インタビュー時:60歳(2010年5月)
関係:夫(妻を介護)
診断時:妻50歳(インタビュー本人03)、夫52歳
2003年に妻が若年性アルツハイマー型認知症と診断を受ける。夫婦2人暮らし。妻の介護のため、グラフィックデザイナーの夫は、仕事場を自宅へ移すことにした。現在は家事援助で訪問介護のヘルパー週3回、自立支援で週1回外出支援を活用して、自宅で仕事をしながら介護している。治験に参加し、八味地黄丸や個人輸入のメマンチンなど良いと言われることはいろいろと試している。
プロフィール詳細
F.B.さんはグラフィックデザイナーで、首都圏のマンションで若年性アルツハイマー型認知症の妻と暮らしている。子どもはいない。
2002年11月頃、最初に異変に気付いたのは妻で、何か違和感を覚え、病院の精神科にかかった。半年後、疑われたうつ病ではないと診断され、大学病院の神経内科を紹介された。そこで、受診から3カ月後に「若年性アルツハイマー型認知症」と診断された。
その頃にはすでに妻に記憶障害がみられるようになっており、父がアルツハイマー型認知症で介護施設にいたF.B.さんは、ある程度の覚悟はしていた。しかし、当時、「若年性アルツハイマー型認知症」に関する情報は極めて少なく、どれも「進行が早く、6~7年で全過程をたどって寝たきりになる」といったものであった。「どうしたら進行を食い止められるのか」と日々仕事も手につかず、ネットで情報検索をする日々が続いた。
その後、1つ障害が出たらその障害をストップさせようと、F.B.さんは病院の臨床心理士にあれこれ相談して、妻の脳の機能回復訓練を開始した。1年ほど続けたが、妻が「つらいつらい。やりたくない。死にたい」と苦痛を訴えたために断念。協力してくれた臨床心理士に申し訳なくて、それを機に先進的な情報の入る大学病院の専門外来に転院することにした。
F.B.さんは、それでも良いと言われることはできるかぎり取り入れたいと考えており、妻を治験に参加させ、個人輸入でメマンチンや漢方の八味地黄丸も服用を試みている。
2010年春、F.B.さんはデザイン事務所を撤退。自宅で仕事をするようになり、妻と24時間一緒にいる暮らしを始めた。それまでの3,4年の間、妻はヘルパーさんが帰った後、テレビの前で7~8時間ただずっと座って不安や焦り、恐怖感を感じていたかと思うと、過酷であったろうなと、そのことに気付かなかったことに後悔している。
どういうケアをすれば妻が穏やかに暮らせるかが、F.B.さんにとってのテーマであり、これまで妻がやってきたことの中で少しでも自信を持てるようなことを一緒にやってあげたいと考えている。その一つが講演活動であり、落語絵本の朗読である。病気になったことで同情されて、「認知症なのに上手」などと言われることが妻にとっては耐えられないことのようだ。だから絵は絶対描かない。上手く描けない自分が耐えられないようである。出来ない能力を追求されない環境の中で、できることを考えていきたい。
一方、介護するF.B.さん自身の社会性も失われていき、孤立する怖さを感じることもある。また、兄弟3人がすでにがんで亡くなったこともあり、どこまで健康で介護できるかという不安も感じている。今は生き方をちょっと方向転換しながら、生きる方法をふたりで考えていくそんな段階だと思う。
2002年11月頃、最初に異変に気付いたのは妻で、何か違和感を覚え、病院の精神科にかかった。半年後、疑われたうつ病ではないと診断され、大学病院の神経内科を紹介された。そこで、受診から3カ月後に「若年性アルツハイマー型認知症」と診断された。
その頃にはすでに妻に記憶障害がみられるようになっており、父がアルツハイマー型認知症で介護施設にいたF.B.さんは、ある程度の覚悟はしていた。しかし、当時、「若年性アルツハイマー型認知症」に関する情報は極めて少なく、どれも「進行が早く、6~7年で全過程をたどって寝たきりになる」といったものであった。「どうしたら進行を食い止められるのか」と日々仕事も手につかず、ネットで情報検索をする日々が続いた。
その後、1つ障害が出たらその障害をストップさせようと、F.B.さんは病院の臨床心理士にあれこれ相談して、妻の脳の機能回復訓練を開始した。1年ほど続けたが、妻が「つらいつらい。やりたくない。死にたい」と苦痛を訴えたために断念。協力してくれた臨床心理士に申し訳なくて、それを機に先進的な情報の入る大学病院の専門外来に転院することにした。
