インタビュー時:50歳(2012年5月)
関係:三女(実父を介護)
診断時:実父68歳(70歳で逝去)、三女42歳
1995年に脳梗塞を発症。実父の言動から認知症を疑い、病院をいくつか受診したが、なかなか認知症と診断されず、2004年に脳血管型認知症との診断を受けた。父親は失語があり、母と2人暮らしで、娘3人は独立していた。看護師・ケアマネジャーである介護者は当時、夫と2人暮らし。週末通って介護を手伝っていた。平日はデイサービスを利用し、母が介護していたが、父は嚥下性肺炎を繰り返して70歳で逝去した。
プロフィール詳細
近畿地方在住のI.D.さんは、会社員の長女と看護師の次女と看護師・ケアマネジャーの自分と3姉妹である。父親は1995年に脳梗塞となった後、失語はあったが、麻痺はなく両親は二人暮らしをしていた。父親は元々怒りっぽい性格ではあったが、うまく話せないので怒ってテーブルをたたいたり物を投げる、同居していた母親を蹴ったり大きな声を出す、近所の人が音楽を鳴らしながら車で帰宅するとその音に反応して怒鳴りに行く等が目立つようになり、認知症ではないかと気づいた。また、便器の外に排泄したりトイレでない室内に排泄したり、脱いだ紙パンツを自分で探せないこともあった。受診したが認知症との診断はされず、睡眠導入剤と向精神薬が処方され、介護認定も要介護1であった。その後、徘徊のために警察に保護されたり、失禁等の症状が徐々に悪化したりして、2004年に脳血管性認知症の診断を受けた。
脳梗塞発症後よりデイサービスを利用していたが、デイサービス利用時や病院に入院した際にも職員を怒ったり、叩いたり、物をぶつけることや、他の利用者にお茶をかける等の攻撃的な態度をとるため、I.D.さんはいつも誰かに迷惑を掛けているのではないかと心配することが多く、家族は周囲に謝ってばかりいた。ショートステイも「対応が困難なので」と断られたり、嚥下障害のためによだれが出てしまい自分でも一生懸命拭いたりするが、周囲の方が不快な思いをしているのがわかるので父親も辛かったと思う。
家族の中で父親の治療や介護について意思決定をするのはI.D.さんであったことから、常に「これでいいのか」、「誰かに答えを出して欲しい」、「家族はどういうことに注意して、どう対応したらいいか教えて欲しい」という思いを抱えており、父親に「どうしたい?」と聞くこともできないため、I.D.さんは誰にも相談できず負担であった。母親に「ケアマネジャーとして他のお年寄りの面倒をみているのに、どうして自分の親のことはわからないのか」と言われグサッっときた。当時は専門職としても認知症について知らなかったし、父親にどう対応したらよいかわからず、I.D.さんは自分なりに情報を集めたり調べたりしたが、父親の最期の怒涛のような1~2年の人生を、父親の意思でなくI.D.さんの判断で左右したかもしれないと思うと、後悔はずっと残っている。
母親は毎日の介護でストレスを抱えていて大変だったと思う。I.D.さんは週末の通い介護であったことから父親には優しくかかわれる場面があった。その時の父親の安心したような表情により、自分の判断は間違っていなかったと思えたことが、I.D.さんが介護をしていく上での支えであったかもしれない。介護していた期間は父親中心の慌ただしい、焦る気持ちを抱えながらの生活であり、自分がどうであったか覚えていないくらい余裕がなかった。I.D.さんは夫に対しても迷惑を掛けながら、また仕事をしながらの介護であったが、仕事が気分転換になっていたように思う。私生活とのラインが引けて、自分も客観的になれて気持ちの整理もつけられたと考えている。
脳梗塞発症後よりデイサービスを利用していたが、デイサービス利用時や病院に入院した際にも職員を怒ったり、叩いたり、物をぶつけることや、他の利用者にお茶をかける等の攻撃的な態度をとるため、I.D.さんはいつも誰かに迷惑を掛けているのではないかと心配することが多く、家族は周囲に謝ってばかりいた。ショートステイも「対応が困難なので」と断られたり、嚥下障害のためによだれが出てしまい自分でも一生懸命拭いたりするが、周囲の方が不快な思いをしているのがわかるので父親も辛かったと思う。
家族の中で父親の治療や介護について意思決定をするのはI.D.さんであったことから、常に「これでいいのか」、「誰かに答えを出して欲しい」、「家族はどういうことに注意して、どう対応したらいいか教えて欲しい」という思いを抱えており、父親に「どうしたい?」と聞くこともできないため、I.D.さんは誰にも相談できず負担であった。母親に「ケアマネジャーとして他のお年寄りの面倒をみているのに、どうして自分の親のことはわからないのか」と言われグサッっときた。当時は専門職としても認知症について知らなかったし、父親にどう対応したらよいかわからず、I.D.さんは自分なりに情報を集めたり調べたりしたが、父親の最期の怒涛のような1~2年の人生を、父親の意思でなくI.D.さんの判断で左右したかもしれないと思うと、後悔はずっと残っている。
母親は毎日の介護でストレスを抱えていて大変だったと思う。I.D.さんは週末の通い介護であったことから父親には優しくかかわれる場面があった。その時の父親の安心したような表情により、自分の判断は間違っていなかったと思えたことが、I.D.さんが介護をしていく上での支えであったかもしれない。介護していた期間は父親中心の慌ただしい、焦る気持ちを抱えながらの生活であり、自分がどうであったか覚えていないくらい余裕がなかった。I.D.さんは夫に対しても迷惑を掛けながら、また仕事をしながらの介護であったが、仕事が気分転換になっていたように思う。私生活とのラインが引けて、自分も客観的になれて気持ちの整理もつけられたと考えている。
インタビュー家族25
- 父はどうせわからないだろうという医師の態度が嫌だった。家族は、検査結果だけでなく、医師に具体的な日常生活上の留意点や対応方法を教えてほしいと思っている(音声のみ)
- 父は外に出て行っては戻れなくなり、近所の人や警察に保護してもらったりしたが、自分の故郷やデイサービスの方向に向かって歩いているようだった(音声のみ)
- 脳梗塞を患った父は言葉が出なくて苛立って物に当たるだけでなく、家の外の大きな音に反応して隣家に怒鳴りに行くようになった(音声のみ)
- 父はデイサービスで他の利用者に喧嘩をふっかけてお茶をかけたり、気に入らないヘルパーさんや看護師さんを叩いたりしたので、いつも謝ってばかりだった(音声のみ)
- 殴る蹴るなどの暴力を受けていた母は、父が病気だとわかっていても優しくなれなくなっていて、その気持ちがまた父親に伝わったのかもしれない(音声のみ)
- 父が認知症になってからはいろんなことが父中心になってしまったが、仕事をすることで気分転換になった(音声のみ)
- 父は自分で食べようとしてしまうので、胃ろうの意味がないと思い、胃ろう造設について医師や姉と意見が対立した。1ヶ月後に父が亡くなり、本当によかったか考えてしまう(音声のみ)