし。2009年頃から、うつ病を疑いメンタルクリニックに2年半ほど通院した。幻視が見えるようになり、2012年1月に夫の勧めで認知症専門医を受診し、SPECTなどからレビー小体型認知症と診断された。数の違いがわからなくなり仕事に支障をきたすようになっていたため、診断直後に退職した。現在は、市のオレンジカフェでスタッフとして当事者支援にあたっている。活動を通じて社会の一員でいられる、まだ生きていていいんだと思うことができている。
プロフィール詳細
K.H.さんは、夫と子供の3人家族で、レジチェッカー(スーパーなどのレジ係り)として働いていた。2009年頃から、朝起きられなかったり、人混みで気分が悪くなったりして、うつ病を疑いメンタルクリニックに2年半ほど通ったが症状は一向に改善しなかった。幻視が見えるようになったことを夫に伝えると、すぐにレビー小体型認知症を疑い、専門医を探してくれた。夫はかねてより、K.H.さんの父親がパーキンソン病であることを懸念して色々と調べていくうちにレビー小体型認知症を知ったようだった。
2012年1月、脳血流の画像診断SPECTなどからレビー小体型認知症と診断された。病名がついたことでK.H.さんは一瞬ホッとしたものの、夫からは「俺の老後はどうなるんだ」「お前がうつ病の薬を飲んだからそういう病気になったんじゃないか」と責められる日々が続いた。担当した専門医は2ヶ月後には大学病院に戻ることが決まっていたので、通常なら症状の安定を優先するところ、初受診でソーシャルワーカーをつけてくれるなど、生活面の安定を優先して考えてくれて、とてもありがたかった。
11年間、レジチェッカーとして、正確さには自負を持っていたが、メンタルクリニックに通うようになってから人と接することの少ない仕事に転職した。新しい職場では数の違いが急に判らなくなり、うっかりミスとしてその場を切り抜けたものの、認知症であることを知られる前にと、診断後すぐに退職した。
レビー小体型認知症の治療を始めてパニック障害のような症状は改善されたが、幻視は続いている。1日のなかで気分の波が激しかったり、血圧も不安定だったりするが、今の主治医も診療時間はゆっくりとってくれ、こちらに合わせた治療をしてくれるので満足している。今は、足の裏にスポンジが張り付いたようなフワフワ感が気持ち悪く、気になっている。
料理の段取りが分からなくなった際に、夫から「まだ脳がなくなったわけじゃないから、脳を使うようにしなさい」と言われた。それからは、午前中にその日の献立や買うものを書き出して、午後早めに1品ずつ作り始めるようにしている。作ったものは冷蔵庫に入れてメモを残して、次の一品にかかるという繰り返しで、疲れの出る夕方には簡単な1品を用意するだけで済むようにしている。診断以降、調理器具や洋服など、なんでも必要最低限のものだけを残して、自分で混乱せずに管理ができるようにした。今までと同じようにと思うとできないことも多く、気が滅入ることになってしまう。認知症と診断されたら「第二の人生」と受け入れ、早い時期から「ものごとを後回しにせずに、今処理すること」を身体で覚えるようにしたり、できなくなったことは片意地張らずに、ちょっと手を借りたりしていくことが必要だと思える。
K.H.さんは、現在、市の運営するオレンジカフェで、スタッフの一員として認知症やMCI(軽度認知障害)当事者の支援活動をしている。こうした活動は、現在K.H.さんのパートナー(支援者)である元大学病院の看護部長の勧めがきっかけとなった。「本人から発信しなくてはいけない」と、彼女に引っ張られるようにして始めたが、今は自分のためにも積極的に取り組んでいる。当初は、当事者の立場から家族介護者に向けて話す機会が多かったが、次第に当事者から「本人に会いたい」という要望も増えてきた。
相手になにかを伝えるためには、自分の心を整理しなくてはならず、心が整理できるとだんだん落ち着いて方向付けができてくる。それが脳を鍛えるのに役立っていると思う。「また、会いたいです」と、互いに言い合えることで、社会の一員と感じられ、まだ生きていていいんだと思えるようになった。支援活動は、誰かのためにというよりも、自分のためにしていることに気づいた。こうした活動には家族も好意的で、応援してくれている。
2012年1月、脳血流の画像診断SPECTなどからレビー小体型認知症と診断された。病名がついたことでK.H.さんは一瞬ホッとしたものの、夫からは「俺の老後はどうなるんだ」「お前がうつ病の薬を飲んだからそういう病気になったんじゃないか」と責められる日々が続いた。担当した専門医は2ヶ月後には大学病院に戻ることが決まっていたので、通常なら症状の安定を優先するところ、初受診でソーシャルワーカーをつけてくれるなど、生活面の安定を優先して考えてくれて、とてもありがたかった。
11年間、レジチェッカーとして、正確さには自負を持っていたが、メンタルクリニックに通うようになってから人と接することの少ない仕事に転職した。新しい職場では数の違いが急に判らなくなり、うっかりミスとしてその場を切り抜けたものの、認知症であることを知られる前にと、診断後すぐに退職した。
レビー小体型認知症の治療を始めてパニック障害のような症状は改善されたが、幻視は続いている。1日のなかで気分の波が激しかったり、血圧も不安定だったりするが、今の主治医も診療時間はゆっくりとってくれ、こちらに合わせた治療をしてくれるので満足している。今は、足の裏にスポンジが張り付いたようなフワフワ感が気持ち悪く、気になっている。