F.B.さんは、それでも良いと言われることはできるかぎり取り入れたいと考えており、妻を治験に参加させ、個人輸入でメマンチンや漢方の八味地黄丸も服用を試みている。
2010年春、F.B.さんはデザイン事務所を撤退。自宅で仕事をするようになり、妻と24時間一緒にいる暮らしを始めた。それまでの3,4年の間、妻はヘルパーさんが帰った後、テレビの前で7~8時間ただずっと座って不安や焦り、恐怖感を感じていたかと思うと、過酷であったろうなと、そのことに気付かなかったことに後悔している。
どういうケアをすれば妻が穏やかに暮らせるかが、F.B.さんにとってのテーマであり、これまで妻がやってきたことの中で少しでも自信を持てるようなことを一緒にやってあげたいと考えている。その一つが講演活動であり、落語絵本の朗読である。病気になったことで同情されて、「認知症なのに上手」などと言われることが妻にとっては耐えられないことのようだ。だから絵は絶対描かない。上手く描けない自分が耐えられないようである。出来ない能力を追求されない環境の中で、できることを考えていきたい。
一方、介護するF.B.さん自身の社会性も失われていき、孤立する怖さを感じることもある。また、兄弟3人がすでにがんで亡くなったこともあり、どこまで健康で介護できるかという不安も感じている。今は生き方をちょっと方向転換しながら、生きる方法をふたりで考えていくそんな段階だと思う。
インタビュー家族04
- 最初は妻自身が違和感を感じて精神科を受診した。当時は記憶障害などの症状はなく、「なんか変だな」という感じと気が滅入るということで、うつ病を疑われていた
- がんの母親の看病中にうつ症状があった妻は、精神科にかかっていたが、主治医である精神科医からうつ病ではないようだと専門医を紹介され、そこで認知症と診断を受けた
- 臨床心理士の協力のもと、妻のリハビリをがんばってやってきたが、1年ほどして妻が苦痛を訴えるようになり、心理士に言い出しにくくて転院することにした
- 診断から1年半くらいは高次脳機能障害者向けのリハビリを臨床心理士の指導のもとで週2-3日受けていたが、効果が見られず、本人にとっても苦痛になってきたので病院を替えた
- 脳に対するリハビリは本人に苦痛を与えるので断ち切った。スポーツクラブで運動したり、朗読絵本を読み聞かせたり、自分の得意分野ではまだ頑張れるようだ
- 漢字の書き取り、計算ドリル、パズルなどをやったが、全く効果がなく苦痛だけで終わった。できなくなっていくことは本人も自覚しているのですごくつらいだろう
- 診断前から妻の母ががんで入院していたので、診断後、車の運転はやめてほしいと医師に言われたが、しばらくは車で病院通いをしていた
- 妻が一人で外出して、道に迷ったりスーパーで他の人のものを間違えてバッグに入れたりしたときに助けてもらえるようにと、名前や症状を書いたカードをつくった
- 妻は発病後、落語絵本の読み聞かせボランティアを年に数回のペースで再開した。大きなところでは難しくなってきたので、小規模な集まりでも続けさせてあげたい
- 病院主催の家族会は医師も参加するので治験情報なども聞けて、普段の診療のときよりいろいろ質問ができる。病院で得られない介護の情報も他の家族から得られる
- 診断を受けて3~4年たった頃から家事ができなくなり、ヘルパーさんを使ったり、デイサービスを使うようになった
- 妻は家事ができないので、週3日ヘルパーさんに介助をお願いしている。障害者向け(自立支援医療)のガイドヘルパーさんにスポーツクラブや映画に連れて行ってもらう
- 義母の告別式で、妻は、自分が認知症になったことで、十分な看護ができなかったと挨拶し、兄弟・親戚一同とても驚いていた。その後、親しい友人には電話や郵便で病気を知らせた
- 最初は、本人としては「こんなに若いのに」と周囲に同情されることがショックだったらしく、そのせいでもっと外に向かうようになったのかもしれない
- ポップアップ絵本の立案とデザインをしていた妻は、早い段階で空間認識に障害が出てきて、一番最初に仕事ができなくなった
- 当時は情報も乏しかったので、妻が50歳で診断を受けたときは非常にびっくりしたし、どうしようかと思った。いろいろ調べてもよくわからないし、仕事も手につかなかった
- 妻の発症から8年、仕事の場を自宅に移し、24時間介護をするようになると社会性がなくなり自分が孤立するかもしれないと思うと怖かった
- 若年性アルツハイマー型認知症の妻は、診断後8年経つが、関節に力が入らず立ち上がれないという症状が出てきた。新たに薬を飲み始めてから一応収まっている