料理の段取りが分からなくなった際に、夫から「まだ脳がなくなったわけじゃないから、脳を使うようにしなさい」と言われた。それからは、午前中にその日の献立や買うものを書き出して、午後早めに1品ずつ作り始めるようにしている。作ったものは冷蔵庫に入れてメモを残して、次の一品にかかるという繰り返しで、疲れの出る夕方には簡単な1品を用意するだけで済むようにしている。診断以降、調理器具や洋服など、なんでも必要最低限のものだけを残して、自分で混乱せずに管理ができるようにした。今までと同じようにと思うとできないことも多く、気が滅入ることになってしまう。認知症と診断されたら「第二の人生」と受け入れ、早い時期から「ものごとを後回しにせずに、今処理すること」を身体で覚えるようにしたり、できなくなったことは片意地張らずに、ちょっと手を借りたりしていくことが必要だと思える。
K.H.さんは、現在、市の運営するオレンジカフェで、スタッフの一員として認知症やMCI(軽度認知障害)当事者の支援活動をしている。こうした活動は、現在K.H.さんのパートナー(支援者)である元大学病院の看護部長の勧めがきっかけとなった。「本人から発信しなくてはいけない」と、彼女に引っ張られるようにして始めたが、今は自分のためにも積極的に取り組んでいる。当初は、当事者の立場から家族介護者に向けて話す機会が多かったが、次第に当事者から「本人に会いたい」という要望も増えてきた。
相手になにかを伝えるためには、自分の心を整理しなくてはならず、心が整理できるとだんだん落ち着いて方向付けができてくる。それが脳を鍛えるのに役立っていると思う。「また、会いたいです」と、互いに言い合えることで、社会の一員と感じられ、まだ生きていていいんだと思えるようになった。支援活動は、誰かのためにというよりも、自分のためにしていることに気づいた。こうした活動には家族も好意的で、応援してくれている。
インタビュー本人13
- 最初うつ病を疑い、メンタルクリニックに2年半ほど通ったがよくならず、幻視が見え始め、夫がレビー小体型を疑い専門医を探してくれた(テキストのみ)
- 診断をした医師は、病状より生活面での不安に対応することを優先して、次の医師に引き継いでくれた。とてもありがたかった(テキストのみ)
- 時間の深さがわからない。夢で見たことも、現実に起きているのと同じように感じる。数も「1」と「10」の違いが分からなくなった(テキストのみ)
- 幻視や幻聴は見たり聞いたりしたが、父がパーキンソンで、幻視のことは知っていたので、怖いというイメージはなかった。疑って見ているので、案外冷静に捉えている(テキストのみ)
- パニック症状のようなものは改善されたが、いまは急に気分が悪くなったり、スポンジを踏んづけて歩いているようなフワフワ感が気持ち悪い(テキストのみ)
- 認知症になったら初期の段階で、悩む前に仲間とつながってほしい(テキストのみ)
- 50歳ちょっとで認知症となり、周りにばれたくなかったし、認知症のせいで辞めさせられるのはプライドが許さず、診断後早々に退職してしまった(テキストのみ)
- 認知症になったからといって受け身ではいけない。いずれできなくなる日まで、できることを精一杯がんばろうという気持ちを捨ててはいけない(テキストのみ)
- できなくなったことも現実、これから先のことも現実。落ち込んでいる自分と、前向きな自分、どちらを見たいのかは自分が決めることだと思う(テキストのみ)
- 本人の声が一番響くとということで、認知症サポーターの講習も受け、市の運営するオレンジカフェでスタッフとして参加している(テキストのみ)
- 認知症である自分が、本人や家族の支援をすることで、「社会の一員でいられる」「まだ生きていていいんだ」と思うことができる(テキストのみ)
- 夫も当事者支援活動に理解を示し、息子も赤ペン先生をしながら、講演の手書き原稿をパソコンで打ち直し、応援してくれている。私が元気でいるからだろう(テキストのみ)
- 家族は手伝いすぎないこと。代わりにすることが依存を生む。見守って、本当に出来そうにないときだけ手伝うようにして欲しい(テキストのみ)
- 認知症になったら、第二の人生と考えて、状況を受け入れ、まずは今までの人生を切り離すことをお勧めしている(テキストのみ)
- 動作が遅くなるなら時間をかけて、道具は最低限のものを残してと、今の状態に対して足し算引き算で考えていく(テキストのみ)
- レビー小体型認知症は薬に敏感なので、医師と相談しながら何度も薬の種類や量を調整した。今は、アリセプト5ミリで落ち着いている(テキストのみ)
- うつ病の治療薬は精神を安定させる薬のなかでも軽い薬だと説明を受けたが、夫は服薬が症状の進行を早めたのではないかと今でも疑っている(テキストのみ)
- 飲み忘れや飲み間違いが続いた時に、「なぜ、できないのか? 何のために飲んでいるのか」と、自分に問いかけた。意識を集中することで、飲み忘れをしなくなった(テキストのみ)
- 相談に乗ることが、自分にとっても良い結果につながっていく。何かを伝えるためには、心を整理しなくてはならず、それは脳の活性化にもつながっている (テキストのみ)
- 認知症になったことをカミングアウトして、本音で愚痴を言えるパートナーが1人でもいたらいい。そこから仲間の輪が広がっていくと思う(テキストのみ)